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やくそく

 朝は、東條さんのほうが起きるのが早い。事務所内の明かりが点いて、コーヒーのいい匂いが鼻をかすめる。東條さんの足音が遠ざかり、事務所のドアが開閉すると、間もなく新聞をめくる音がする。

 そうしてわたしがおもむろに起き上がると、気配に気づいた東條さんがこちらを見た。


「おはよう」

「おはようございます」

 

 絡まった髪を撫でつけながら挨拶をすると、わたしはソファを降りて毛布をたたむ。作業台の下のボックスにそれを仕舞うと、その横のボックスから洋服を取り出し、バスルームへ向かった。

 着替えを済ませて顔を洗い、気休め程度のうるおいしかくれない安い化粧水を肌にたたき込む。髪にブラシを通して、わたしの朝の支度は終わり。

 キッチンのコーヒーメーカーに残っているコーヒーをカップに注ぐと、作業台を挟んで東條さんの斜め向かいに座った。

 ちょうどこちら側に見える新聞の一面には、見たことのある政治家が何かを訴えている姿があって、反対のテレビ欄をのぞけば、知らない番組名がいくつか並んでいた。そういえば、ここに来てから、ほとんどテレビを見ていない。存在感の薄いテレビ本体は存在するのだけれど、それのスイッチが入っているのは、一度か二度見たことがあるかないか、だ。

 わたしは薄いコーヒーを飲みながら、東條さんの次に新聞を読むのを待っていた。

 東條さんは、オンナノコの飲み物には気を使うのに、自分のコーヒーには無頓着だ。一日のうちに、それなりの量を飲むから、安くて大量に入っているレギュラーコーヒーを買っていて、尚且つそれを薄めに淹れる。

 煙草は吸わない、ようにしていると言っていた。禁煙に挑戦して一年になるというけれど、お酒を飲むと吸いたくなるらしい。キッチンの上にある収納棚に灰皿を見つけた時は、なんとなく捨てられないと言っていたから、完全にやめられる自信はないのかもしれない。

 新聞をつかんでいる東條さんの指を見ながら、煙草を吸う姿を想像する。咥えたばこで新聞を読み、時折コーヒーを口にするのは、あまりにも東條さんに似合いすぎて、わたしはふと笑う。


「なに?」


 新聞を下げてこっちを見る東條さんに、わたしはゆっくり首を横に振った。東條さんが頭をかしげたところで、携帯の着信音が鳴る。東條さんの仕事用の携帯だ。

 新聞をたたんで携帯を手に取ると、東條さんは一瞬驚いたように目を見開いて通話に出た。


「桃華ちゃん、どうしたの、こんなに朝早く」


 その名前にどきりとして、わたしはコーヒーを飲む手を止める。

 あの妙な約束をしてから、一週間が過ぎようとしている。直後は一体どうしようかと悩んだけれど、やっぱりわたしは東條さんにまだ何も話せずにいた。

 考えても答えは出ないし、無理やりに吐き出そうとするけれど、今の関係が崩れるのが怖い。前に進めないのは歯がゆいけれど、その一歩を踏み外せば、見えている景色が一変してしまう気がして言い出せない。

 東條さんのことを信じていないわけじゃない。きっと、大丈夫。むしろ、大丈夫じゃないのは、わたしのほう。わたしはたぶん、まだ、ダメだ。

 楽しそうな桃華ちゃんの笑い声が、携帯から漏れてわたしにまで聞こえた。


「そう、うん。あぁ、ぼくはいいけど……桃華ちゃん、随分酔っ払ってるね。何時まで飲んでたの……へぇ、そう……今日は、休み? 違うの? 大丈夫?」


 東條さんも嬉しそうに笑いながら、桃華ちゃんと話を続けている。

 わたしがふたりに感じる特別なものが、桃華ちゃんのヒミツなのだとしたら、わたしはそれを知ってしまってはいけないように思えた。

 わたしの秘密と同じように、それ自体はとても単純なことかもしれない。けれど、本人にはとても大切なこと。誰にわかってもらえなくても、誰かにとって取るに足らないことであっても、自分にとっては誰にも知られたくない、打ち明けたくない秘めたる気持ち。

 それがしあわせな気持ちばかりなら、自分の中に閉じ込めておく必要などないのだけれど。

 だからこそ、桃華ちゃんのヒミツを、わたしは聞きたくないと思っていた。


「うん、うん、わかったよ。じゃあね」


 首をかしげつつも、口元を緩めながら、東條さんは携帯を置く。そうしてわたしに何か言いかけたところで、不意に事務所のドアが開いた。


「おっはよーございまっす!」


 白い歯をいっぱいに見せて笑うと、桃華ちゃんはけたたましい音を立ててドアを閉める。おぼつかない足元でゆらゆらとこちらに向かってくると、わたしに抱きついてきた。

 思わず顔をしかめてしまいそうなほどのアルコールの匂いに、わたしはつい眉根を寄せる。


「東條さん、今日はヒナコと一緒に撮ってね」


 桃華ちゃんは、わたしと頭をくっつけて甘えるような声でそう言った。

 東條さんはもちろん、わたしも目を丸くして桃華ちゃんを見る。


「ヒナちゃんと?」

「そう。約束したんだもん、ヒナコとイチャイチャしてる写真撮るって。ね?」


 細めていた瞼を開いて、わたしを見つめる桃華ちゃんの瞳は、漂うお酒の臭いとは裏腹に、とても酔っているようには思えなかった。

 肯定せず、頷きもしないわたしにしびれを切らしたように、桃華ちゃんがわたしの耳元に口を寄せる。そうしてそっと囁いた。


「喋っちゃっても、いいの?」


 だめだ、それは、ダメ。

 少なくとも、今このタイミングじゃ、絶対にダメだ。

 わたしは黙ったまま、小さく首を左右に振る。

 それを合図に、桃華ちゃんの指先が、わたしのシャツのボタンをはずし始めた。


「アタシの服はヒナコが脱がせて。アタシはヒナコを脱がすから」


 待って。そう言おうとした口を、桃華ちゃんに、彼女の唇に塞がれた。いやに甘ったるいアルコールの香りが口腔内から鼻に抜け、ぎゅっと目を閉じる。咄嗟に桃華ちゃんの身体を押し返せば、逆に自分の身体がバランスを崩して椅子から転げ落ちた。

 床に打ち付けた身体の痛みを感じる間もなく、わたしのシャツをつかんだまま、一緒に床に転がった桃華ちゃんが、すかさずわたしに馬乗りになってくる。


「だめ、逃がさないよ、ヒナコ」


 無様なわたしの両腕を床に押し当てて、桃華ちゃんは楽しそうに笑う。

 驚きと怒りとがないまぜになったまま、わたしの心臓は無駄に早鐘を打ち続けていた。


「東條さん、ずっと前だけど、一回オンナノコとしてみたいって言ったことあるの、覚えてる?」

「そうだね。覚えてるよ」


 頭上に現れた東條さんに助けを求めようとして、わたしは愕然とする。


「そのときは、ぼくが撮るって約束だったね」


 優しい顔をした東條さんの手には、いつものカメラが準備されていた。

 撮る、つもりなのだろうか。

 そもそも、そんな約束するなんて。東條さんと桃華ちゃんらしいと言えばそれまでだけど、馬鹿げてる。それにどうしてわたしが巻き込まれなきゃいけないのか。

 泣きそうになるわたしの頬を、しゃがみ込んだ東條さんの手が撫でた。


「でも、どうして相手がヒナちゃんなの?」


 わたしを見つめていた東條さんの視線が、ゆっくりと桃華ちゃんに向けられる。わたしの上で見合うふたりは、いつもと何かが違う気がした。

 たぶん、余裕が、隙が、ない。

 桃華ちゃんの答えを聞きたい一方で、緊迫した雰囲気に思わず息を飲むわたしを、桃華ちゃんが見下ろした。


「ヒナコは……アタシが愛してるひとの、大切なひとだから」


 すぐに東條さんに向き直った桃華ちゃんが、泣きそうに見えたのは一瞬だった。

 わたしの頭の上で、桃華ちゃんと東條さんの距離が限りなく近づいていく。

 桃華ちゃんの言葉の真意が、わたしにはわからない。けれど、ふざけているようにも、嘘を吐いているようにも思えなかった。


「だから、アタシもヒナコのこと愛したいの。ちゃんと、優しくするよ? タイチみたいに傷つけたり泣かせたりしないから」

「そんな大切な場面に、ぼくが立ち会ってもいいのかな」

「東條さんが撮ってくれなきゃ、意味が無いよ」

「うん、そっか」


 納得したふうな東條さんは立ち上がり、カメラを構えて微笑んだ。


「ただね、ぼくの宝物には、ヒナコには直接触っちゃダメだ。いくら相手が桃華ちゃんだからって、大切なヒナコの大事な場所には触ってほしくないんだ。だから桃華ちゃん、まずはそこからどいてくれないかな」

「えっ」

「それから、そうだな、ヒナちゃんから桃華ちゃんに触るのはいいよ。だから桃華ちゃんはヒナちゃんに触ってもらえるようにおねだりするんだね。それでヒナちゃんが触ってもいいと思えば、触ってあげて」


 まだわたしの上に跨ったままの桃華ちゃんが、不満げに唇を突き出していた。

 よかった、と、わたしは心のどこかで安心してしまう。コンちゃんのときと同じように、東條さんはわたしを守ってくれる。わたしの嫌がることをわかって、助けてくれる。

 東條さんは、飄々としたふうでいて、さりげなくわたしに手を差し伸べて救い出してくれるひとだ。

 出会ったあの日から、そうやって東條さんはわたしのそばにいてくれる。そうしてわたしは安心してここにいられる。

 これからも、ずっと。

 わたしが、ヒナコでいる限り。

 桃華ちゃんだって、この東條さんの態度と条件には、きっとつまんないなんて愚痴りながら、やーめたと諦めてくれるだろう。案の定、ふわふわの髪をかきむしると、わたしの身体から降りて立ち上がる。


「……わかった。東條さんの言う通りにする」


 上半身を起こしたわたしは、桃華ちゃんの返事にぎょっとして彼女の表情を覗きこんだ。

 目を細めて拗ねたようにわたしを見つめる視線は変えないままに、ついさっきわたしの口を塞いだ柔らかな唇が、緩やかに三日月を描く。


「アタシたち、このまえ約束したんだ。一緒に写真撮るって。だから約束は守んなくちゃね、ヒナコ」


 あわよくば上手く逃げられると思っていたわたしは、途端に嫌な汗がにじんで息を飲んだ。


「じゃあ、あっちで始めようか」

「えっ!? や、あの、わたし、わたしは脱がなくていいんですよね?」


 慌てて立ち上がりながら、先を行く東條さんを呼び止めた。


「ん? どうなの、桃華ちゃん」

「一緒にヌード撮ろうって約束だもん、ヒナコだけ服着てるなんて、ヘンじゃん」

「でもっ!」


 次の言葉が見つからないわたしを見て、桃華ちゃんが必死に笑いをこらえていた。その横で東條さんは、やっぱり表情を変えずに微笑んでいる。

 ヒナコの嫌がることなら、やめよう。

 きっと、そう言ってくれるとわたしは願ったのに。


「大丈夫だよ、ヒナちゃん。ヒナちゃんのカラダは、桃華ちゃんに負けないくらいキレイだし、色っぽいよ。それにねぇ、レズモノにはよくあるんだよ、桃華ちゃんみたいにちょっとお姉さんぽいキレイ系のコと、純粋無垢でヒナちゃんみたいな感じのカワイイコのカラミ。実際はお姉さんがカワイイ系のコに手取り足取り教えるパターンが多いんだけど、その逆も萌えると思うんだよね。主従関係逆転て、そそるでしょ」

「東條さん、それ、いい!」


 声を上げて笑う桃華ちゃんに、わたしはさっきの泣きそうな表情と真剣に聞こえた言葉たちはやっぱり嘘だったのだと確信する。

 むしろ、東條さんも一緒になってハメられているような気がして、わたしはふたりに着いていくのをやめた。

 と、東條さんがわたしを振り返る。


「ヒナちゃん、行こう。面白いよ、きっと」


 まるで東條さんまで、わたしが断れないのだと気づいているみたいだ。

 差し出された手のひらに手を重ねれば、そっと、けれど抗うことを許さない力で引き寄せられる。

 なんで、こんなことに。

 諦めの溜息をひとつ吐き出すわたしの足取りは重い。自業自得。けれど、あんなところで斉田さんがわたしに話しかけたのが悪い。そこに桃華ちゃんが居合わせたことも。

 いや、違う、突き詰めていけば、悪いのは全部……わたし。

 彼が悪いのだと思うことができたなら、どれだけ楽になれるだろう。

 きっと、みんな私の味方をしてくれる。わかっている。だからこそ、わたしはまだ彼のしたことを悪いとは思えない。

 楽しそうに話しながら、撮影の準備をする桃華ちゃんと東條さんがすぐそばにいるのに。わたしと彼らの間には、どうしても埋められない深い溝が、会ったときから縮まることのない距離が、くっきりと見えたような気がした。


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