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むこうがわへ

 この街には、全国的にも有名な歓楽街がある。飲食店や宿泊施設はもちろん、シネコンにゲームセンター、その向かい側にはストリップ劇場や風俗店、レジャーホテルも立ち並んでいる。かと思えば、早朝に活気づく市場や、神聖な寺社仏閣も、ネオンの中にぽっかり空いた穴のようにひっそりと佇んでいた。

 ナンパも客引きも、合法も非合法も、イイこともワルイことも、すべてない交ぜ。表と裏、光と影、本来混じりあうはずのないものが入り乱れる場所。自分がどちら側であるかを忘れて、うっかりすれば闇に飲み込まれてしまう危険な空間。

 そこで、わたしは東條さんに出会った。

 眩しい光の世界から闇の中へ引きずり込まれていく自分を、もっとどん底へ突き落すために彷徨っていたわたしは、東條さんに引き上げられた。

 歓楽街が、どんなところかは知っていたはずだった。そこで生きているひとたちのことも。けれど、それはほんのごく一部の、誰かから聞いただけの噂話と単なる想像であって、そもそも彼らと接点を持つことなどないと思っていたわたしが、歓楽街で働いている桃華ちゃんや、彼女らと関わる仕事をしている東條さんと距離を感じてあたりまえのことだった。

 わたしが踏み込めない世界。見えない線を引かれた向こう側で、今、ふたりがわたしを手招いている。


「じゃあ、心配だから、桃華ちゃんの手は縛っておこうね。どうするヒナちゃん、脱がしてから縛る? それとも、縛ってから脱がす?」


 帰ってきた旦那さんに、お風呂にする? それとも食事にする? なんてことを聞くみたいな調子で、いや、それよりもっと楽しそうに、東條さんはわたしに聞いてくる。


「東條さぁん、この服お気に入りだし、脱ぎにくいから、先に脱いどきたいんだけど、ダメ?」


 シフォン生地のフリルをひらひらつまんで見せる桃華ちゃんに、東條さんは近づいてそのワンピースを隅々までチェックした。襟ぐりは伸びないし、下から捲るにも胸を出したところで美しくないという結論が出て、それは脱ぐことが決まった。

 いつもの写真を撮るときと同じように、桃華ちゃんはなんのためらいもなく、ワンピースに続きショートパンツも脱いで、洋服を入れるボックスにそれらを放り投げる。ストラップと中央のリボンだけが黒のベビーピンクの下着は、桃華ちゃんが身に着けているだけで、可愛らしさが色っぽく変化していた。

 と、わたしはボタンをはずされてはだけていた胸元を握る。二回洗濯しただけでよれよれになった安物のシャツの下は、一応上下おそろいの下着だ。けれど、それも安物ばかりの量販店で買ったもので、とても堂々と見せられるものじゃない。

 下着姿の桃華ちゃんと床にシーツの波を作っていた東條さんが、立ち尽くすわたしを振り返る。


「ヒナちゃんは、桃華ちゃんをイケナイ世界へ誘う夢魔、サキュバスだよ」


 そうして手に持っていた黒いシーツを、わたしの頭の上からすっぽりとかぶせ、胸元で生地を合わせてから、そこをクリップで止めた。


「サキュバスはね、オトコの精子を奪うオンナの悪魔なんだ。そうして奪った精子を自分のものにして、今度はオトコの悪魔になって、その精液をオンナに注ぎ込んで妊娠させる。イイトコどりで気持ちイイ悪魔のヒナちゃんは、美しい桃華ちゃんに目をつけた。けど、オンナノコに興味のある彼女を喜ばせて妊娠させるには、オンナの姿じゃなきゃならない。警戒させてもいけないから、いかにもそーゆーことに興味なさそうなオンナノコの姿になって、桃華ちゃんを誘惑する。ね、面白いでしょ?」


 わたしはどう答えたらいいのかわからなくなって、首を傾げた。

 さっきまでの主従関係逆転だの、夢魔だの、そういう発想がよくも次々と湧いてくるものだと思う。


「このシーツは脱がさないから。中に着てるものは、ヒナちゃんが脱げるところまで、脱いで」


 東條さんの屈託のない子供みたいな笑顔に、わたしは頭を抱えたくなった。ここではわたしだけが戸惑っていて、東條さんは着々と撮影の準備を進めていくし、桃華ちゃんだって、鏡を見ながら髪型や化粧直しに余念がない。

 脱げるところまで、なんて。本当は脱ぎたくなんかないし、でも、このままなら桃華ちゃんに何を言われるかわからない。

 そう思っていた矢先、振り返ってわたしを見た桃華ちゃんが不満げに声を上げた。


「なによ、その恰好。東條さん、そんなに隠しておきたいワケ?」


 わたしの前に来るなり、シーツをめくって、まだ服を着ていることに大きく息を吐く。

 慌てるわたしをよそに、桃華ちゃんの感情の矛先は、東條さんへ向けられた。


「じゃあ、いい。東條さん、アタシに目隠ししてよ。そうしたら、ヒナコのカラダは東條さんとそのカメラしか見ることができないでしょ。その代り、ちゃんとヒナコも裸になってよね。それから、出来上がった写真は、アタシにも見せて」

「そういうことなら。いいかな、ヒナちゃん」


 胸の前で腕組みをしている桃華ちゃんと、すでにカメラを構えている東條さんが、わたしの答えを求めていた。

 それはもう、拒否できないような雰囲気で、わたしは首を傾げるような、頷くような、あいまいな動作をしたのだけれど、彼らは当然それを肯定と受け取ってしまう。どんなに抗おうとしても、事態はどんどん奇妙な方向に展開をするだけだ。

 わたしもついに覚悟を決めて、ボタンに指を掛けた。

 それにしても。どうしてそこまでして、桃華ちゃんはわたしとヌードを撮りたいと思っているんだろう。


『ヒナコは……アタシが愛してるひとの、大切なひとだから』


 だから、桃華ちゃんもわたしのことを愛したいと言った。

 好きな人が好きなこと、ものを一緒に好きになりたい気持ちはわかる。それはきっと、好きな人のことを受け入れることになると思うから。

 だけど、こんなやり方なんて。

 美しい桃華ちゃんの身体と、みじめなわたしの身体が並ぶ。そうすることで、東條さんの気持ちが変わるかもしれないと思っているんだろうか。

 桃華ちゃんが、そんなちっぽけな人間じゃないとどこかでわかりかけているのに、わたしは裏に別の気持ちがあるんじゃないかと勘繰ってしまう。

 シーツの下は、桃華ちゃんと同じように下着だけになった。いくらクリップで前を止めてあるとはいえ、歩けばはだけてしまいそうで、内側からシーツを握り締めて、わたしは脱いだ服をボックスに入れた。


「そろそろ、始めようか」


 カメラを構えようとする東條さんから、わたしは黒い二本のリボンを受け取った。幅があり柔らかな布のそれを、目隠しと手を縛るのに使うという。


「まずは桃華ちゃんはこっちを向いて横になって。眠ってる感じで。ヒナちゃんは桃華ちゃんの後ろに回って、優しく目隠しをしてあげて」


 どうしたらいいか戸惑う前に、東條さんが手順を指示してくれる。ぎこちなく動く間にも、何度もシャッターを切る音がした。

 目隠しをすると、今度は桃華ちゃんを座らせて両手を背中に回し、その手首を合わせて縛る。腰を突き出すように反らした背中が白くなめらかで、思わず触れてみたくなる衝動に気づいたわたしは、何度か瞬きをして我に返った。


「痛く、ない?」

「大丈夫。アタシ、体柔らかいから、平気。それよりヒナコは大丈夫? 手、震えてるでしょ」

「……うん」


 だって、こんなこと、したことがないから。

 手だけじゃない、声すら、吐き出す息でさえ震えていそうだ。


「コーフンする?」


 声をひそめて囁く桃華ちゃんの唇が、妙に艶めかしい。


「そ、そんなんじゃなくて」

「いいじゃん、アタシたち、これからそーゆーことしようとしてるんだし」


 目隠しの下から挑発的な視線が送られているような気がした。

 そーゆーことって言ったって、ヌードを撮るだけだ。ただ、写真を撮る、それだけ。


「ヒナちゃん、桃華ちゃんの肩に手をかけて、肌を撫でるようにストラップを肩から外して。ゆっくりだよ。と、その前に、髪の毛をどちらか側に寄せて、その首筋にキスするような感じで」


 言われたとおり、わたしは桃華ちゃんの後ろからふわふわの髪の毛に触れて、それを右側に寄せる。あらわになった首筋に、躊躇いながらも唇を近づけて、それらしく見えるようにしながら桃華ちゃんの両肩に手を掛けた。

 ふと、桃華ちゃんの肩がぴくりと揺れる。

 思わず動作を止めると、桃華ちゃんの喉がこくりと鳴った。


「いいよ、ヒナコ。触って。ちゃんとアタシのカラダ、触って」


 どこか弱くなってしまった声色に、わたしはたじろいだ。

 顔を上げれば東條さんは変わらず微笑んでいて、戸惑いながらも指示通り、ストラップを下していく。

 少しずつ桃華ちゃんが肩をすくめていくのが、触れそうで触れられない首を、喉をのけぞらせていくのがわかった。けれど、それが演技なのか、本気なのかわからないまま、わたしは続けた。

 自分の鼓動と、桃華ちゃんの呼吸と、東條さんのシャッターの音が、重なり合って頭の中に届く。照明が熱くて、しっとりと濡れたわたしの手のひらが、桃華ちゃんの肌を汚していくような錯覚に陥った。

 してはいけないことを、している。どこかにあったそんな意識が、わたしの肌を粟立たせた。

 反らせた喉の下に続くなめらかな肌を視線でたどれば、その先には柔らかそうな膨らみと、ふたつのそれの間には吸い込まれそうな谷間がある。自分のそれは随分と見慣れているし、学生のころは冗談半分でお互いに触ったりしたこともあるけれど、こんなに近い距離にそれがあるのは初めてだ。撮影のときだって、立ち会っているだけで、まじまじと見たことはない。


「ヒナちゃん、ブラのホック外して。外したら、胸が見えるように、まくり上げて」


 淡々といつもの口調でそんな指示をする東條さんに、体の動作がついていけなくて、頭の奥がチリチリと痺れていく。

 小さく息を吐き出して、言われるままにホックを外し、極力桃華ちゃんの肌に触れないよう気をつけながら、ブラジャーのカップを首のほうに上げた。

 なんとなく、そこを直視してはいけない気がして、わたしは半開きになっている桃華ちゃんの唇を見つめる。


「桃華ちゃんのカラダは、いつみてもキレイだな」


 わたしたちに近づいてきた東條さんはそう言って、桃華ちゃんの頭の先から体に視線を這わせるようにして、カメラを構えて写真を撮った。


「ぼくは、すごく好きだよ、このカラダ」


 優しい声は、わたしにとって残酷な響きだった。


「東條さん、ホントに好き? 全部、好き?」

「うん。足の先まで、舐めたことあったでしょ」

「あは。思い出した。あのとき、全身にキスしてくれたよね」

「そう。今でもそういう気持ちは変わらないよ」


 どうしてそんな話を、今ここでするんだろう。

 わたしはどんどん自分がみじめになって、桃華ちゃんの陰に隠れて小さくなった。東條さんはわたしのことを好きだと言ってくれるのに、桃華ちゃんにも同じことを言っているように聞こえる。

 桃華ちゃんはスタイルも良いし、美人だし。明るくてノリもいいし、それでいてこれだけの色気がある。どちらかといえば、異性ウケが良すぎて、そういうのを良しとしない同性から嫌われるタイプだ。そんな桃華ちゃんになんて、わたしなんかが到底、太刀打ちできないのに。

 流されるままにここにいることに、わたしはどうしようもなく後悔していた。

 不安になりながらも、大きな深い溝の向こう側へ、東條さんと桃華ちゃんのふたりがいるほうへ、わたしも行けるんじゃないかとわずかに期待していたはずだった。でも、違う。やっぱり、わたしがこちら側へ来ることはできない。


「わたし、やめます。こんなの、やっぱり、いや」


 桃華ちゃんが、あのロッカーのことや「ヒナコ」のこと、「ナツ」のことを東條さんに話したとして、わたしが東條さんの前にいることができないと思ったなら、ここを出て行けばいい。

 行くあてなんてない。でも、東條さんはわたしを引き止めない。


「ごめん! ヒナコ、待って」


 立ち上がろうとしたわたしのシーツを、縛られている桃華ちゃんの両手がつかむ。

全身を覆い隠しているものを奪われそうになって、わたしは咄嗟に立ち上がるのをやめた。


「東條さんが余計なこと言うから、ヒナコ、ヘンに誤解したんじゃないの?」

「ぼくは、本当の気持ちを告白したまでだよ」

「そーやって、ヒナコを守ろうとしてるんでしょ! わざとヒナコが嫌がるようなこと言ってる」

「だってさ、やっぱりヒナちゃんが嫌がってるのは確かなんだし、嫌がるコに無理強いするのは、ぼくのポリシーに反するからね」

「だから、これはアタシとヒナコの問題なの。ヒナコには、ちゃんとアタシのことを見てほしいの。東條さんは黙ってて!」


 噛みつくような勢いの桃華ちゃんに、東條さんは目を丸くした。


「ヒナコ、そこにいるよね?」


 シーツをぐいぐい引っ張られて、わたしはうんと小さく答えてシーツを引っ張り返した。


「アタシね……カオ、整形なんだ。親が見たって誰かわかんないくらい、全然違うの。だけど、カラダはどこもいじってない。このカラダは、木下英梨きのしたえりのまんま。ホントのアタシのままだから。だから、ヒナコには、ホントのアタシをちゃんと見て、触ってほしいの」


 耳を疑って顔を上げれば、東條さんが目を細めて微笑んでいた。


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