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つなぎとめていて


「アンタが訳アリなのは、なんとなくわかってたよ。東條さんのかばい方も、タイチがアンタについてほとんど何も知らないのも、おかしいと思ってたんだ」


 桃華ちゃんはすりむけたわたしの手のひらを見て、あーあと声を上げると、バックからウエットティッシュを取り出して、傷口を拭いた。

 傷がしみて手を引こうとすると、あとは自分でやんなよとティッシュを握らされる。


「で、東條さんも、アンタの名前を知らないわけ?」


 わたしは頷く。


「なんで?」


 桃華ちゃんからすれば、理由はとても簡単なことだと思う。

 けれどわたしは、名前を偽る理由を一番最初に打ち明けるのは、東條さんだと決めていた。


「じゃあ、あのロッカーにも何か隠してるんだ」

「それは……」


 やっぱり、見られていたのだ。

 思わず声を上げてしまったのを後悔しても遅かった。そうして、次の言葉も出てこない。


「ねぇ、アタシのヒミツ、教えてあげようか」

「え?」

「そしたら、ヒナコのヒミツも教えてよ」

「別に、秘密ってわけじゃ……」

「でもその前に」


 桃華ちゃんの柔らかな指先が、わたしの頬を撫でた。


「おもしろいこと、思いついちゃった」


 ぷっくりとしたピンクの唇が緩やかなカーブを描く。怪しげな微笑みに、わたしは嫌な予感がする。

 そんな予感は的中し、桃華ちゃん口から語られた要求に、わたしは絶句した。

 けれど、それをしなければ、桃華ちゃんは東條さんに今日のことをすべて話すという。


「どうして、そんなこと……」

「どうして、かな。アタシも東條さんのことが好きだから、かな」


 意味がわからない。

 桃華ちゃんの要求と、その言葉がどうつながっているのか、わたしには理解できなかった。

 けれど今ここで、桃華ちゃんを拒絶するわけにはいかない。実際するかどうかは別として、今は頷かなければ。

 それまでに、東條さんにすべてを打ち明けることができたなら。

 それが、一番いいことだけれど。


 わたしたちはスーパーに戻って、買い物をし直した。桃華ちゃんはまるで正義のヒーローのように、彼がいないか確かめながら護衛してくれるのだけれど、わたしはなんだか恥ずかしくなる。そもそも、彼は悪くない。わたしが一方的に避けて逃げているだけで。本当は、彼にもちゃんと話をするべきなのだ。

 あのひとはともかく、渋谷さんも何も言わないということは、事情を聞いているのだろうか。

 あのひとは、どんなふうにわたしたちのことを話したのだろう。

 わたしだけが、悪者なのだろうか。

 わたしだけが、一方的に、好きだったのだろうか。

 わたしだけが。


 何も知らなかったのだろうか。


 桃華ちゃんが話しかけることに相槌を打ちながらも、わたしの頭の中は考えてもどうしようもないことが、ぐるぐるとループし続ける。

 事務所に帰れば、時間が遅くなったことと、わたしの手のひらの傷を見て、東條さんが随分と心配してくれた。


「桃華ちゃん、ぼくのヒナコになにしたの」

「え!? アタシ? 違うよ、ヒナコが勝手に転んだんだよ」


 傷ついた手を、その両手で優しく包み込み、東條さんはわたしにホント? と聞いてくる。

 わたしはただ頷くだけで、何の言い訳もすることなく東條さんを見つめ返した。

 それでも不審そうに傷を眺める東條さんとわたしの間に、桃華ちゃんが飛び込んでくる。


「アタシ、転んだヒナコの手を拭いてあげたんだよ? ね、ヒナコ」

「うん……」

「それで、一緒に買い物してきたの。今夜は、アタシにはパスタ作ってくれるんだって。東條さんとタイチは老人食」

「老人食じゃないよ、和食」


 顔を近づけて話すわたしたちを見て、東條さんはわたしの手を離した。


「急にふたりは仲良くなったみたいだな」

「そうだよ。だって今日からは、東條さんよりアタシのほうが、ヒナコとのこと、よく知ってるんだから」


 そんな意味深な発言をして、桃華ちゃんはわたしをぎゅっと抱きしめる。

 平然としていられないわたしは、それをいいことに東條さんと目を合わせず、桃華ちゃんの腕を払った。


「支度しないと、桃華ちゃんの出勤時間までにごはんできないよ。手伝って」

「おっけー、手伝うよ」


 キッチンに向かう途中でそっと振り返ると、東條さんも、そうして桃華ちゃんが来てから気配を消すかのように押し黙っていたコンちゃんも、わたしたちに訝しげな視線を向けていた。

 わたしはすぐさま向き直り、ご機嫌で知らない歌を口ずさんでいる桃華ちゃんのあとについていく。

 キッチンに入って、野菜の皮むきを手伝ってくれた桃華ちゃんも、すぐに飽きたのか、作業台の椅子に座ってコンちゃんや東條さんに話しかけ始めた。わたしも人に使われて料理をするのは慣れていたけれど、人を使ったことはないから、ひとりきりになったキッチンにほっとする。


「ねぇ東條さん、ヒナコとどうやって出会ったの」


 煮物の味をみていたわたしは、思わず耳をそばだてる。


「ヒナコはね、サンタさんの落し物」

「はぁ? ナニソレ」

「ホントは、ヒナコには届けられるべき場所があったんだと思うけど、サンタさんはうっかりヒナコを落としちゃったんだよ。それで、どこに行ったらいいかわからないヒナコが路頭に迷っていたから、ぼくが拾ったんだ」


 桃華ちゃんはふっと吹きだした。


「東條さんて、そういうの、どうやって思いつくの?」

「だって、ホントだから」

「ふーん。じゃあ、もしヒナコが届けられるべき場所を思い出したらどうするの。それともサンタが奪い返しに来たら、簡単に渡しちゃうの?」


 わずかな沈黙に、わたしは火をゆるめて息を飲む。


「ヒナコが、そこへ行きたいと言えば行かせるよ。でも、落としたサンタが取り返しに来ても、遺失物法で定められた保管期間の三ヵ月を過ぎたから、簡単には返せないよ」

「ヒナコがサンタのところに帰るって言ったら?」

「そうだね……ヒナコが決めたことなら、ぼくはそれを見守るしかないな」


 東條さんはいつもの調子で、ごく淡々と桃華ちゃんに答えていた。

 そうして、桃華ちゃんが声を上げて笑う。


「なーんだ、東條さん、来る者拒まず、去る者追わずの基本スタイルは変わんないんだね。ヒナコだけは特別かと思ってたから、安心したぁ」


 東條さんがどんな表情をしているのか知りたかったけれど、キッチンから様子を窺うことはできない。

 わたしが決めたことなら見守るしかない、つまり東條さんは、引き止めないということだ。

 きっとそれは当然のことなのだけれど、ねじ伏せてでも、強引に繋ぎ止めてほしいという勝手な思いがわたしを淋しい気持ちにさせた。

 自然と零れた溜息に、わたしはふと我に返って、桃華ちゃん用のパスタの準備に取り掛かる。


 出来上がりは上々で、東條さんとコンちゃんへの和食も、桃華ちゃんのパスタもどちらも変わらずの好評だった。

 けれど、わたしはみんなと一緒にいながら、どこか切り離されたような気分になっていた。

 わたしは、いつまでもここにいていいんだろうか。

 みんなが優しくしてくれるから、わたしはただぼんやりとしながらここに居ることができるけれど。

 昼間、斉田さんに会ったせいだ。

 現実の、自分がいるはずだった場所が、急に蘇ってしまったから。

 向き合うべきことに、わたしはまだ、対峙することができないから。


 桃華ちゃんもコンちゃんもいなくなった部屋で、いつものようにパソコンデスクの明かりを消して、東條さんがわたしを呼ぶ。


「ヒナコ、どうしたの?」


 呼ばれてすぐに抱きすがるはずのわたしが、ソファに座ったままでいることに、東條さんは首をかしげた。

 それでも動かずにいるわたしに、東條さんが立ち上がって近づいてくる。そうしてわたしの隣に腰を下ろすと、手のひらを額にあてる。


「熱は、ないね。具合でも悪いの?」


 わたしは黙って首を横に振った。


「じゃあ、なにかぼくが機嫌を損ねるようなことをしてしまったんだね」


 髪を撫でる優しい指先に、切なさがこみ上げてきて、わたしは俯いてもう一度首を横に振る。


「なにをしたら、許してくれるかな。ぼくを縛る? そうして、鞭で叩く? 首輪をつけて、床を引きずりまわす?」


 今にもお互いの唇が触れあいそうな距離でそんなことを言うから、わたしはつい笑ってしまう。

 思わず東條さんと視線を合わせてしまえば、淋しい気持ちも、しなければならない現実も、切なさも、甘くとろけて消えてしまうから不思議。


「ぼくは、ヒナコのためなら、なんでもできるよ」


 わたしの反応を確かめるように、触れるだけのキスをして、それからそっと、ぎゅっとわたしを抱きしめる。

 わたしは東條さんの首筋に頬を擦り付けて、そこにキスをした。


「ぼくは今日、少しだけ嘘を吐いた」


 わたしの頭を撫でながら、耳元でそんなことを言う。


「ヒナコがサンタのところに帰るなんて言ったら、ホントは見守る自信なんかないんだ。でも、そんなの格好悪いから、つい嘘を吐いた」


 腕の力を緩めて、東條さんはわたしの顔を覗き込む。

 そうして目を細めて微笑んだ。


「ヒナコ、わかってると思うけど、ぼくはヒナコのことが好きだよ。ずっとここに縛り付けておきたいと思うけれど、でもね、それは思っているだけで、きっと実際にそうすることはできないんだ。好きな人の自由は奪えないし、奪いたくない。だから、ヒナコが他に居るべき場所を見つけたなら、そこへ行くことを引き止めるつもりはない」


 安堵しかけていたわたしの心に、黒い影が頭をもたげる。

 東條さんの言葉は、わたしを突き放すものではなく、そっと背中を押すものなのだとわかっていた。迫りくる影は、今を脅かすものではなくて、過去に向き合うことへ不安なのだとも理解している。

 わたしはゆっくりと頷いて、キスをせがむように目くばせをした。


「今日も、おりこうにしていたね」


 おきまりの言葉と、おきまりのキス。

 いつまでも、こんな夜が続きますように。

 わたしは祈るような気持ちで、おやすみと告げて遠くなる足音を聞いていた。



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