どうしようもないこと
どうしようもないこと。
自分の思いどおりにならないことについて、ひとはそんなふうに言う。そのひと言で、すべてを片付けようとする。片付くはずのないことを、飲み込むためにつぶやいてみる。
そうしたって、ほんのわずかな時間が経てば、またどうしようもないことをどうにかしようと考えるのに。
「ヒナコ」
東條さんが低い声で、ゆっくりとわたしの名前を呼ぶ。
その名前に、ときどき胸がちくりと痛む。けれどそれを悟られないように、わたしは俯いたまま彼の膝の上に座ってそっと抱きついた。
首筋と肩の間に顔を埋める。鼻先に触れる東條さんの体温に、わたしは唇を優しく押し当てた。そうして甘える猫のように、その場所に額をくっつける。
そんな行為を褒めてくれるみたいに、大きな手のひらがわたしの髪を撫で、あやすように頬に触れる。心地よさについ顔を上げてしまえば、東條さんと目が合った。
細い目をさらに細めて、目じりを下げて、元々口角の上がった唇をゆるやかに吊り上げて、どこか満足そうに見つめる瞳に吸い込まれるように、わたしは瞼に触れるだけのキスをした。
「今日も、おりこうにしてたね」
おりこうにしていなくたって、東條さんはいちにちの終わりに、必ずそう言ってくれる。
「ご褒美は、キスでいい?」
わたしが黙って頷くと、どちらからともなく唇を寄せて贅沢なキスをする。おやすみ前のご馳走は、目が覚めてしまいそうになるほど甘くて熱い。けれどもう、わたしはこうして抱きしめて、キスをしてくれなくちゃ、眠れない。
「おやすみ。また、明日ね」
おやすみなさい。わたしもそう告げて、東條さんの膝からおりた。
作業台の下にあるボックスから毛布を取り出し、ぐるりと体に巻きつけると、応接用のソファに小さくなって寝ころんだ。
決して寝心地がいいとはいえないソファでも、わたしが眠れる場所は、ここだけ。毛布を抱きしめて目を瞑ると、ゆっくりと足音が近づいて、やがてわたしの前で動きを止める。
東條さんの指先が頬にかかった髪を攫って、露わになったわたしの頬にそっと今日最後のキスをくれた。
本当は目を開けて東條さんの表情を見てみたかった。けれど、わたしはそれを見ないと決めている。
ややあって、気配が静かに遠ざかっていくと、ほどなく照明が落とされる。東條さんのベッドルームのドアを閉める音を聞いてから、わたしはわずかに瞼を開いた。
瞼を閉じても、開いても、暗闇しか見えないこの時間、夢と現をさまよいながら、わたしは東條さんのキスを、抱きしめてくれる腕を思い出す。
もしも、この世にわたしと彼しか存在しなかったなら、あの唇も腕も、彼の心もわたしのものだと信じることができるだろうか。
そうやって、どうしようもないことを、また考える。
いつかその答えが出たなら、わたしはあのベッドルームのドアをノックして、東條さんの横に眠ることができるのだと思う。
だから、わたしが今眠れる場所は、ここだけ。
パソコンのディスプレイには、青い空を見上げるように咲いた赤くひらひらした花の写真があって、数秒後には眩しいほど真っ白いビーチに青く透明な波が打ち寄せる写真に変わる。たしか沖縄の写真だと言っていたのをぼんやりと思い出した。
数ある写真フォルダの中から適当なものを選んでスライドショーを見る。耳をすっぽりと覆うヘッドフォンからは、知らない男性歌手の洋楽が流れていた。けれど、決してボリュームを上げすぎてはいけないと、東條さんから言われている。
何か、あったときのために、わたしはいる。そのときに、何も聞こえていなかったでは困るから、外部の音が聞こえる程度のボリュームにしなければいけない。
本当は、聞きたくないからヘッドフォンをしているのだけれど。そんなわたしの気持ちを、東條さんも知っているのだけれど。
背後のパーティションの向こうでは、カメラマンの東條さんが、オンナノコを裸にして写真を撮っている。裸になったオンナノコが東條さんに写真を撮ってもらっているという表現のほうがいいだろうか。ま、そんなこと、どうだっていいのだけど。
「お疲れさまでした」
東條さんの声が聞こえて、わたしはヘッドフォンを静かに外す。けれど、わたしは外してしまったことをすぐに後悔した。
吸い付いた唇が離れる音がして、薄っぺらな紙一枚隔てた向こうで、間違いなく誰かの唇が誰かのどこかに密着していたのだと想像できる。東條さんは、決して自分からそういうことをしない。だとしたら、それはオンナノコが東條さんに食いついたってことだ。
「ミユちゃん」
「いやだよぅ。サトルくん、ミユ、このままお店になんか行けないよ。どうにかして」
「ダメ。ここではそういうことしないって、約束したよね」
「じゃあ、しなくていいから、触って」
「それも、ダメ」
東條さんが拒否しても、オンナノコの甘えたりすねたりの声と言葉が止まらない。わたしはふたりに気づかれないようにそっと息を吐き出した。
そろそろ、わたしが何気なく彼女の目の付く場所に姿を現すか、それとも何か大きい物音を立てたり、電話に出たふりをしたりしなければいけない。そのどれを実行しようかと思案していたとき、ふっと東條さんが笑ったのが聞こえた。
「ミユちゃん、そろそろ帰る支度をしないと、ぼくのペットが引っ掻きにくるよ」
「ペット?」
「ほら、その壁の向こうにいる女の子。ああ見えてね、前世でぼくが飼ってたネコだったんだよ。ネコなのに、とても忠実だったからさ、前世ではぼくに近づく女の顔に、必ず深い傷をつけちゃって。嫉妬深くて、この世に逃げてきても、まだ追いかけてきてさ。まぁ、今はネコじゃなくて晴れて人間になれたから、一体何するだろうね?」
「なに、それ……」
わたしも彼女に同意して首をかしげた。耐えきれなくなって笑ってしまったのは、同じく笑ったオンナノコよりわずかにあとだった。
「サトルくんにそんなウソ吐かれたら、帰るしかないかぁ」
なんだぁ、つまんないと声が聞こえたあと、バスローブを羽織った彼女が向こう側から姿を現した。四十近い東條さんのことをサトルくんなんて呼んでいるけど、たぶんわたしとそう歳が変わらない二十二、三と思う。甘い香りが彼女自身の熱で匂い立ち、眩暈がしそう。わたしはうっかり目が合わないように、パソコンに向き直る。
できるだけこっちは無関心なフリをしてるのに、彼女はわたしの横で足を止めた。
「それで、かわいいブタネコちゃんは、どうやってご主人様に奉仕してるワケ?」
わざとらしくわたしの耳元で、けれどとても意地悪な口調でそっと囁いた。
この仕事をするようになって、オンナノコたちからいろんなことを言われてきたけれど、わたしはまだそれに慣れることができない。聞き流すことはできるようになったけれど、その途中でオンナノコの言葉はわたしを必ず嫌な気持ちにさせる。
「別に。わたし、ただのバイトですから」
冷静沈着を装って、けれど冷たくなりすぎないように、目を合わさずそう答える。これが一番無難で被害が少ない。にっこり笑っても、きつく睨み返しても、無視して黙っていても、ぶたれるときはぶたれるし、もっと恐ろしい刃のような言葉でぼろぼろに傷つけられることもある。触らぬ神に祟りなし、参らぬ仏に罰は当たらぬ。
チッとあからさまな舌打ちが聞こえて、彼女はバスルームへと姿を消した。
「ヒナちゃん、あとよろしくね」
パーティションの向こうから、カメラと被写体のオンナノコが身に着けていた衣類を手に東條さんが出てくると、入れ替わりにわたしはそこへ入る。
眩しい照明を落として、パステルピンクのボックスを開ける。その外見とは似つかわしくない青いポリバケツとゴム手袋、そしてマスクを取り出すと、わたしは早速ゴム手袋とマスクを着けて、床に転がっている『オンナノコを気持ちよくさせる道具』たちをバケツに入れる。くしゃくしゃになったシーツをまとめてかごに入れ、バケツと一緒に隅に置いた。それからペットボトルに入った液体を雑巾にしみ込ませて床を拭く。
この作業も最初はかなり抵抗があったし、吐きそうになったし、それを乗り越えたらいろんな想像をするようになった。でも今では、ほかの部屋の掃除をするのと変わらない。ごはんを作るのと変わらない。ほとんど感情も揺さぶられない。仕事だから、次のオンナノコのことを考えると、他よりちょっと念入りにこなすだけ。
そうしているうちに、オンナノコがシャワーを終えて身支度を始める。東條さんは彼女らのお気に入りの飲み物を知っていて、それを準備する。オンナノコの身支度が終わると、準備したものを飲みながら今日撮影した写真を見て、おしゃべりをして、最終的に彼女らは楽しげにこの事務所を後にする。
「ヒナちゃん、お疲れさま。今日はヒナちゃんも好きなハイビスカスティーだよ」
「ありがとうございます」
道具たちの消毒を終え、それらを元あった場所に戻すと、わたしにオンナノコのおこぼれが与えられる。カップを受け取って、夜にはわたしのベッドになるソファに座り、ほっと息を吐いた。
「沖縄の写真、見てたの?」
カップに口をつけたところで、東條さんがパソコンのディスプレイに向いたまま聞いてきた。
「うん」
「じゃあ、今日のハイビスカスティーはぴったりだね」
「はちみつ、入れたんですね」
「このまえ、ヒナちゃんが言ってたから。どう、おいしくなった?」
「うん。おいしい」
ちょっとはちみつが多くて酸味が足りなくなっちゃったけれど。そんなことより、わたしのひと言を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「ヒナちゃんは、沖縄に行ったことある?」
「ない、です」
「いつか、一緒に行けたらいいね」
わたしは、東條さんがどこまで本気で、どこまで本音を言っているのか、まだわからない。だから、こういうことを言われたとき、どう返事をしたらいいのか、わからなくなる。
「そう、ですね」
わたしの返事を聞いて、東條さんは笑顔で振り返る。ほんの少しの間、わたしと目を合わせ、再びディスプレイに向き直った。
前世のネコの話を、もっと詳しく聞いてみたかったけれど、仕事中はなるべく話しかけないようにしているから、わたしは黙ってハイビスカスティーを飲む。今夜のごはんは、何にしよう。ネコの好物は、やっぱりさんまかな。けれど、今の季節はもうすぐ春だし、さんまは秋だ。沖縄の話が出たから、ゴーヤチャンプルとか。でも、ゴーヤもこの地域ではなかなか手に入らない。
スーパーに行ってから決めようとわたしは立ち上がる。
「晩ごはんの買い出し行ってきます」
「うん。気を付けてね」
食費と書かれた封筒だけを持って、わたしは部屋を出た。