さくらのきのした
住宅街を右へ左へ迷うことなく走り続けた東條さんは、ふと足を緩めた。そうしてたどり着いた公園には、街灯に照らされた背の高い桜の木が一本立っていた。
「走るとあったまるかなぁと思って走ったけど、身体があったまると、今度は顎がますます痛くなるな。はぁ、今度はコンちゃんにナニをしてやろうかな」
弾む息を整えながら、東條さんは桜の木の下にあるベンチに座る。続いてわたしも大きく息を繰り返しながら隣に座った。
小ぢんまりとした公園にはブランコ以外の遊具はなくて、小さな花壇にサルビアとマリーゴールドが植えられている。てっきり花見の名所にもなっている近くの大きな公園へ向かうものだと思っていたわたしは、どこか拍子抜けしながら辺りを見渡した。
と、わたしの肩を東條さんがとんとんと叩く。
「こうして、空を見上げてみて」
ベンチにもたれ、上を向く東條さんに倣って、わたしも同じように夜空を見上げた。
「あ……」
わたしは、つい声を上げる。
暗い夜空のキャンバスに広がるのは、柔らかな街灯に照らされた薄紅の花びら。青い空の下で咲くそれより、どこか妖しげで美しい。
「やっぱり、まだ五分咲きか」
「そう、ですね」
「満開になるとね、こうしていつまでも見上げてることなんかできなくなるよ。桜の花がどんどんこっちに迫ってきて、息が詰まりそうになるんだ。だから、散り始めがいい」
満開になり、その花びらがふわりと落ちてくるのを想像しながら、わたしは東條さんの横顔を垣間見た。
「でも、散り始めれば、実際に花びらがこっちに迫ってくるんじゃ……」
「そう、だから、いいんだよ。花びらが実際に降ってくるぶんには、それが現実だから平気なんだ。でも、本当は迫ってくるはずのないものがそういうふうに見えるのは、とても怖い。思わず目を背けたくなるけど、あまりに美しすぎて、それすら許されない。そのうちに、桜に埋もれて死んでしまうんじゃないかって苦しくなって、逃げ出したくなるんだ」
わたしは桜に目を戻して、東條さんの気持ちに近づこうとするけれど、なんだかよくわからない。今まで何度も桜を見ているけれど、キレイだと思うだけで、そんなふうに考えたことなんてなかった。
東條さんのことを、ときどき理解できなくなる。でも、たとえ同じ気持ちになれなくても、近づくことができなくても、少しだけでも寄り添っていたい。
そう思って隣を見れば、目を細めていた東條さんが静かに瞼を閉じた。
そのまま黙ってしまったから、わたしは慌てて東條さん手を握り、顔を覗き込む。
「死んじゃ、だめですよ」
わたしの言葉にふっと笑って、東條さんは瞼を開く。
「ヒナコに言われたら、死ねないな」
東條さんが桜を見上げるために崩していた姿勢を直すのを待って、わたしは東條さんの首に抱きついた。東條さんはわたしに答えるように背中に手を回し、抱きしめてくれる。
「今日も、ヒナコに我慢させちゃったね」
なんのことかと東條さんを見れば、微笑んでわたしの鼻先にキスをした。
「目が合ったとき……ほら、由紀ちゃんが泣いてて、ヒナコが帰ってきたときね。あのときのヒナコ、絶望的な顔してたから」
「それは」
「ぼくも、気が緩んでいたのかもしれない。ヒナコはぼくの仕事を見ているし、それに付随する諸々にも大分慣れてくれたみたいだし。ついでに今回はちょっと事情が違ったからね、だからヒナコが帰ってきたことはわかっていたんだけど……すぐに合図でもすればよかったな。ごめん」
唇の端にキスをして、わたしを見た東條さんは、驚いたように目を見開いた。
「ヒナコ、怒って、る?」
俯いて、わたしは抱きしめてくれている東條さんから離れようと、身体をよじった。けれど東條さんの手は、むしろもっと強くわたしを引き寄せる。
そして見られたくない顔をのぞき込むから、わたしは両手で顔を覆い隠した。
「怒ってるんなら、怒ってるって、言っていいんだよ」
わたしはただ、首を横に振った。
絶望的だなんて。そんな顔をしてしまったことも、それを見られてしまったことも恥ずかしかった。それに。
「ごめん、わかってたんなら早くしろって思うよね。けどね、コンちゃんはぼくにとって大切なやつで、そのコンちゃんのことを愛してくれてる由紀ちゃんも、ぼくにとっては大切なんだ。だから、あのときはすぐにヒナコを見てやれなかった。もちろん、コンちゃんよりも、由紀ちゃんよりも、ヒナコのことが一番大切だよ」
ごく淡々と、東條さんはゆっくりとわたしに言い聞かせるように説明してくれる。
「……わかって、ます」
「うん」
「わかっているから、自分のことが恥ずかしくなったんです」
顔を覆い隠しているわたしの手に、東條さんの手のひらがそっと重なる。
「東條さんはわたしのことを信じてくれていたのに、わたしは東條さんのことを……信じられなかった」
「それは、ぼくがそうさせてしまったんだ。ヒナコが自分を責めることじゃない」
顔を、見せて。
東條さんの言葉に、ふと力が抜けていく。そうしてわたしの手は、東條さんの手に寄り添うように、わたしの元を離れていった。
「でもね、ぼくはちょっと嬉しいんだ」
わたしの手のひらを見つめて、東條さんはそこにキスをする。
「あんなふうにヒナコがぼくに対して表情を変えてくれるようになったことが、ぼくは嬉しい。それに今だって、ちゃんとヒナコ自身の気持ちを、ぼくに伝えてくれた。会ったばかりのころは、魂が抜けたみたいに無表情で、かと思えば険しい顔してみたり、泣いてたり。いつだって、ヒナコの目に、ぼくは映っていなかった。けれど、今はヒナコの目にぼくがしっかり映ってるってわかるんだ。それがね、本当に嬉しいよ」
目尻をぐっと下げて、優しく微笑んでくれる東條さんに、わたしは耐えられなくなって目を逸らす。
「そうやって照れたりするのも、すごく可愛い」
唇同士が触れ合うだけのキスが、もどかしかった。眠る前のように、もっと甘く深いキスがしたい。
「東條さん」
「うん」
「わたし……怖いんです」
「怖い?」
「東條さんのことを好きになればなるほど、不安になることが増えていく気がして」
どんどんわがままになって、この先きっと、自分の気持ちを受け入れてくれなきゃ気が済まなくなってしまう。どんなことに対しても、相手も自分と同じ気持ちであってほしいと望んでしまう。けれど思いどおりにならないすべてを、子供みたいに駄々をこねればなんとかなるとも思っていない。
その両極端な気持ちのバランスを上手にとることができずに、どちらかに傾いたまま、東條さんに受け止めてもらえることなく倒れてしまいそうで怖い。
「ぼくだって、不安だよ。本当に、ヒナコがぼくを受け入れてくれるのか、いつも不安だ」
はっとして東條さんに目を合わせれば、穏やかな表情を変えずにわたしを見つめていた。
「きっとね、誰かを好きでいる間は、ずっと不安なんだよ。だから、確かめるためにこうして抱きしめてキスをする。言葉では表せない気持ちをお互いに感じられたなら、初めて少しだけ満たされる。でもね、身体が離れてしまったら、また不安になるんだ。そうしてすぐに抱きしめたくなる。誰かを好きになるってことは、その繰り返しなんじゃないかな」
わたしを抱きしめて、首筋に、耳にキスをしながら髪を撫でてくれる。
「急がなくていいから。もっと、ぼくのことを好きになって。もっと、ヒナコとのことを教えて」
「……はい」
ふと、食材と一緒に冷蔵庫に隠してきた「わたし」のことを思い出す。いつか、話さなければいけない。きっと、いつまでも隠し通せることじゃない。こうして先延ばしにすればするほど、どんどん話しにくくなっていくとわかっているのに、わたしはまた胸の奥に仕舞い込む。
東條さんが抱きしめてくれている間、わたしはすべてから目を背けて、何もかも忘れて、心地よさに酔うことだけを許されている気がしていた。
けれど、もっと東條さんのことを好きになれば、きっといつまでも目を背けていられなくなる。むしろ、抱きしめられれば必然的にわたしは「わたし」を思い出して、罪の意識に苛まれるかもしれない。
そんなふうに、なりたくない。
だから、早く言わなくちゃ。
「ヒナコ、桜の木の下には、死体が埋まってるんだよ」
「えっ!?」
東条さんの突拍子もない話に、ゆっくりと固まりかけていた告白の決意は、またしてもわたしの中に置き去りにされてしまう。
驚いて顔を上げると、話の内容とは裏腹に、東條さんがにこにこと笑っていた。
「だから、きっとこのベンチの下にも誰かの死体が埋まっているんだ。その誰かの血を、この木が吸い上げて、美しいピンク色の花を咲かせてる」
「なに言ってるんですか。うそ、ですよね……?」
そんなはずがない、とわかっていながらも、わたしはつい聞き返してしまう。
「昔からよく言われている話だよ。じゃあ、ふたりでここを掘って、確かめてみようか」
「い、いやですっ」
「あ、もしかして、ホントに死体が埋まってるって思っちゃった? 掘り返したら呪われちゃうかもしれないし?」
「そんなの、信じるわけないじゃないですかっ!」
そうは言ってみたものの、わたしの頭は勝手に埋まっている死体を想像してしまっている。夏のホラーにはまだ早いし、どうして東條さんがそんなことを言い出したのかわからないまま、わたしは唇を尖らせた。
その唇に、東條さんの唇が重なる。触れるだけと思っていたのに、何度も重なり合って次第に深くなっていく。欲しいと思っていたものを与えられたことは嬉しかったけれど、桜の木の下に埋まっているかもしれない死体のことと、東條さんの顎の痛みが気になってしまって、上手くキスに集中できない。
「痛く、ないんですか?」
わずかに唇が離れたすきに、余計な想像を掻き消すためにも、わたしは聞いた。
「痛いよ」
「だったら」
「いいんだ。ヒナコとキスするには、これくらいの痛みがちょうどいい」
縛るとか、縛られるとか、またそんな話になるのかもしれないと、つい笑ってしまったのだけれど。
いつもの薄暗い部屋では見ることのできなかった、東條さんのどこか淋しげな微笑みが、柔らかなオレンジの街灯に照らされていることに気がついた。
「ある小説家はね、信じられないほど見事に咲き誇る美しい桜の木の下に、腐乱して蛆の湧いた死体が埋まってるって想像をすることで、桜の美しさを受け入れることができたんだ。その気持ちがね、今のぼくにはよくわかるんだ」
風が吹いて頬にはり付いた髪を、東條さんの指が優しくはらう。
「ヒナコがぼくのそばにいてくれて、こうしてキスしてくれることが、ときどき夢かもしれないって思うんだよ。でも、この痛みがぼくを現実に引き戻してくれる。本当にヒナコがぼくの腕の中にいて、ぼくを見つめてくれているって実感することができる」
わたしはこくりと息を飲む。
少しだけ、東條さんのそんな気持ちが怖くなった。
「でもね、ぼくはマゾじゃないよ。これ以上痛いのは嫌だし、前にも言ったけど、縛られるよりは縛るほうが好きだし、そもそもこういう強烈な痛みは好きじゃないんだ。なによりこの痛みが、コンちゃんのせいだってことが気に入らないんだけど」
「やっぱり、話はそっちに流れるんですね」
さっきまでのどこか危うい雰囲気はなんだったのかと、張り詰めていたものが一気に緩む。
わたしはコンちゃんが殴った、東條さんの左頬にそっと触れてみた。
「ヒナコの手のひらは、あったかいな」
わたしの手に自分の手のひらを重ねて、東條さんは静かに目を閉じる。吸い寄せられるように、わたしはその瞼にキスをした。それから、鼻先、頬、いつも東條さんがわたしにしてくれるように、唇を寄せる。
「ヒナコ、やっぱりいつもどおりのキスをしよう。ぼくは痛くても、もっとヒナコとキスがしたい」
そう言って、わたしの返事も聞かずにキスをする。けれど、それはいつもどおりにはいかなくて、どこか不自然で途切れ途切れで、もどかしくて。
唇が離れて顔を見合わせれば、不満足そうな東條さんが、あからさまに不機嫌な顔でこっちを睨んでいた。
「身体が冷えきる前に帰ろうか」
大きく息を吐き出しながら立ち上がると、東條さんはそっと自分の左頬を指で撫でる。それからぱっと表情を明るく変えて、わたしの手を取り歩き出したのだけど。
今度、コンちゃんは一体どんな目に遭わされてしまうんだろうと、心の底から心配になった。