「わたし」
夕方、帰宅ラッシュ前の地下鉄の連絡通路で、わたしはもうお決まりになっている作業を淡々と進めていた。駅側からは少し背中の曲がった老婦と私立高校の制服姿の女子高生が、地上へ続く階段側からは大学生風の男が、それぞれわたしの背後ですれ違っていく。
ゴールデンウィークが終わるころまでには、このロッカーの中を整理しなくちゃいけない。
本格的に残高がなくなってきて、わたしはどうしようか考えながら鍵をかけた。いっそ捨ててしまえばいいのに、捨ててはいけない気がして、いつも扉を閉じてしまう。結局わたしはまだ、「わたし」を捨てきれずにいる。
ロッカーの鍵をポケットに入れて歩き出すと、背後から駆け寄ってくる音に思わず振り返った。
「ヒーナコっ」
「桃華ちゃん……今日、撮影だっけ?」
淡いピンクのスプリングコートの下では、ベージュのミニ丈シフォンワンピースの裾がひらひらと揺れている。そこから伸びる長い足は、何度見ても溜息が出てしまう。
薄暗い連絡通路でひときわ輝いて見える桃華ちゃんに、わたしは目を瞬いた。
「ううん、なんとなく。仕事の前に遊びにきたの。ダメ?」
「あぁ、そう、なんだ」
「ヒナコ、こんなとこで何してんの」
「……これから、晩ごはんの買い出し」
「なんか、主婦みたい」
「まぁ……」
「じゃあ、アタシも一緒に行くー」
と、ヒールの音をカツカツ鳴らしながら先を行く桃華ちゃんを、わたしは追いかけ、並んで歩いた。
ロッカーのことは、たぶん、見られていない。見ていたなら、根掘り葉掘り聞いてきそうだけれど、この様子なら、きっと大丈夫だ。
「そういえば、こないだのタイチ、見た?」
わたしの脳裏に、半裸で涙ぐんでいるコンちゃんの姿がすぐさま浮かび上がってきた。
けれど、うんと返事をする前に、桃華ちゃんが楽しそうに笑い出す。
「チョーよくない? もう、サイコーだったよ。ヒナコも呼んで、本人の前でやろうって言ったんだけど、東條さんが録画したほうが面白いし、今後のためにもデータで残るほうがいいとか言って。マジでウケる」
おなかをかかえている桃華ちゃんの横で、わたしは苦笑する。
むしろ、コンちゃんに申し訳ない気すらしてしまう。
「でさぁ、あのあとヒナコに土下座して謝ったんでしょ。東條さんから聞いたよ。ヒナコが、踏みつけてやればよかったのに」
「あ、はは……」
あの次の日のことは、思い出すのも面倒くさくて、わたしは桃華ちゃんに説明しようとして、やめた。
あれからコンちゃんはいつも通りバイトに来ているけれど、桃華ちゃんが事務所にやってくるのは久しぶりだ。
「最近、撮影してないけど、いいの?」
だいたい週一のペースで写真を撮っていたはずだけれど、前の撮影からはとうに一週間を過ぎている。
「あぁ、うん。いいの、べつに。どうしても毎週撮んなきゃいけないもんじゃないし」
桃華ちゃんの返事の裏に、別の何かが隠れていそうな気がしたけれど、わたしにはよくわからないから、ふうんと頷いた。
ゆるくカールされた髪が揺れるたびに、甘い香りがする。歩き方も颯爽とカッコいい。向こうからやってきたサラリーマン風の若い男は、桃華ちゃんの姿に視線を向けずにはいられない様子だ。
地下から抜け出して、スーパーの前で自動ドアに映った姿に、わたしは愕然とする。桃華ちゃんはまるでモデルみたいな出で立ちで、口元は自然なカーブを描いて微笑んでいる。そうしてその横に立つ野暮ったい女が、わたし、だ。
しばらく切っていない髪は、胸元まで伸びっぱなしで、化粧っ気のない薄っぺらな顔は暗く、覇気がない。人と比べて自分がきれいだとかカワイイだとか思ったことはないし、もともと化粧なんてちゃんとしたことがなかったけれど、ここまでブサイクだと思ったこともなかった。
「どうしたの、ヒナコ」
自動ドアが開き、先に店内に足を踏み入れた桃華ちゃんが、立ち止まったままのわたしを振り返る。
「ううん、なんでもない」
わたしは、わたしを捨てたいと思っていた。だとしたら、今ドアに映ったわたしは、誰なんだろう。
憧れていた親友の陽奈子は、こんなんじゃなかったはずだ。
顔を上げると桃華ちゃんが眉根を寄せるから、わたしは無理やりに笑ってみせた。
「今日は、ナニ作るの?」
「うん、煮物とお魚にしようかな」
「何それ!? オバーチャンの食事じゃん」
「少し洋食ばっかり続いてたから、そろそろ和食かなと思って」
「えぇー、ヒナコの作るパスタがおいしいって聞いてたのに。今日は和食なわけ? あー、パスタの日に来ればよかった」
「え? 桃華ちゃん、食べてくの?」
「そ。今日は、ヒナコのごはんを食べるために寄ったんだよぉ」
唇を突き出してすねた表情をするから、わたしはちょっとだけ考えた。
パスタや洋食ばかりでは飽きるし、ローテーション的に今夜は和食で決まりなのだけど、せっかく食べに来たという桃華ちゃんにはパスタを作ってあげたい。
「時間もあるし……桃華ちゃんにはパスタ作るよ」
「ホント?」
「食べたいパスタ、ある?」
「クリーム系なら何でもいい!」
嬉しそうに目を輝かせる桃華ちゃんは、フツーの女の子と変わらない。
わたしはどこか、あの事務所にやってくるオンナノコは異次元からやってくるような気がしてならなかった。身近なところには、こんな派手できれいな女の子はいなかったし、どうしても彼女らを軽蔑するような子が多かったから、同じ考えがまだ頭の隅から離れないままだ。
たぶん、軽蔑するのは、自分が持っていないモノを持っている彼女らに対する劣等感を払拭するための行為なのだと、今ならわかる。ただ、理解することはできたけれど、未熟なわたしはまだ、受け入れるのに時間がかかりそうだ。
桃華ちゃんには定番のほうれんそうとベーコンのクリームパスタを作ることにして、煮物用の野菜と魚は宗八を選んだ。
「ねぇ、ヒナコ」
ベーコンを手に取ったわたしに、桃華ちゃんが耳打ちする。
「さっきからあの男、こっち見てるんだけど、ヒナコの知り合い? ほら、缶詰の山の向こうの、黒いジャケットの三十くらいの男」
わたしは何気なく言われたほうを向いてしまう。
そこを見るべきではなかったのに、桃華ちゃんと一緒にいることで気が緩んでいたんだと思う。
彼は目を合わせるなり、わたしを「わたし」と確信したように、すぐさま歩み寄ってきた。
「ナツ、ナツだよな!? やっぱそうだよな!」
どうしよう。
「雰囲気違ってるから、声かけていいのかわかんなくてさ。つーか、おまえ、なんで急に店辞めたんだよ。あれから連絡も一切とれねぇし、どこで何やってんだよ」
わたしはすぐさま彼から目を逸らし、買い物かごを盾にして後ずさる。
店の定休日には、外出しないようにしていた。営業日のこの時間帯なら、彼らは仕込中で外で会うことは、まずないはずなのに。
「やっぱ、何かあったのか? 渋谷さんも岸川さんも、俺には何も言ってくれないし、ホールの奴らも心配してる。なぁ、ナツ」
「す、すみません、失礼します!」
わたしに触れようとした手を避けて、買い物かごを床に置くと、わたしは彼に背を向けて走り出した。
「おい、ナツ!」
そんなに大きな声で、その名前を叫ばないで。
わたしの嫌いな「わたし」の名前。
あのひとがそう呼んでくれたから、好きになることができた名前。
あのひとが呼んでくれる名前が、響きが、好きだったから。だから、わたしは東條さんに会ったとき、本当の名前を、大切で大好きな名前を、誰とも知らない男に呼ばれたくなくて、咄嗟に陽奈子の名を思い出したのだ。
買い物客とぶつかりながらも、わたしは店の外に出る。けれど、まだ追いかけられそうな気がして、とにかく必死であてもなく走った。
店を、辞めたことになっているなんて、知らなかった。
突然失踪したことを心配して、誰かが探してくれてるんじゃないかなんて、心のどこかで期待していたのは甘い想像だったのだと思い知らされる。
やっぱり、捨ててしまおう。
あのロッカーの中身は、もうわたしには必要ない。
捨てなければ。捨てたくないことも、すべて捨ててしまわなければ。
「ヒナコ!」
叫びにも似た桃華ちゃんの声に、わたしは振り返る。
あのとき、隣にいた彼女は、わたしの名前を聞いてしまったはずだ。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
わたしは前を向き直り、スピードを上げる。
「このバカァ! 止まれぇーっ!!」
次の瞬間、背中に衝撃を受けて、わたしはバランスを崩して前に転んだ。
アスファルトに擦れた手のひらが、ちりちりと焼けるように痛い。
「いきなり走り出して、何なのよ!? まったく」
乱れた息を整えながら、桃華ちゃんは地面に落ちた黒いバックを拾う。きっと、わたしの背中にこれを投げつけたのだろう。
わたしも吐き出す息が乱れて咽る。けれど、それが収まっても、顔を上げることも立ち上がることもできなかった。
「ちょっとヒナコ、アタシにパスタ作ってくれるんでしょ。戻ろうよ。てゆーか、とりあえず立ってくんない? 周りの視線がチョーイタイんだけど」
桃華ちゃんは、何も悪くない。偶然、そこに居てしまっただけ。
だから、パスタも作ってあげたいけれど。
「なんか……ごめん」
「はぁ? なに、聞こえない」
ふわりと甘い香りが漂って、桃華ちゃんがわたしの前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫だよ、ヒナコ。アイツなら、ついてくんなって睨んでビビらせといたから。もしまた会っても、アタシがいるから、大丈夫だよ」
「お願い……」
「なに」
「お願いだから、今のこと、誰にも言わないで」
声が、震えた。
「ナツって、アンタのホントの名前?」
「………」
「アタシは、英梨。これで、オアイコ」
顔を上げると、桃華ちゃんがあきれ顔で溜息を吐き、微笑んだ。