NEW WORLD
手を繋いで歩いて帰ったのはいつの事だったろうか。
霧雨の降る中、寒さに悴む手を温める様に先に手を繋いだのは自分だったのか、はたまた彼だったのか朧気な記憶では定かではない。
帰る家を無くしたわたしは夜中でも寝静まらない街の雑踏の中に佇んでいた。
何もかもが分からなかったのだ。
何故、ここにいるのか。
気が付いた時には雑踏の中に佇んでいた。 それは立ち尽くすと表現するよりは佇んでいたと言った方が正しいと思う。
そして気が付いたのは、わたしは誰?と、いう事。
考えても何かを思い出そうとしても、分かる事は自分が雑踏の中に佇んでいるということ位しか頭の中には浮んで来なかった。
側を通り過ぎる人にぶつかられ弱々しくよろめいたわたしはもう一度辺りを見渡してから自分の手を目線まで持ち上げた。見慣れている筈の自分の手。なのに、そこには違和感しか存在していなかった。
ここに存在しているわたしは、わたしであってわたしではない様な感覚に捕らわれて、所在なく宙に浮いたままの手をそれを振り払うかの様に降ろす。
そんな状態で、ただただ佇むわたしに突然それは降って湧いた出来事だった。
失した記憶に途方に暮れ、ぼんやりとしたわたしに彼はなぜか申し訳なさそうに近付いて来た。
背丈の割に比率の小さな頭の男性。爽やかに切り添えた髪は漆黒で、切れ長の瞳と同じ色をしていた。その瞳と美麗な面を幾分申し訳なさそうに眉尻を下げたその男性は恐る恐るわたしの前にやって来たのだった。
目の前で立ち止まった麗人はこれまた心底戸惑い気味に、小首を傾げ一言投げ掛けて来た。
「君、寒くない?」
想像してた声より幾分高い声の、彼の動く喉仏を見ながらわたしは突然なんだろう、と思いながら頭を上下させた。
「あの、突然話し掛けてすみません。ずっとそこに立ってるの見て、雨も降って来たし、なにか困った事でもあったのかなって思って…」
その親切な言葉に彼が記憶を失す前のわたしを知らない人だと知った。
そして霧雨が降り始めたのに初めて気が付いた。わたしは上空を見上げて、
「雨、降って来ましたね」
とやはりぼんやりした頭のまま答えていた。
今思えばわたしの人生は記憶を失した処から百八十度転換し、彼に出会った事でまた更に複雑に湾曲したのではないかと思われる。
あれから一年位経ったのだろうか。
わたしは宵闇が訪れ始めた街の景色を目一杯開け広げた窓から上半身を乗り出しながら、物思いに耽る。
西藤譲。彼は名を名乗るとき少しだけ俯き加減で、何故だか小さな声で呟いた。
自己紹介をした彼に続き自分の自己紹介をしようとしてわたしは咄嗟にハッとした。わたしには名前がない。あるにはある筈なのだが、記憶がないわたしには自分の名前すら分からなかった。
気付いた瞬間、初めて事の重大さに気付き背筋を冷たい汗が流れた様な気がした。
「わたしの名前は…あなたが決めて」
なぜ、あんな事を言ってしまったのだろうか。逡巡したが分からなかった。もしかすると、記憶を失す前のわたしは案外適当な性格だったのかもしれない。
私達が出会った場所はこの彼の部屋から見える距離だった。
わたしはそこを見下ろしながらその日をつい最近の事の様に思いを馳せる。
なぜ、彼はあのまま放って置けばいいのにわたしをここへ連れて来たのだろう。
気が付けば繋がった手に引かれ、この仰々しい彼のマンションの部屋の前にいた。お互いに視線を合わせることなく、わたしは引かれた手を離そうともせずに彼のテリトリーに踏み込んだ。
あれから、月日だけが先にすすんでいる。わたしは何をするでなくこの広い部屋で彼の帰りをまっているだけで、記憶を手放してしまったあの日からわたしの世界の時間は止まってしまった。
いつになっても戻らない記憶。身分証なども持ち合わせていなかったわたしは何日経っても捜索願いなども出されていなかった。
もしかしたら天涯孤独の身だったのかもしれないし、心配してくれる様な両親ではなかったのかもしれない。そう思ったわたしは自分の素性を探すのをいとも簡単に諦めたのだった。
わたしの事はそれでいい。もう失してしまったものは熱いシャワーのお湯と共に流れてしまったのだと諦めた。
だが、彼はどう思っているのだろう。
こんなにも長い間何もしないわたしをここに置いて面倒を見てくれるのか。男女の間柄の関係が私達の間に少しでも成立していたのであれば、わたしだって何も疑問には思わなかっただろう。肉体と引き替えに場所を貸す。よくある話だ。
だけど彼は私に触れては来ない。多くの時間をわたしと過ごす彼は仕事以外は常に一緒なのだ。だけど彼は今までなぜわたしをここに置いてくれるのかなどの事を口にしてくれた事がない。
何となく此処まで聞きそびれてしまって今までに何度もその事を考えて一日を過ごす事が多かった。
記憶のないわたしの記憶は、彼しかないのだ。
漆黒の瞳を細めて優しげに笑む彼――
柳眉な眉尻を下げ戸惑うように首を傾げる彼――
怒ると少しだけ涙腺が緩み漆黒の瞳を潤わす彼――
わたしの記憶はもはや否定出来ない程に彼で埋め尽くされている。
まるでわたしは記憶を彼で埋め尽くす為に記憶を失したのではないかと錯覚する程に。
だけど、そんな彼の胸中まではわたしの記憶を占める彼なのに分からない。どう思っているのだろうか――
記憶を失した身寄りのない女として同情しているのだろうか。心優しい彼の事だからそれもあるのではないかと思われる。
わたしの世界の時が止まって早一年位。そろそろ、新しい世界を見に行くのもいいのではないかと思う。
きっと彼ならこのわたしの気持ちを受け止めてくれるのではないかと、わたしの記憶の中の彼がわたしの背中を押すのだから――
わたしの世界の時間と彼の世界の時間を、一緒に刻んで行くのもいいかもしれない――
とっぷりと暮れて宵闇が闇へと変わった街並みが優しくわたしを包んだ。
もうすぐ、譲がここへ帰って来る。
今日もわたしの処へ――
読んで頂いてありがとうございます。
短い話ですが、彼女の気持ちが伝われば幸いです。譲サイドの話もいずれ書きたいと思ってますので良ければ読んでみて下さい。
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