第6章「逃亡の始まり」
深夜三時。
部屋の照明は落としてあったが、壁一面のホログラムディスプレイだけが淡く光り、室内を青白く照らしていた。窓の外では、夜の都市を自動運転車の光の列がゆっくりと流れている。
マサキはクローゼットを開け、奥にしまってあったバッグを取り出した。ベッドの上に置き、少し考えてからジッパーを開く。中身はほとんど空だ。そこへデータチップと現金を入れ、必要最低限のものだけを静かに詰めていく。
リビングでは、あるみんも準備をしていた。小さなケースを開き、いくつものデータチップを整理している。普段と変わらない落ち着いた動きだが、ときどき手が止まり、何かを考えるように視線を落とす。
「マサキ」
呼ばれて顔を上げると、あるみんがケースを閉じたままこちらを見ていた。
「本当に、行くの? 大丈夫かな」
マサキはバッグの口を閉じ、少しだけ考えてから答える。
「ここに残る方が危ないよ」
あるみんはすぐには言葉を返さなかった。少し俯き、それから小さくつぶやく。
「ごめんね……」
マサキは首を振る。
「違うよ。君のせいじゃない」
そのとき、部屋の中央に青白い光が浮かび上がった。統のホログラムだった。
「都市監視網の活動が明日以降増加します。移動する場合、今夜が最も検知されにくいタイミングです」
静かな声で告げられ、マサキは短く頷く。
「分かった」
直後、マサキの視界の端に通知が浮かんだ。差出人は久世理人だった。通信を開くと、視界にメッセージパネルが展開される。
『まだ起きていらっしゃいますか』
「起きてる」
すぐに返信が届いた。
『都市行動解析システムが明日以降更新されます。深夜の突発的な移動は、かなり高い確率で検知されます』
少し間があって、もう一行が表示された。
『もし移動されるなら、今夜しかないと思います』
マサキは小さく息を吐いた。
「理人からも同じこと言われた」
あるみんが静かに頷く。
「……じゃあ」
「行こう」
統のホログラムが消え、部屋は急に静まり返った。
玄関のドアを開けると、廊下は夜の静けさに包まれていた。マサキはエレベーターを呼ぶ。偽装IDはすでに都市ネットワークに登録されているため、むしろ普段通りに行動する方が自然だった。
エレベーターが到着し、二人は中へ乗り込む。ゆっくりと下降が始まり、階数表示が静かに減っていく。あるみんは壁にもたれ、何も言わずに表示を見つめていた。
やがて一階に到着する。
ロビーには警備ロボットが巡回していた。センサーがこちらを向き、認証ランプが赤く光る。数秒の沈黙のあと、ランプは黄色に変わり、やがて青へと切り替わった。ロボットは何事もなかったかのように別の方向へ向きを変える。
マサキは小さく息を吐いた。
「大丈夫そうだ」
外へ出ると、夜の空気が冷たかった。マサキが自動タクシーを呼ぶと、都市交通網に接続された車両が最も近い位置から自動的に配車される。三十秒後、黒い車体が静かに滑り込んできた。
ドアが自動で開き、二人は後部座席に乗り込む。車は音もなく走り出した。
窓の外では、都市のネオンが道路の上を流れていく。しばらく沈黙が続いたあと、あるみんがマサキの手を握った。
「……怖い」
小さな声だった。
マサキはその手を握り返す。
「大丈夫」
そう言った瞬間、マサキの視界に赤い警告が点滅した。
追跡検知。
胸が強く脈打つ。マサキはすぐに後方を確認した。遠くの夜空に、二つの光点が見える。ドローンだった。
「……追ってきてる」
思ったより早い。都市網の解析は、もうここまで来ている。
マサキの視界に通信パネルが開く。
「Echo、聞こえるか」
数秒後、返信が表示された。
『聞こえてる』
「追跡ドローンが二機」
『見えてる』
短い沈黙のあと、メッセージが続く。
『三十秒だけ都市網を乱す。その間にルートを変えろ』
「頼む」
車はトンネルへ滑り込み、外の光が一瞬で消えた。数秒後、警告表示が揺らぐ。
『今だ』
マサキは車両AIに指示する。
「次の分岐で外周ルートへ変更」
『ルート変更します』
車は高速道路を離れ、別の幹線道路へ滑り込んだ。マサキが後方を確認すると、さっきまで追っていたドローンの光はもう見えなかった。
三十分後、車は郊外の廃工場の前で停止する。錆びた鉄骨の影が夜空に浮かび、風が金属を鳴らしていた。
二人が中へ入ると、奥から声がした。
「来たか」
懐中電灯の光の先に、Echoが立っていた。
マサキは肩の力を抜く。
「助かった」
Echoは軽く肩をすくめる。
「まだ助かってない」
Echoは空中にログを展開した。
「都市網はもう動いてる」
マサキが聞く。
「どのくらいだ」
「全域」
Echoはあるみんを見る。
「……初めてだな」
あるみんは少し緊張した様子で頷いた。
「はい」
Echoは工場の奥を指す。
「休める場所がある」
三人は奥へ歩いていった。そこには簡易ベッドと機材が並んでいる。あるみんが小さく息を吐いた。
「……逃げられたんだよね」
Echoは首を振る。
「違う。見失わせただけだ」
マサキは天井を見上げた。遠くで風が鉄骨を鳴らしている。
「どのくらい時間がある」
Echoはログを閉じた。
「長くて二日だ。都市網は必ず追いつく」




