めぐりあう
バックの中から書類を取り出そうとする由紀さんの前に、わたしはそっとコーヒーを置いた。
「あ、ありがとう。ごめんね、東條さんがまだいないってわかってたんだけど……こんな顔だから、職場にも居辛くって」
取り出した書類をまとめて、テーブルの上でとんとんと整えると、わたしの顔を見上げて目を細める。その瞼は誰が見てもわかるくらい腫れていて、だからそんな由紀さんの気持ちも理解できた。
「みんなどうしたのって聞くから、彼氏ができたって話したら、嘘でしょ、別れたんでしょって言うの。いちいち説明するのも面倒だし、なんだか変な同情の視線ばっかりだし、午前中はなんとかやり過ごしたけど、逃げてきちゃった」
昨日はひとつにまとめられていた髪も、今日は真っ直ぐに下されていて、それも瞼を隠そうとした結果なのかもしれない。
その髪を耳にかけて、由紀さんはコーヒーに口をつけた。
「ん、ヒナちゃんのコーヒー、おいしい。東條さんが淹れてくれるのもおいしかったけど、なにか違う。よく太一が言ってるのは、こういうことね」
「コンちゃんが?」
「うん。ヒナちゃんが作ってくれるものって、誰でも作れるものなのに、普通じゃない味がするって。ときどきね、真似して作ってくれようとするんだけど、どうしても普通の味にしかならないの」
わたしに向けられる柔らかくてふわふわした笑顔は、とてもしあわせそうで、昨日の夜のことがまるで嘘みたいに思えてくる。
わたしと東條さんが事務所に戻ってきても、由紀さんはぼろぼろと泣いていて、やっぱり支離滅裂なままで、困惑顔のコンちゃんとふたりで、ごめんなさいとありがとうを繰り返していた。
ただ、ふたりはしっかりと手を握り合っていて、コンちゃんが由紀さんに向ける甘い視線や、優しい気遣いを見ていれば、結果としてハッピーエンドになっただろうことは一目瞭然だった。
わたしはキッチンにトレイを戻して、多めに淹れたコーヒーの残りをカップに注ぐ。そうしてその場でひとくち飲んだ。
由紀さんはわたしの定位置となっている応接セットのソファに座っていて、さっき取り出したものとは別の書類を広げて忙しそうにしている。由紀さんが来るまで読んでいた本をソファの向こうの本棚に置いてきてしまったのだけれど、取りにいきづらい雰囲気だ。
と、由紀さんの電話が鳴って、素早く通話に出た。
「はい、江藤です。……そうです、今、東條さんのところで……はい、例のカフェの件ですか……えぇ……はぁ、またですか。でも、オープンは決まりなんですよね? 確かに東條さんの仕事は早いですし、いつもわがままきいてくれますけど……そのままお話ししておきます。年末イベントのポスターと、デュオの改装後の写真はそのままで……わかりました」
そのあとも、電話の相手との会話は続いていた。相手は会社の人物なのだろうと想像できるけれど、淡々と話をしながらメモを取る由紀さんに、わたしはつい見とれてしまう。
今の状況がいつもの由紀さんなのであれば、昨日はどれほど混乱していたんだろう。どれだけ辛くて、悲しかったんだろう。理由は推測するしかないけれど、そうならざるを得なかった気持ちは痛いほどよくわかる。
通話を終えて顔を上げた由紀さんと、ふと目が合った。
「ん、どうかした?」
「いえ……なんか、すごいなって思って」
「なに、すごいって?」
微笑み返してくれる由紀さんに、自分がなんて拙い表現しかできないんだろうと恥ずかしくなる。昨日とのギャップと、単純にテキパキと仕事をこなしている姿が、わたしにそう言わせたのだけど。
そこから先の言葉も見つからなくて、わたしは笑ってごまかした。
「仕事ができるオンナって感じ?」
ペンをこちらに向けて由紀さんが言うから、わたしは頷く。
「そんなふうに見てくれるのは嬉しいけど、ホントはその逆。仕事ができないから、必死で頑張ってるの。太一もそのへん、勘違いしたままで……だから昨日みたいなことになっちゃったんだけど」
由紀さんは分厚い手帳を閉じてペンと一緒にテーブルに置くと、小さく溜息を吐く。
「もう一年くらい前に、太一が付き合おうって言ってくれたの。でもね、太一の就職が決まったらっていう条件付き。わたしが条件を出したんじゃないのよ、太一が自分で言ったの。仕事してるわたしと付き合うには、自分も対等でいたいとかって」
「そう、だったんですね……」
コンちゃんが就職先にこだわって仕事を探していた理由は、これだったのかと、わたしは妙に納得した。
「でもね、べつにそんなこと、わたしは気にしてなかったの。そのころからもう、お互いの家を行き来したり、休みの日は一緒に過ごしたり、付き合っているようなものだと思っていたから。ただ、太一の気持ちが良い方に変わるなら、そういうのもいいんじゃないかなって思って。わたしもちょっと年上の女ぶって、余裕があるふりをしたのが悪かったの」
といっても、二つだけね、と由紀さんは付け加えた。そうして、静かにコーヒーを飲む。
「ヒナちゃんも知ってると思うけど、結局仕事がなかなか決まらなくて。わたしは今のままでいいって言ったのに、太一って、あんなふうなくせに、意外と自分に厳しかったりして。ついでにプライドもそれなりに高いみたいで。先月、一度振られたの。でも、わたしはどうしても一緒にいたかったから……」
そこまで言って、由紀さんは声を詰まらせる。
きっとそれは、コンちゃんがわたしに誰かを重ねた時期のことだ。あのとき、東條さんはコンちゃんの大切なひとの名前を言っていて。わたしははっきり覚えていないけれど、それはきっと、由紀さんの名前だったんだと思う。
「もしかして、外で派手なケンカとかしちゃいましたか?」
「えっ!?」
桃華ちゃんが見たといっていた「彼女」も、きっと由紀さんだろうと確かめてみる。すると徐々に紅潮していく顔を覆って、由紀さんは、あぁぁと声を上げた。
「やだなぁ、見られてたの?」
「わたしじゃないんですけど」
「そう、うん。そんなこともあった。あんなふうに突き放されてもすがりつくぐらい、ホントにわたし、太一のことがすごく好きなの」
真っ赤になってしまった頬を押さえながら、わたしを見る由紀さんは、まるで友達に恋愛相談している女子高生みたいだ。
「わたし、また恥ずかしいこと言ってる。でもね、こんなことを聞いてくれて、わたしと太一のことをわかってくれるひとは東條さんしかいなくて。だから昨日は……ごめんね」
わたしは首を横に振る。東條さんと同じように、コンちゃんと由紀さんがしあわせになれたなら、それでいい。
わたしたちはふたりで、コーヒーを飲みながらそっと微笑んだ。
「ただいまー! 由紀ちゃん、ごめんごめん、おまたせ」
ばたばたと音を立てて帰ってきた東條さんは、わたしの手からカップを奪うと、喉が渇いたとぬるくなりはじめていたコーヒーを一気飲みする。
「ヒナちゃん、コーヒーのおかわりちょうだい」
にっこり笑ってテーブルを指差し、わたしの手の中にカップを戻すと、パソコン横の棚からクリアファイルを取り出して由紀さんの向かいに座る。
「急にすみませんでした。もしかして、前の仕事、急がせちゃいましたか?」
「いや、あっちはいいんだ。ついつい長居させられるとこだったから、ちょうど良かった。だけど、このあと急遽ソープ嬢の写真撮りが入っちゃってさ」
お湯を沸かしながら、わたしはまたか、とそっと息を吐く。由紀さんはもちろんそういう仕事を東條さんがしているのを知っているようで、そうなんですかとごく普通の相槌を打った。
由紀さんは電話で話していた年末イベントと、ファッションビルの改装後のポスター写真について東條さんに依頼していた。年末なんて、まだまだ先のことだし、ファッションビルの改装は今始まったばかりだという。こういう仕事がどういう順序で進められているのか知らないわたしにとっては、どれもとても遠い先のことに思えた。
つい先日買ったばかりのコーヒーは、格段にいい香りがする。らせんを描くようにお湯を注ぎながら、わたしは沸き立つ匂いをいっぱいに吸い込んで楽しんだ。
東條さんのカップにコーヒーを注ぎ、テーブルに持っていくと、あまり見たことのない真剣な表情で、東條さんは由紀さんから渡された書類に目を通していた。
ほとんどの場合、ここに真面目な仕事関係のひとが来ることはなくて、東條さんが向こうへ足を運んでいる。この事務所にやってくるのは、写真を撮りに来るオンナノコと、その業種の関係者ばかりだ。
だからわたしはキッチンに戻ってコーヒーを飲みながら、マジメな東條さんを盗み見ていた。
「それから……例のカフェなんですが」
「あぁ、あの名もなきカフェね、一応いくつかサイトのイメージは作ったんだ」
「それがですね、話が二転三転していて、どうやらこの一、二ヶ月中にオープンするとかって話で」
「そうだってね、ケイゴから聞いてるよ」
「ケイゴって、渋谷さんですか?」
「あれ、由紀ちゃんに言ってなかった? ぼくね、ケイゴと幼馴染なんだよ。だからディマーレのサイトもぼくが作ったって話、してなかったっけ?」
がしゃん、と。
足元でカップが割れた音よりも、東條さんが驚いた顔をしてこっちに向かってくるのに気がついて、わたしは我に返った。
「ヒナちゃん、大丈夫?」
「す、すみません、仕事中にごめんなさい」
すぐさましゃがんで割れたカップの破片を拾う。
「素手じゃあぶないよ。向こうにほうきがあるから、それで拾って」
東條さんの指がわたしの手に触れると、わたしは掴んでいた破片をまた床に落としてしまう。
「ヒナコ?」
「ほうき、持ってきます」
東條さんの顔を見れないまま、わたしは振り返ってキッチンの奥にあるロッカーを開けた。中のほうきを持ち出して、ロッカーの横のラックから古新聞を取る。こういうものを片付けるのは慣れている。けれど、ほうきを持つ手が震えているのが、自分でもよくわかった。
東條さんが戻ったのを確認して、わたしは彼らに背を向け、腰を低くして割れたカップの破片をほうきで拾い集めた。
「じゃあ、えっと、そう、だからね、ケイゴから諸々の事情は聞いたんだ。もしかしたら、当初の予定通りあのショッピングモールに入るかもしれないってね。そもそも店のコンセプトもまだはっきりしてないらしいし、カフェじゃなく、レストランの可能性もあるんだけど、そこのシェフをどうするかで、なんだかんだで、ぼくもねぇ、よくわかんなくてさ。ケイゴもケイゴでオーナーに頭が上がんなくて、どうやら振り回されてるらしいよ」
「はい、うちも同じくで……オーナーの高槻さんには、他の仕事もいただいてるぶん、恥ずかしながら、言いなり状態なんです」
新聞に茶色くシミがつく。その上に破片を集めて、包み込むようにしてゴミ箱に捨てた。細かい破片は、由紀さんが帰ってから掃除機をかけよう。
そんなことを考える一方で、わたしは東條さんと由紀さんの話を一言も聞き逃すまいと、耳をそばだてていた。
間違いない。渋谷圭吾、オーナーが高槻、店名はディマーレ。
体の震えだけじゃなく、胸が苦しくなって、わたしはキッチンのシンクに手を掛けたまま、床にしゃがみ込む。
それから由紀さんが帰るまでの間、そうたいして長い時間ではなかったのだと思うけれど、わたしはそのまま動けずにいた。
「ヒナコ、どうしたの」
そうやって、カップを下げにきた東條さんが声を掛けてくれなければ、まだずっと、わたしはキッチンの床に座っていたかもしれない。
隣にしゃがんでわたしの顔をのぞき込む東條さんを見て、ふと気が緩む。
「めまいが、して」
「それは大変だ」
半ば嘘ではなかったけれど。心配してくれる東條さんに、胸がちくりと痛む。
そうして東條さんはわたしを簡単に抱き上げて、さっきまで由紀さんが座っていたソファにおろしてくれた。
ついテーブルに置かれている書類に目を向ければ、わたしの視線に気がついて、東條さんはそれらを振り返って首を傾げる。
「ぼくもね、カワイイオンナノコたちの裸を撮るばかりが仕事じゃないんだよ。驚いた?」
それについては、わたしは素直に頷いた。
気にしていることは他にあるのだけれど。そのことを直接東條さんに聞くのは不自然で、だからわたしは気分が悪いふりをして、瞼を伏せる。
と、ドアをノックする音がして、ほどなくオンナノコの声がした。撮影があったことを思い出して、わたしは気分が一層重くなる。
「こんにちはー」
「あ、久しぶりだね。前の店辞めたって聞いてから、しばらく経つけど元気だった?」
「はい。実家の母が入院しちゃって、ちょっとだけ帰ってたんです。でももう元気になったから、戻ってきました」
オンナノコを振り返りながら話をする東條さんの横で、わたしは内心、彼女の母親は娘が風俗で働いていることを知っているのかと心配になる。そうして、自分の母親の顔がふと浮かんた。
わたしこそ、家が火事になったあと、大丈夫だと電話したきりだ。実家を飛び出してから連絡を取ることは少なかったけれど、それでもこんなに長い間音信不通状態を続けたことはない。
「あー、彼女、ですね。例の、みんなが騒いでる女の子」
「そんなに噂になってるのか。ぼくのカワイイ彼女のこと」
「当然ですよ、わたしだって、信じられなかったし。向こうに帰ってるとき、前の店長からわざわざメールがきて、びっくりしました」
笑いながら東條さんは立ち上がるけれど、わたしは振り返ってはじめまして、なんて挨拶する気にはなれなかった。
こうして最初は穏やかなオンナノコでも、ちくちくとわたしに棘のような言葉を吐き出してくることがほとんどだ。わたしは小さく息を吐き出して、冷静さを取り戻そうとする。
「そう、ナツミちゃん、実はね、きみがいない間にいろいろあって、今は撮影のときにぼくの彼女を立ち会わせるか、それともカメラで録画するか、どちらかを選んでもらってるんだ。どうする?」
東條さんが呼びかけた名前に、わたしはつい反応してしまう。
「え? なにがあったんですか。もしかして、暴行されたとかって訴えられちゃいました?」
「んー、あいかわらず鋭いなぁ、ナツミちゃんは。まぁそんな感じ。で、どうする?」
「うーん、どうしようかな」
その名前を聞いて、彼女の声を、話し方を、すでに知っているかもしれないと錯覚した。
そんなはずがない、と。でも、確かめたくて、わたしはゆっくりと彼女を振り返る。
だって彼女が、ソープなんて場所で働いているはずがないんだから。
黒髪ショートカットの小柄なオンナノコが、ゆっくりとこっちを向いた。
そうして目が合ったわたしたちは、きっとふたりとも同じような顔をして、同じような気持ちになっていたんだと思う。
「ふたりとも、どうしたの。ヒナちゃんとナツミちゃんって、知り合い?」
わたしと彼女は。ヒナコとナツミは。夏美と陽奈子は。
東條さんの言葉ですべてを把握して、次に目が合った瞬間には声を上げて笑った。