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ゆずれないきもち

「わたしも……桃華ちゃんと、同じなのかも」


 穏やかな表情でわたしを見つめていた桃華ちゃんが眉根を寄せた。


「桃華ちゃんは、その彼を騙している間、彼のことをまた好きになったりした?」

「はぁ?」


 桃華ちゃんは露骨に嫌な顔を見せて、呆れたようにふっと吹きだした。


「ムカつくこと聞かないでくれる?」

「ごめん……」

「あー、もうマジでイラつく」


 身体を起こして、シーツの膨らみを拳で殴りつける。手ごたえのない空気が抜ける音が不満だったのか、桃華ちゃんはそのシーツを強く握り締めた。


「好きになんかなるわけないじゃん。そりゃあ最後にセックスしたとき、少しだけ勘違いしそうになったけど……そんなもん、アイツがアタシにしたことを思い出したら、すぐに正気に戻ったよ」


 同じように身体を起こしたわたしを、桃華ちゃんが振り返る。


「アタシはヒナコと違うよ。一緒にしないで」

「えっ……」

「ヒナコは、まだ好きなんでしょ。アンタをこんなふうに追い詰めたオトコのことが。だからそんなこと聞くんでしょ」


 悟られないような表情を作るような余裕なんかなかった。わたしは唇を噛んで、目を見開いてしまう。


「へぇ、東條さんに優しくしてもらいながら、頭ん中じゃ前のオトコのこと考えてんだ。案外シタタカなオンナ」

「違う、そんなんじゃなくて」

「こーやって姿隠して、名前も変えて、でも彼なら自分を探し出して迎えに来てくれるって夢見てるでしょ」

「そんな……」


 そんなことないって、わたしは否定できるだろうか。本当は、桃華ちゃんの言う通りなのかもしれない。


「あのスーパーで男に会うのも計算してた? アイツから話を聞いた彼が、今頃自分のことを必死で探してくれてると思ってんじゃないの」


 詰め寄ってくる桃華ちゃんに、わたしは首を横に振る。

 否定しながら、脳裏には駆け回ってわたしを探している彼を想像してしまう。あるはずがないとわかっていながら、期待してしまう。


「ヒナコがアタシと一緒なら、オトコはアンタのことなんか探してないし、迎えにも来ないよ」

「わかってる!」


 こみ上げる涙をこらえるために声を上げた。けれど、歯を食いしばっても、自分の膝に爪を立てても、涙が堰を切ったようにあふれ出す。


「そんなこと、わかってる……でも。でも、わたし、まだ信じられないの。あのひとが、わたしに嘘を吐いてたんだって、信じられない。どこまでが本当で、どこからが嘘だったのか、あのひとの口からは、直接何も聞いてないの。だからわたしはっ……」


 あのひとが、わたしを探していないことは知っている。

 あの夜、わたしからの着信もメールも残っているはずなのに、あのひとからは着信も、返信もない。それは、わたしが聞かされた話を肯定するのに十分な態度だった。

 それなのに、わずかな期待が大きく膨らんでしまうことがある。自分に都合のいい想像をしてしまう。


「こんな気持ちのままで、東條さんのそばにいるのが失礼だって言うんでしょ。桃華ちゃんは、わたしのことが許せないんだよね」

「……そうだよ。そーやって自分が可愛そうだって泣いてるオンナは嫌い。わかってる? アンタだって、東條さんに自分の気持ち隠してさぁ、騙してんじゃん。東條さんは優しいから許してるんだろうけど、あの人はバカじゃないよ。きっと、アンタの嘘なんか見抜いてる。恥ずかしいと思わないの?」


 何も言い返すことができなかった。桃華ちゃんの言う通りだ。

 わたしは優しく抱きしめてくれる東條さんに甘えて、自分の気持ちを隠し続けている。罪悪感がないわけじゃない。けれどそれをも包み込もうとしてくれる東條さんに、わたしはその罪を見て見ないふりをし続けている。


「アパートが……住んでた家が、火事で焼けちゃって」


 去年の十二月はじめのこと。古い小さなアパートは、一階からの出火で全焼に近い状態になってしまった。出火元の真上だったわたしの部屋は、かろうじて姿形を残していたものも消火の際にすべてが水浸しになり、使えるものなど何もなく、無論もう住まいとしての役割など果たせるわけもなかった。


「だから」


 火事が起こってから東條さんに出会うクリスマスイブまでのことを話すべきか迷って、わたしは一度口をつぐんだ。

 桃華ちゃんの経験に比べれば、わたしの受けた衝撃なんて、とても容易いものだと思う。言葉にするのも、説明するのもきっと簡単だ。けれど、わたしはまだ。


「ごめん、桃華ちゃん。わたし……わたしのすべてを打ち明けるのは、まず東條さんにって決めてるの。だからまだ、これ以上のことは話せない」


 わたしは桃華ちゃんに向かって、ごめんなさいと頭を下げる。

 桃華ちゃんのことを信じてないわけじゃない。きっと、話したところで東條さんにしゃべったりなんかしないと思う。わたしの気持ちの問題なだけ。


「桃華ちゃんは打ち明けてくれたのに、何も話せなくて、ごめんね」

「べつに……」


 桃華ちゃんはあからさまに大きな息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。


「ヒナコが自分ひとりで乗り越えるってゆーんなら、それでいいけどさ。そーゆーのって、なりふり構わず誰かに打ち明けて押し付けちゃえば、自分がラクになれるんだよ。吐き出したら、意外と冷静になれちゃったりするし。そのほうが、ひとりで抱えてるときより、ずーっとラクに前に進めるって、アタシはよく知ってるから。聞かされた相手はメーワクだろうけど、そのひとだけは、自分の味方だって思えるじゃん」


 わたしが顔を上げると、桃華ちゃんはふいと視線をそらして腕を組んだ。


「そんなメンドーな役を買って出てやろうと思ったけど、余計なお世話だったみたいね。ヒナコがもがき苦しんででも自分で答えを出したいってゆーなら、好きにしたらいいよ。でもね」


 ふたたびわたしの前にしゃがみ込むと、桃華ちゃんはじっとわたしを睨みつけた。


「今のヒナコのハンパな気持ちなんかより、アタシのほうが、ずーっと真剣に東條さんのことを好きだから。だから、東條さんを傷つけるようなことしたら、アタシはアンタを絶対に許さない。アンタが出した結論を東條さんが受け入れたとしても、アタシが納得できないような答えなんて許せないから。いい? わかった? 覚悟してよ」


 不意にぎゅっと鼻先をつままれて、わたしはつい顔をゆがめてしまう。つまんでいた桃華ちゃんの指先は、強い力で引っ張るように勢いよく離れ、痛みの残る鼻先をわたしは両手で覆った。


「じゃ、アタシ、先にシャワー浴びるから」


 ちりちりと痛む鼻先を撫でながら、わたしは桃華ちゃんのきれいな背中を恨めしく見送った。熱い鼻先は、きっと赤くなっていると思う。

 わたしのことを全部受け止めようとしてくれた桃華ちゃんの気持ちが嬉しかった。けれど鼻先よりずっと、もっと、胸の奥が痛い。乱暴な優しさに、素直に飛び込めない自分が嫌で、苦しかった。


『ナツは、素直じゃないなぁ』


 どうしてこんなときに、あのひとの言葉を思い出すんだろう。

 あのひとの節くれだった武骨な手は、その形から想像できないような繊細な味と美しい料理を作り出す。そのことに、わたしは舌を満たされるだけじゃなく、感性をも揺さぶられた。やがて憧れに恋心が入り混じり、けれど、誰にも頼らず走り続けることを決めていたわたしは、その気持ちを隠し通そうとしていたのに。


『ホントはもっと甘えたいくせに』


 恋い焦がれた魔法の手が、わたしの頭を撫でたとき、張りつめていた気持ちがすべてはじけた。同時にあふれた涙を、魔法の手が拭う。その手のぬくもりが、頑なだった何もかもを優しくゆっくりと溶かしていった。

 生まれて初めての感覚に、わたしの身も心もすべて、あのひとに奪われてしまった。けれどそれは想像していたよりもずっと甘く切なくて、このままわたしのすべてが、あのひとの中に溶けてなくなってしまえばいいとすら思えた。

 わたしがすべてを差し出せば、あのひとの手が余すことなく受け止めてくれる。

 その手は、わたしだけのもの。わたしだけの、大好きな魔法の手。

 まるで熱に浮かされたように、あのときのわたしは、そう信じて疑わなかった。

 わたしがまた頑なになってしまったのは、あの手の魔法が解けてしまったから。美しいドレス姿のシンデレラが、みすぼらしいいつもの格好に戻ってしまったように、夢ははかなく終わりを告げた。

 そうしてわたしには、王子様が迎えに来ない。

 だって、ガラスの靴は生ゴミと一緒に捨てられてしまったんだから。


「ヒナコ」


 はっとして顔を上げれば、東條さんも驚いたようにわたしを見つめていた。


「どうしたの、桃華ちゃんは? なに、ひどいこと言われたの? なにされたの? 大丈夫?」


 一体わたしはどんな表情をしていたのだろう。

 東條さんは、すぐさまわたしの目の前にやってきて、体を確かめて、心配そうにわたしの顔を覗き込む。

 頬を撫でる東條さんの手は、初めて会った夜にあのひとと同じことをしてくれた。けれど、わたしの心が溶けることはなくて。あのひとではない誰かがわたしにそうしてくれるように、あのひとも、わたしではない誰かをあの大好きな手で触れて、撫でるのだと気付かされた。


「東條さん、わたし……たくさん言ってないことがあって」

「うん」


 頬に触れていた東條さんの手を、わたしは両手でぎゅっと握る。


「話さなきゃいけないって思ってるけど、まだ、言えなくて」

「うん」

「嘘つきで、ずるいかもしれないけど、でも、わたしはずっとここに……東條さんのそばにいたい」


 これ以上泣かないように、唇を噛んだ。いつまでも、泣いてばかりいられない。

 わたしは、本当のわたしを東條さんに打ち明けるために、もっと強くならなきゃ。


「いいんだよ。ヒナコは、ヒナコのままで。最初に言ったはずだけど、ヒナコはここにいたいだけ、いればいい。けれど、ずっとここにいる必要だってないんだよ。ぼくはヒナコが好きだし、ぼくだってヒナコのそばにいたい。でも、もしかしたら、ヒナコがいるべき場所は他にあるのかもしれない。そこへ行きたくなったら、いつでも行っていいんだ」


 わたしが握りしめている手に、東條さんはもう片方の手をそっと寄せた。


「だけど、突然いなくなったりしないで。どこへ行ってもいいけど、ぼくのところに帰ってきてほしい。ヒナコが、ぼくと同じ気持ちでいてくれるなら、ね」


 わたしは頷いたまま、顔を上げることができなかった。きっと、東條さんの優しい目を見てしまったら、涙を堪えられなくなる。


「ヒナコ」


 抱きしめてくれるのかもしれないという微かな期待は裏切られて、東條さんは自分の手をわたしから離すと、深い息を吐いた。

 ふとよぎる不安に、わたしは恐るおそる東條さんを見る。と、目が合うか合わないかのうちに、東條さんは立ち上がった。


「ヒナコは、今の自分の状況を理解できてる?」

「えっ……」


 なにか、東條さんの気に障るような態度をしてしまったんだろうか。

 どうしたらいいかわからずに、なにか言ってほしくて見つめ続ければ、ちらりとこっちを向いた東條さんが頭を抱えた。


「いや、あのね。ぼくもそれなりにいろんなオンナノコたちの裸も、絡みも見てきたし、いろんなことをさせたり、してきたんだけど。これまで好きな子のそういうところを撮って、何も手出しできなかったことなんてなかったんだ。いや、そもそも本命のオンナノコのこういう写真なんか撮ったことなかったし、だからその……」


 頭を抱える指の隙間から覗いている東條さんの視線が、わたしの体を舐めていくのを感じて、わたしはやっと自分の状況を理解する。

 途端に恥ずかしくなって、すぐさま裸の体をシーツで隠した。


「わかってる、撮影の勢いがまだ抜けてなかったんだよね。してもいいのかなって一瞬思っちゃったんだけど、それはぼくの誤解だな。いや、願望か。とにかく、うん、いいんだ」

「ホントにイイの?」


 パーティションの向こうから、シャワーを浴びて戻ってきた桃華ちゃんが首を傾げながらそう言った。どこから立ち聞きしていたのかわからないけれど、わたしたちの様子をうかがいながら、東條さんにぴったりと寄り添ってみせる。


「けど、東條さんヌイてきたんじゃないの? アタシ、てっきりそう思ってたけど」

「桃華ちゃんは純愛を貫こうとするぼくらの前で、おそろしくデリカシーのないことを言うね」

「だって、アタシたちを見てて、東條さんがフツーでいられるわけないもん。それとも、ホントに我慢してる? だったら、アタシがしてあげるよ?」


 いやらしい手つきで東條さんの体を撫でながら、桃華ちゃんは東條さんの前に膝をつく。そうしてパンツのボタンに手を掛けたところで、桃華ちゃんはわたしを見て笑った。


「ヒナコじゃなきゃセックスしないってゆーなら、アタシが口でしてあげる。口ならいいでしょ? 自分ひとりでするのもアリだけど、やっぱり誰かにしてもらったほうが気持ちイイよね。それにアタシ、別にヒナコの身代わりでもいいよ、全然平気」

「だ、だめ!」


 大きな声を出してしまったことに、わたし自身驚いたけれど、東條さんと桃華ちゃんも目を丸くしてわたしを見ていた。

 けれどそれも一瞬のことで、にやりと笑った桃華ちゃんが東條さんのファスナーを下す。


「だめっ、だめだってば。桃華ちゃんっ」


 必死で立ち上がり、桃華ちゃんの手を止めようとしたわたしは、体に巻きつけたシーツを自分で踏んで、勢いよく転んでしまった。

 その体を受け止めてくれたのは東條さんで。ちょっとだけ桃華ちゃんも巻き添えにして、気づけばふたりを押し倒して、わたしがふたりの上に倒れ込んでいた。


「いっそ、3Pってのは、どう?」


 いたたと呻きながら、東條さんがそんなことを言うから、わたしはつい口をとがらせて顔を上げた。


「絶対、イヤですっ! それに、口も絶対だめっ!」


 真剣に怒っているのはわたしだけ。

 東條さんも桃華ちゃんも、こんなわたしを見て笑っている。


「わかってる、わかってるってば、ヒナコ。ジョーダンだからー、マジんなるなってぇ」


 そうかもしれないと思ったけれど、桃華ちゃんがどこまで本気なのか、まだわたしにはわからない。声を上げて笑い続ける桃華ちゃんを恨めしく睨んでいると、わたしの下敷きになっていた東條さんが体を起こした。


「ヒナコのそういうところが、ぼくは大好きだよ」


 と。不意にわたしを抱き寄せてキスをする。軽く触れて離れた唇は、まだ足りない? と小さな声で囁いた。

 東條さんは意地悪だ。だからわたしも素直に返事をせずに黙っている。そうして東條さんを見つめれば、わたしの気持ちを読み取ったように微笑んで、いつもの眠る前にするようなキスをしてくれる。

 それをすぐ隣で見ながら、やっぱり桃華ちゃんは笑っていた。




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