太陽の花束をきみへ
初投稿です。楽しんでくれると嬉しいです。
ボクのこの気持ちが憧れとか、尊敬とか、恋とか、そんなものじゃないっていうのは自分でもわかっているんだ。でも、そうじゃないとしたら、この気持ちはなんて呼べばいいのだろう。
先生がボクの高校に来たのはボクが高校3年生になった6月だった。外では紫陽花が雨に濡れていて、紫色に水滴がつく様がとても綺麗だったと覚えている。たった2週間の教育実習生。毎年高校が受け入れている若い見習い先生の授業期間。2週間もすればさよならの関係。だから初めて先生が朝のHRに教壇で挨拶したときも碌に聞いていなかった。
「……です。今日から英語を教え……」
英語か。よりによってボクの一番嫌いな教科……か…… でもハスキーな声だな……と、ボクはぼーっと窓の外の紫たちを見ながら聞き流していた。
いつものように図書館で勉強を終え、放課後駅前をブラブラしていた。ブラブラといっても行く先はいつも同じ。学校に行き、図書館で勉強したあとはここを行ったり来たりの毎日。高校に入ってからは一度も中に入っていない。そう、それがボクの日常。
「あれ?……葵さん?」
聞いたことのあるハスキーな声に名前を呼ばれたことに気づいて振り向くと20代くらいの人がいた。
「……先生……」
あ、そうか。確か教育実習生の。ボクは曖昧な記憶から消去法で思い出した。
「葵さんですよね?あってます?よね?」
「……先生、生徒の名前、全員覚えたんですか?」
ボクは肯定もせず、先生に質問をした。
「はい、教える生徒の名前は覚えましたよ。全校生は無理でしたけど……」
最初は自信たっぷりに、そして最後のほうはぼそぼそと先生は答えた。
「それより、葵さんはここで何しているんですか?何か演奏するんですか?」
駅前の楽器屋、そこで入りもせずウロウロしていたボク。いつから見られていたんだろう?演奏するって聞いてきたってことは、通りかかったばかり?それとも?ボクはずっと見られていたかもしれないという可能性とそこから来る羞恥心を抑えながら、
「いえ、ただ通りかかっただけです」
と答えるのが精いっぱいだった。
「そうですか。なんとなく葵さんは音楽やっているような気がしたんですけどね」
「どうしてですか?」
「え?なんとなく、ですよ?」
ボクが驚いて聞くと、先生は一瞬ぽかんとした顔をして、笑顔で答えた。
「うーん、しいて言えば……」
そして一拍おいて、
「……同じ匂いがしたから……、ですかね?」
「匂い?ボク、そんな臭いですか?」
「ええ?そういう意味じゃ……、でも、それって私も臭いってことになるじゃないですか~!?」
周りを気にせず大声で突っ込む先生。ぽんぽんと進むやりとり。そんなボクたちを気にせずに通り過ぎる通行人。こんな風に大人と話したのはいつぶりだろう?ボクは大人が好きじゃない。教師もそう。大人は都合のいい時だけ大人ぶる。きっと先生はまだ先生じゃないからこんな風に話せるんだろう。ボクは話しながらそう結論付けた。
「先生はこんなところで何をしているんですか?」
「あれ?話を変えましたね?まあ、いいでしょう。私は買い物の帰りです」
先生は左手に持っていた手さげバックを見せてきた。話題を変えたことに気づいたなら、わざわざ声に出さなくてもいいのに。先生のバックはなんか……
「可愛いですね」
「え?あ!これ?このバックですか?そうなんですよ!これは限定品で……」
どうやら最初自分のことを言われたのかと思ったようだ。そういう反応は子どもっぽくて可愛いのかもしれない。バックに描かれたキャラクターは有名なアニメのヒロインだったが、先生の反応が面白くてつい揶揄いたくなった。
「え?先生も可愛いですよ?」
「……はいはい、どうもありがとうございます」
先生は落ち着いて社交辞令といった風に感謝を述べた後、
「葵さんも可愛いですよ?」
と、笑顔で口撃してきた。
「……可愛くなくていいです」
思わぬ反撃にボクは俯いてそう答えるしかなかった。
「……でも、」
先生は俯いたボクに気にせず話を続けた。
「同じ匂いがするって言ったのは、私も昔音楽をやっていたからなんですよ。何の楽器をやっていたと思いま……」
「ベース、変人だから」
ボクは間髪入れずに答えた。
「……くぅ……、正解です。やっぱり葵さんも何かやっていますね?それか」
先生は今まで見せたことのない笑みを浮かべて、
「やっていた?」
ボクは動揺した。それはその質問に対してだったのか、それとも先生の笑顔に対してだったのか……。
それから店の前ではなく、近くの公園にボクたちは向かった。移動している最中、ベースの良さを一方的に語ったかと思ったら、何の楽器やってたの?もしかしてボーカル?とグイグイ聞きにくる先生をほぼ無視して歩き続けた。あれ?そう言えば、
「先生、口調が変わりましたよ?」
「あ、そうだね~。別に放課後だし、いいじゃん!それよりさ、ボーカル?」
くだけた口調になった先生は、もう先生じゃなくて少し年上の先輩みたいな感じだった。だからぽろっと言ってしまったんだ。
「うん、そうだよ。ボーカルやってたんだ」
「バンド組んでたんだ」
「中2からね。でもドラムとギターは別の高校に行ったし、ベースは……」
少しボクのトーンが暗くなったのを察知したのか、
「じゃあ、ベースいないんだ!なら私が一肌脱ぎますかね!」
「え?」
「え?じゃないよ!ここに変人ベースがいるじゃん!?ドラムとギターに連絡しておいてね~!よ~し!帰ったら久しぶりにベース触ろうっと!ちゃんと持ってきたんだよね~!じゃ、また明日ね~!」
公園に着いたと思ったら、自分の言いたいことだけ言って先生は走っていった。どんだけ自己中なんだよ。ボクは心の中で苦笑した。公園には青に混ざってピンクの紫陽花が咲いていて綺麗だった。
「葵さん、おはようございます」
教室に入ろうとするボクを先生の挨拶が止めた。ボクは学校では誰とも話さない。教室の中にいるクラスメイトがボクたちを見ている気がする。
「……おは、ようございます」
かろうじて出てきた言葉たち。すると先生は笑顔で、
「昨日の話、覚えていますか?」
「……はい」
「なら、今日から練習しましょう!」
「は?」
いきなりのトップスピードに思わず大きな声が出た。
「あ、大丈夫ですよ?もう音楽の先生には言っておきました!放課後、音楽室で会いましょう!では、授業の準備がありますので!」
そう言うと先生は去っていった。まさに暴風。先生を見送るボクの背中に興味の視線たちが刺さっているのを感じた。ボクは教室に入らずトイレに向かった。
……起こったことは仕方ない。起こったことは仕方ない。起こったことは……。洗面所で鏡に向かって何度も自分に言い聞かせる。ようやく少し落ち着いてきた。この時間誰も使ってなくて良かった。ボクは教室に戻った。戻る途中にしていた心配を他所にボクに話しかけてくるクラスメイトはいなかった。通常運転。良かった。
3時間目は先生の英語の授業だった。実際、先生は後ろで授業を見学しているだけだけど。ボクの席は1番後ろだけど、さらに後ろにいる先生が今どこを見ているのかわからない。きっと先生は授業に集中しているはずだから黒板のほうを見ているはず。ボクのほうを見ているはずがない。でも、先生の視線がボクの首筋から背中にかけて刺さっているような気がする。自意識過剰、そう自分に言い聞かせる。でも、振り返ることが出来ない。振り返って確認すれば済むことなのにどうして出来ないんだろう。先生がボクを見ていなかったら?きっとボクが振り返ったことに気づいて社交辞令の笑顔を見せてくれるかもしれない。前を見るようにと小声で注意するかもしれない。先生がボクを見ていたら?視線が合ったら?いや、そんなわけない。でも、でも……。いつもはつまらな過ぎて寝ているか、外の紫を観察しているかの2択しかない英語の授業。いつものように机にうつぶせになることが出来ない。先生が後ろにいるから?これがいつも寝ている生徒を起こすための先生の策略なら、ボクは見事にハマっている。昨日会って話したばかり。でもボクの心の中をあっという間にかき乱した嵐。その目がすぐ後ろでボクを見ているような気がする。
「あれ?今日は寝てないな。珍しいな。」
教壇に立つ空気の読めない英語教員がボクに向かって言った。ボクを見るクラスメイトたち。先生もボクのことを見ているだろう。ボクはこの時ばかりは教員の言葉に心の中で感謝し机に突っ伏した。
「あっ……」
自分の失言に気づいた教員は少しの沈黙の後、授業を再開した。いつもの姿勢になったボクは顔を少し左にし、横目で外の紫たちを見た。雨は降っていなかった。
ボクは英語が苦手ではない。5教科の中では英語、数学の順に点数も取れる。でも嫌いだ。昔は好きだった、と思う。英語を話すと違う自分になれる気がした。そう、ボクはボク自身が嫌いだったから、英語を話しているときだけは違う自分になれた気がしたと勘違いしただけだったんだ。でも、ボクはボクでしかなかった。英語を流暢に話せても、話しているときの声のトーンが違っても、それはどこまでいってもボクだった。それに気づいてしまったとき、ボクの中のボクが言った。
「見苦しいあがきだね。ほんと、無駄なあがきだよ」
ボクは絶望した。その日からボクは英語が嫌いになった。
ボクは自分の声が好きではない。でも歌うことは好きだ。歌うときも声は変わる。その時に出る声を録音すると自分の声じゃない、誰か別の人の声みたいで好きだ。でもボクはボクだ……。英語と同じだ……。でも、でも!歌うことっていうのは自分を外に向けて表現することなんだ!嫌いなボクも外に出してあげると喜ぶ。英語は嫌いになってしまったけど、歌うことだけは嫌いになりたくない!
本当は気づいている。英語で話すことだって表現だ。英語はコミュニケーションの手段だ。日本人だから日本語が母国語で話せるだけであって、もし英語圏に生まれていればボクだけでなく普通に英語を話せるだろう。話す言語が変わるだけ。たったそれだけなのに、どうして人格まで変わるんだろう?
なんて昔のことをぐるぐる考えているうちに放課後になっていた。……音楽室。英語の授業が終わった後、寝たフリをしていたボクに先生は声をかけようとしていたみたいだけど、いつもの教員に呼ばれてすぐに教室を出て行った。それで良かった。問題の後回し。そして時間だけがみんなに平等に過ぎていき、ボクは音楽室に向かうかどうかを自分の机から動かずに考えていた。帰りのHRが終わり、クラスメイトも部活動や帰宅と散ってしまい、誰も残っていない教室。いつもなら終わった瞬間に図書館へ向かうボクが残っているから、みんな気をつかってくれたのかもしれない。この3年間ほとんど話したことのないクラスメイトたち。高1の最初の頃は話しかけてくれた子が何人かいたけど、ボクが閉じこもっていたから、だんだんと話しかけなくなり、それが普通になり、2年になってクラスメイトが変わってもなんとなくボクに話しかけない暗黙の了解が出来ていて、3年の2か月が経った今話しかけてくるのは委員長だけ。それも決定事項の共有と課題の提出のみ。それが心地よいと思っていた。いや、心地よいじゃなくて、ラク、か……。
「迎えにきたよ~」
先生は昨夜のように気さくに話しかけてきた。OnとOff?
「……行くって言ってないじゃないですか」
「だから迎えに来たんだよ」
「ベースとボーカルだけで何するんですか?」
「まずは自己紹介?私のベースがどんな音を刻むのか。葵の声がどんな音を奏でるのか」
「さん付けはやめたんですか?」
我ながら意地悪だと思う質問。
「え?もういらないでしょ?」
屈託のない笑顔で言う先生。
「なんで?」
「バンドメンバーに遠慮なんてしないって!」
「いや、まだやるって言ってなっ」
ボクの返事を聞かずに、
「さあ、行こう!」
先生はボクの手を掴んで音楽室へと向かった。先生の手はボクの手より温かかった。ボクはその温かさを振りほどけず、ただ俯いて着いていくだけだった。もうほとんどが下校していて途中誰にも会わなかったことになぜかほっとしていた。俯いたボクの視線は握った先生の左手に向いていたから誰かとすれ違ったとしても気づかなかっただけかもしれないけれど……。
「到着~!」
音楽室に入ると先生はボクの手を離した。ボクは自分の右手をおさえながら、
「で、どうするんですか?」
と感情を出さないように声をおさえて質問した。右手には温かさがまだ残っている。
「まず、今まで何歌ってた?何歌える?でもいいけど」
「流行りの曲とかならなんでも……」
「……ふーん。オリジナルとか作らなかったの?」
「……ありますけど……」
「ならそれでよろしく~」
軽い。軽すぎる。
「……ア・カペラで、ですか?」
「うん、出来るでしょ?」
「……」
正直迷った。歌うことは出来る。出来るはず。一人では今でも歌っている。でも、2年以上も人前では歌っていない。
「あっれれ~?恥ずかしいのかな~?」
安い挑発。そんなんで……
「怖いのかな~?そうか、そうか、この天才ベーシストを前におじけづいたか~!」
「……先生のベース、まだ聞いていませんよ」
「すぐ聞かせるよ。合わせるからさ」
そう言うとすでに隣に用意してあったベースを手にした。もうチューニングはしてあるらしく、弾く準備をしている。恰好は様になっている。けど!そんな簡単に合わせられるものか!中学時代とは言え、自分たちが出来るマックスを出して作った曲だ。BPMは127だけど、倍の254バージョンで歌ってやる!挑発への怒り、そして先生のベースが一体どれほどのものか聞きたいという興味。Curiosity kills Cat?僕はいつも外界を遮断する役割をしている前髪を上げ、久しぶりに本気で歌う態勢を取る。さあ、いこう!
「Ah~!」
突然のシャウトに先生は一瞬驚いた顔をした。でも次の瞬間にやりと笑い、
Wake up!
It’s time to fight!
Make up!
It’s time to dance!
There’s no one called nowhere man.
Everybody is equal, no more war.
……
ボクの歌に合わせてファンキーなベース音が刻まれる。完全についてきている。先生の細い指がベースの4本の弦を自由自在に駆け回っている。先生と目が合っ、
「あっ……」
歌詞が飛んだ……。調子に乗って254でなんて歌うんじゃなかった……。
「いや~!マジでびっくりしたよ!すごいじゃん!」
満面の笑みの先生。
「……調子に乗りました。すみません」
「いやいや、まさかこんなにハイテンポの曲でしかも英語の歌詞?シャウトから始まるとかもういい意味で狂ってたよ!まーじで、ロックだね~!」
褒められたことが嬉しい反面、先生と目が合って歌詞が飛んだことが恥ずかしくてまともに先生の顔が見えなかった。
「あ、ごめんね。挑発したとはいえ、一気にフルスロットル入れて歌えるなんて。この曲っていつ作ったの?中学?」
「……はい。中3の時に……」
「まーじで、こいつ、天才かよ!ついていくのでやっとだったよ~!」
まーじで、っていうのは先生の口癖なんだろうか?
「初見でついてこられたってことのほうが……」
「いやいや、あんなん適当にごまかして合わせただけだから」
適当に合わせられる曲じゃないことはボク自身が知っている。誰にも作れない曲を作りたい、そうやって作った曲なんだから。
「先生はなんでプロにならなかったんですか?」
「え?あー、プロのミュージシャンってこと?いやいや、無理無理~!そんな甘いもんじゃないって~!」
「目指したことはあったんですか?」
「……うーん、ちょっとだけね。でも、テクニックだけじゃ無理だし、なんていうかなぁ……」
先生は顎に左手をあてて、しばらくブツブツ言いながら考え込み、
「あ、そうそう!葵みたいのがプロになるんだよ!」
ボクを指さしてそう言った。
「で、ギターとドラムには連絡取った?」
「……いや、まだ……」
「そっか。ずっと連絡取ってないの?」
先生はなんの遠慮もなくズケズケと聞いてくる。
「たまにDMで連絡はとっているけど、バンド関係でなくて普通の話だし……」
「なら、バンドやろ!って送ればいいじゃん!」
「……バンドは……」
「えー、やろうよ!」
「先生がやりたいだけじゃん。ボクは……」
「そだよー。私がやりたいだけ」
そう、この笑顔。自分の気持ちに正直なとき、先生はにやーと笑う。その目尻の下がり具合にボクの心は乱される。
「でも葵はやりたくないの?久しぶりに楽器と合わせて楽しくなかった?」
楽しかった?先生が合わせてきて正直ショックで、驚いて、そして……
「あれ?楽しくなかった?おっかしーなー」
先生は腕を組んで首をかしげながらボクを見る。でもその目はボクを見据えて言っている。本当は楽しかったんだろ?って。あの目で。
「……自分でもわからない、……・わからないんです。歌うことは好きだし、人と合わせるのは久しぶりだし、人前で歌ったことさえ久しぶりで……」
「うんっ!葵は面倒くさいね!」
そう笑顔で言い切るものだからボクはあっけにとられた。
「面倒くさいってなんですかっ!?」
思わず語気が強くなる。
「だって、自分の気持ちに素直になればいいだけじゃん!あれこれ理由なんてないよ!楽しかったか楽しくなかったか!Yes or No!シンプルじゃん!私は第三の答えなんて求めてないよ?」
「先生みたいにシンプルに生きれたらって思いますよ」
「ほら、また回答をはぐらかす。私はずっと待ってるんだよ?楽しかったの?楽しくなかったの?」
あの目でボクを見つめる。ボクは先生のわがままについに折れてしまい、
「……楽しかった、んだと、思います」
と白状した。
「なら、ドラムとギターに連絡!善は急げ!」
……善……なのか?
もしあのとき先生と出会ってなければ、こんな気持ちになることなんてなかった。知らないままのほうがいい。心に蓋をしてしまいたいけれど、あふれる想いが蓋を閉じさせてくれない。あっという間の2週間。いつものつまらない、こなすだけのルーティンから離れた2週間。先生と会えたことに感謝している。でもそれだけじゃないモヤモヤした気持ち。
次の日の放課後、ボクは先生と一緒に駅前の楽器屋にむかっていた。先生と会ってまだ3日。
「生徒とこんな風に歩いていてもいいんですか?」
「え?葵はバンドメンバーだし、もう学校出たら先生じゃないし!てかさ、実習生って先生なのかな?ほんっと、葵は面倒くさい真面目ちゃんだね!」
カラカラと笑いながらボクの少し先を歩く先生。
「……ボクって……」
「ボクって、そんなに面倒くさい生徒ですか?」
「うんうん、葵は面倒くさいよ。でもそれが十代っぽくていいんじゃない?」
先生は後ろを見ずにそう答えた。
「……」
「なになに?落ち込んだの?傷ついたの?私、なんか地雷踏んじゃった?」
ボクのほうを振り向いて笑顔で聞く先生。そこまで遠慮なく聞かれるとたじろぐ。そしてなんでそんなに笑顔なの?戸惑うボクを気にせず、先生は急に真顔になって、
「葵が何を悩んでいるかなんて知らないよ。だって私、葵じゃないし。でもね」
ボクの顔を、
「悩みとかトラウマとか、そんなもんに引っ張られる人生なんて嫌じゃない?悩む時間は大切だと思うよ。でもそれに囚われてはダメだよ」
……両頬に感じる先生の体温はきっとボクの顔より冷たい。
「なーんてねっ!知らんけどっ!」
そしてボクの頬は左右に伸びた。きっとボクの顔は赤くなっている。それは先生に引っ張られた痛みによるものじゃない。ボクの顔がアツいだけなんだ。
「さーって、着いたよー!2人、中にいるかなー?」
先生はボクに気にせず、店内に入っていった。閉まる自動ドア。これはボクにとっては儀式。店の前に置いてある白い紫陽花の鉢を見つめる。大げさかもしれないけれど、この店に入るということは、また音楽の道を始める、その決意表明。こんなんだから先生に面倒くさいって言われるのかもしれない。でも、でも、……ボクにとっては……、
「……さっさと入れよ。邪魔」
ギターの由の声が聞こえたと思ったら、背中がドンっと押され、自然と開く自動ドア。こけないように中に入っていくのはボクの右足、左足、右足……。
「何してんの?邪魔でしょ?」
態勢を崩しつつも振り返ったボクに由は冷たい視線を送ってきた。……ボクの儀式……。目で訴えてみたが、由にそんなボクの無言の抗議が通じるはずもなく、
「奏ならもう入っているってさ、行こ。あ、あれか」
通り過ぎ際に言う由を目で追うと、奥で奏と先生が話しているのが見えた。ドラムの奏は中学時代に185㎝の高身長で先生も割と背が高いほうだけど、奏を見上げながら話している先生はなんかボクたちと同じ子供に見えた。
「あ!葵!奏くんって192㎝なんだって!めちゃくちゃ高いねー!もう少しで2mじゃん!」
そう言ってはしゃいでいる先生を見たら、ボクは力が抜けた。今まで自分の儀式に拘っていた自分が馬鹿らしくなってきた。
「え?また伸びたの?」
「ああ、中学から比べたらな。あれから電話だけで実際会ってなかったからな。久しぶり、元気?」
近づけば確かに中学の頃よりも迫力のある奏。それはきっと身長が伸びたからだけじゃない。中学の頃は身長が高いだけのひょろひょろ坊主だった奏は、この数年間で瘦せマッチョなタンクトップ筋肉になっていた。
「どうしたの?ムキムキになってるじゃん」
「ああ。ドラム叩き続けるには体力が必要だからな。それでトレーニングしてたら、いつの間にかこうなっていた」
「いやいや、端折りすぎ!」
「奏も相変わらずだよね。俺なんて身長が縮んだ気がするっていうのに」
「そうだな。前は俺の胸くらいに顔があったのになぁ」
「いや、だからそれは奏が……」
中3の卒業式以来だというのに自然過ぎるほど自然なやり取り。思わず2年前に戻ったような感覚。そして隣には……、
「ん?どしたの?」
ボクらの会話を笑顔で聞いていた先生がいた。
「……で?今さらバンド組みたいとかさ、どういうこと?」
由がボクを睨みながら聞いてきた。背はボクと同じくらいなのに、目つきの悪い由が睨むとさらに迫力がある。
「こちらにいる、先生?でしたっけ?なにか関係あるんじゃないのか?」
奏が冷静にボクたちの間に入る。
「奏はそうやってすぐ葵を甘やかす。そんなんだからさぁ……」
「はい!そうです!原因は私ですっ!」
そして場の空気を読まない先生の一言。右手を高く挙手のおまけつき。カオスの誕生だ。これには由も少したじろいだようだ。
「誰ですか?」
「葵の学校の教育実習生、かな?よろしく」
「……で、あなたも楽器やるんですか?」
相手が年上のせいか、由も慣れない敬語を使って話す。
「うん、そうですよ。葵がすごく聞かせるボーカルだったから、昔のメンバーと私とで再結成しよう!って話になってね!」
「あなたはベーシストってことですか」
「うん、そうですね。変態ベーシストです!」
またボクにしかわからないネタを……、
「……ねぇ、奏。これ、なに?」
「こら!先生にむかって指さすな。これっても言うな」
敬語を忘れたのか、先生をこれ扱いする由とそれを注意する奏。二人を見てカラカラと笑っている先生。
「ま、いいけどさ。俺も最近までやってたバンド抜けてちょうど暇してたところだし……」
「また喧嘩して抜けたのか?」
「奏、お父さんかよ?うっさいなぁ」
「由がわがまますぎるんだよ。俺らのときも由がいつも文句ばっかりいうから俺が中学の先生やライブハウスの方々にどれだけ頭下げて謝ったことか……」
「謝んなくていいじゃん。俺悪くないし」
「いや、お前が悪いのっ!」
「奏は今バンド組んでいるの?」
「普通にスルーしやがって。そういうところも、はぁ……。ああ、組んでいるけど週末たまにこの裏を借りて練習してってくらいだからな。あとは自主練」
いつも通りの由に諦めた奏は近況を話し始めた。この店の裏はライブスタジオになっている。中学のときはおこずかいを出し合ってみんなで借りていた。
「じゃ、みんな暇ってことだよね?」
ここで先生の声。
「……暇ってわけじゃ……」
「あー、わかってるわかってるって!毎回スタジオを借りるのもお金がかかるからさ……」
先生の提案はボクたち3人を驚かせるものだった。
うなされたときはいつだってトラウマが原因だ。起きたとき、夢で良かったという思いとともに、またトラウマを思い出してしまったことに落ち込んでしまう。トラウマはそうやって心の奥へ奥へと深く刻まれ、さらに触れて欲しくないトラウマに変換されてしまう。
「散々ベースは変態だってからかってたクセに、お前のほうが変態だったんじゃねーかよ!」
ハッと起きる。……またこの夢か。まあ、実際に言われたことなんだけど……。当時のボクはまだ普通でいたいと頑張っていた。だから彼から告白されたときもいいやつだし、彼の言うお試し期間に釣られて付き合ってみた。でも付き合っていけばいくほど私の中のボクが涙した。ボクも私も壊れる寸前だったんだ。だから彼に本当の気持ち、ボクの気持ちを話し、それを理由に別れ話になった。そのときの彼の反応が夢に今でもリフレインされる。ボクが甘かった。彼なら許してくれるなんて期待をしたのだから……。
ジメジメした空気。だるい身体を起こす。いつものこの時期か……。先生の提案は空き家でのバンド練習だった。場所はいつもの駅の隣の駅から離れているけれど、その空き家は周りに民家がなく、先生曰く、ある程度の音を出しても問題ないとのことだった。奏が、誰の家ですか?と尋ねたとき、友人の家と先生は答えた。でも、ボクたちにとってはそこがだれの家かなんて問題ではなかった。いや、ボクにとっては、またバンドが出来ることのほうが重要だった。だからだるい身体に鞭を打ってボクはベッドから出た。
学校が終わり隣の駅まで先生と一緒に電車に乗る。同じ方向に帰る生徒がいて先生に挨拶していたが、隣にいるのがボクだとわかるとそれ以上近寄って来ることはなかった。それはいつもよりも仏頂面なボクの顔のせいなのだろうか?電車の中でボクと先生は座席に座ることが出来た。今日は立っているのがしんどかったから助かった。きっとそんなボクに気づいていたんだろう。
「調子悪いなら、無理せずに、ね?」
「……大丈夫です……」
なんとなくの気恥ずかしさで、ボクは大丈夫としか言えなかった。
空き家に着くと、ギターの音が聞こえてきた。
「……遅かったじゃん」
ギターの持ち主はボク以上の仏頂面でそう言った。中学の頃よりもさらに仏頂面になった気がしないでもない。でもこれが通常の由。奏は高校の委員会が長引くから先に来たらしい。
由は口よりもギターの方が饒舌……、いや、由の場合、思ったことを口に出し過ぎるからすぐに相手と喧嘩になる。一方、由のギターは繊細だ。どんなにテンポが速い曲でも激しい曲でも、1つ1つの音を優しく丁寧に奏でる。実はこっちが由の本音なんじゃないかと思っている。
あっと言う間に2週間の実習は終わってしまった。他の生徒は先生の期間終了を惜しんだ。ある生徒が最後の質問をした。
「先生はなんで、みんなにさん付けするんですか?男女問わず、さん付けじゃないですか?」
授業中、先生は生徒全員を○○さんとさん付けで呼んでいた。男女関係なく、さん、と呼ぶ。誰かがLGBTQ++の影響ですか?と聞いたら、笑いながら、そんな感じかな?と適当な返事をしていた。
「なんかさ、前に同じ匂いがするっていったけどさ。覚えてる?」
今日は他の生徒にとって先生は最後の日だったけれど、ボクにとっては関係ない。練習への道の途中、ぼ~っとしていたボクに先生はいきなりそんな質問をしてきた。
「うん、覚えてるよ」
「あのときは適当に言っただけだけどさ、やっぱ私たちって似ている気がするんだよね。だからなのかな?葵のこと、ほっとけない」
その時の先生の顔は、いつもと違ってひどく真面目で深刻な顔だった。
物事は一瞬にして暗転する。一体いつ階段を踏み外してしまったんだろう?きっと浮かれているときは、足元が見えていないんだ。
最近楽しい。バンド練習も調子いい。でも、そんなときに限って何か悪いことが起こるのってどうしてなんだろう?バンド練習が終わり、いつものように先生と駅前の楽器屋兼スタジオから駅に向かっていたときだった。この道はそこまで人通りがない。先生と二人きりになれる時間。あ、向こうから他校の男子生徒が4人くらい歩いてくるのが見えた。この辺では見ない制服。あ、ボクの中学から近い高校の……。なんとなく珍しい制服に気を取られていてボクは男子高校生の顔を見ていなかった。
「あれ?変態じゃん?」
通り過ぎる瞬間、声でわかった。制服だけ見ていたボクとは違い、彼はボクに気づいてしまった。どうしてここにいるの?
「なんだよ。無視かよ、変態」
「なになに、変態って?」
「お前の知り合い?」
「え?結構かわいい子じゃん!」
無視されたと思い、むすっとした顔をする彼とその友人達の会話。
「おい、返事くらいしろよな、変態。同じバンドメンバーだったろ?それに……」
隣の先生が今どんな顔をしているのか知らない。知りたくもない。
「……一応は元カノだろ?」
彼は意地悪な笑みを浮かべてそう言った。
……やっぱりボクはボクが嫌いだ。こんなとき何も言い返せない。普段誰とも話さないのは別にクールぶっているわけじゃない。お高くすましているなんて陰口も叩かれるけど、ボクは……、
「私の大事なメンバーに喧嘩売ってんの?元恋人だか元メンバーだか知らんけど、手を出すなら相手になるよ?」
「あんた誰?」
「話聞いてなかったの?あ、頭が悪いだけか」
「おい、変態!コイツなんっ」
「あ~、いった~!」
彼が最後言い切ることが出来なかったのは、先生が彼を殴ったからだった。ボクの目に映ったのは路上にしりもちをついていた彼だった。
「おい、大丈夫か?」
「コイツ、やばくね?」
心配する彼の友人達。どうやら向かってくる様子は……、
「あ?私の大切なメンバーに喧嘩売ったのそっちでしょ?」
え?先生、なんで煽るの?先生の声も少し低くなっているに気づき、先生の顔を見た。先生が怒ったらこんな顔するんだ……。ボクはこんな状況なのに呑気にそんなことを考えていた。あ、彼が起き上がった。
「くそっ。あ~!わかったぞ!お前らレズカップルだろ!」
「先生はそんなんじゃない!」
やっとボクの声が出た!
「先生のこと知らないのに勝手なこと言うなっ!」
ボクが反論するなんて思わなかったんだろう。戸惑っている彼に畳みかける。
「ボクがお前と別れた本当の理由は、お前がガキ過ぎたからだよ!別れてからもレズレズ、こっちが何も言わないからって好き勝手周りに言いふらしてさ。ボクだったら好きだった人にそんなことしない!お前はフラれて自分のプライドが傷ついただけだろ?だからボクのことを変態呼ばわりして自分のプライドを守りたかっただけだろ?そんなちっちゃな男に誰が惚れるかよ!バカっ!最初にお試しで付き合おうって言ってたくせに、フラれた途端に態度変える、そんなお前が嫌いだったんだよ!」
半分は嘘、半分は本当。
「先生、いこっ!」
ボクは先生の左手をとってその場を走り去った。彼らは追ってこなかった。先生の左手は震えていた。
「かっこよかったよ、あの啖呵」
駅に着く前に先生が言った。
「やめてよ……。あれは黒歴史だから」
「黒歴史か~!」
先生はカラカラと笑い飛ばしてくれた。後ろではまだ白い紫陽花が咲いていた。
その夜、彼から久しぶりのメッセージが来た。昔はたわいのないやり取りを毎日していたその画面。最初は今日のことについてと今までのことについての謝罪だったけれど、だんだん言い訳じみた俺、悪くなくね?的な長文メッセージが続いていた。
……葵って名前、かっこいいじゃん!そう言ってくれた彼もいたんだけどね……。
ボクは返事をする代わりにブロックした。
「すっきりした顔しているな」
次の日、スタジオに入った私の顔を見て奏が言った。多分昨日のこともわかっているんだろう。なんとなくムカついたボクは奏の脛を蹴った。
知り合ってそんなに時間が経っていないから、過去にどんなことがあったかなんてわからない。今が大切っていうのはわかるけど、共有できなかった過去も全て知りたい。これは知識欲?独占欲?
「愛ちゃ~ん、はろはろ~。あ~、葵ちゃんも~、はろ~。」
最近の憂鬱の種。桜。馴れ馴れしく「愛ちゃん」呼びする男。奏ほどじゃないけど182cmの高身長。でも撫で肩猫背のせいでそれほど高く感じない。先生とは小学校の頃からの腐れ縁と言っているけど、へなへなしていて小さいころからいつも先生の後ろをついている姿が簡単に想像出来た。細身のやせ形。第一印象は頼りない。そして眼鏡。しゅっとした顔立ちをしているのに、輪郭に対して少しだけ大きい四角の黒縁メガネをかけていて、たまにメガネがずれてはそれを直し、という行為を初対面の3分間で10回以上見た。メガネ変えろよ。……メガネ。うん、こいつは桜じゃない、メガネでいいや。それ以降ボクは心の中で桜を「メガネ」と呼ぶことにした。
「これ見てよ~。新しいゲームだよ~」
好きなものはアニメとゲーム。そして実際に見たことはないけれど、先生が言うには好きなアニメのOP曲を耳コピしてピアノで即興で弾くという特技を持っているらしい。
「あ~、よかったね」
「あ~、いつもの棒読みだ~。通常運転、あざ~す」
これが先生とメガネとのやり取りらしい。先生が唯一仲良くしている男がこのメガネと言っていた。本人は、腐れ縁と言っていたが、本当にそれだけなんだろうか?と邪推して……、いや、これは嫉妬……なの……かな?
「そういえばさ~……」
のんびりした口調でメガネが言う。
「葵ちゃんだっけ?愛ちゃんが誰かと仲良くするなんて、ボク以来なんじゃない?これって……」
「ばっ!葵は大事なバンドメンバーだよ!」
慌てる先生。そんなに慌てるところだった?もしかして先生も陰キャ?一応大人の威厳を守りたいとか?
「あ~、は~、そうなんだぁ。ごめんね~、邪推して~」
メガネは誠意というものを忘れてきたらしい。謝っているとは到底感じられない風に先生に対して謝罪した。
「葵は私の大切なメンバーなんだから、桜も葵のことを丁重に扱えよ?」
「先生、そんなっ!いいよっ!」
先生がボクのことを大切だなんて言うから、ボクは急に気恥ずかしくなってしまった。
でもこのメガネ、油断できない。先生に男の影?うーん……。男としてはなよなよしているし、奏ほどではないけど高身長のはずなのに、猫背のせいで全然威圧感がないし……、でも先生がこんなに仲良く男の人と話しているの見たことないし……、あれ?そう言えば先生が他の男の人と話しているのって見たことないや……。そんな延々と続くループに堕ちながらも、敵情視察の意味も兼ねてボクは今日からメガネ日記をつけることを心に決めた。
1日目
今日からメガネ日記をつけようと思う。桜、いや、メガネ。先生の幼馴染って言っていた。あいつは要注意!な気がする。気のせい?でも先生があんなに男の人と仲良く自然に話しているのを見たの初めてだったし。大学では先生も他の人と話しているのかな?男の人とも女の人とも。あんなにコミュ力があるんだし、しっかりしているし、きっと大学でも頼られているんだろうな。なんかやだな。でもこんな風に思うボク自身もやだな。なんかメガネ日記なのに先生日記になってきた?思考の波はいつもそんなもんだ。
2日目
今日もメガネに会った。てかバンド練習を見に来てくれた。なんかメガネに見られると思ったら緊張した。あの目?いつもはのほほんとしている癖に演奏が始まったらメガネの奥の眼光が鋭くなった。男の人の目って感じで怖かった。見定められている?なんで?ボーカルとして?それとも先生と一緒にいるボクに嫉妬してる?流石に考えすぎか。演奏中のメガネの目はボク以外にもそうだったし。奏も由も、先生にも?あれ?先生を見てたときのメガネの目はどうだったろう?そこまで意識していなかったな。
3日目
今日はメガネは練習を見に来なかった。先生が言うには、推しのピアノライブがあるらしい。先生も誘われて何度か一緒に行ったことがあるらしい。ボクも先生と一緒にライブに行きたいな。一緒に行くとしたらなんのライブにしよう?先生もボクもパンクロックが好きだけど、今のパンクっていうより昔のパンクだからライブやってないや。先生に今度言ってみようかな?でもやっぱり先にどのバンド見るか決めたほうがいいか。フェスにしようかな?でも断られたらどうしよう。怖いな。先生は優しいから断らないと思うけど。でも嫌々行ってたら申し訳ないな。やっぱりやめようかな。
4日目
今日のメガネ、ナイスアシスト!先生にフェスの話をしたらメガネがチケット4枚持ってた!メガネの好きなピアニストがその日出るらしい。行くのは、先生、ボク、メガネ、そして残った1枚は奏。なんか高身長の二人がいるから安心。初めてのフェス。どうして4枚も買ったの?って先生が聞いてたけど、そんなことは関係ない!ボクはとっては先生と一緒にフェスに行けるのが第一だから!よくやったメガネ!あれ?でも普通先生のこと好きだったら、2枚でいいよね?たしかになんでだろう?あれ?ボク浮かれすぎて冷静に考えられなくなっている?そんなことないよね?くくく、メガネめ。敵に塩を送るとは失策だな。馬鹿なメガネめ。くくく。キャラ変わった?ま、いいや!フェスは来週の土曜日!あと8日!いや、もう0時過ぎたから7日!
5日目
今日のメガネは先生のことをじっと見てたことが多かった気がする。先生の演奏を見るときだけ優しい目な気がする。ボクらを見るときは蛇みたいに見定めているのに。あれ?そう言えば、少しだけボクらを見る目も品定めから変わってきたような気が。気のせいかな?
6日目
なんだかんだでもうすぐこの日記も1週間。メガネ日記とか言って、まあ、メガネのことなんだけど、別にメガネが気になるわけじゃない。男の人はやっぱり少し怖いし。でもメガネのことは最近怖くない?最初から怖くなかったけど、あの目がやっぱりってなって、でも昨日から怖くなくなってきて。そんなことどうでもいいや。敵を知るには毎日日記!これでメガネの弱点とかわかる日がくるのかな?最近ボク馬鹿になってきてる?いや、気のせい、気のせい、メガネのせい。先生のせい?じゃない!
7日目
メガネっていつもこんなに先生と一緒にいるの?って聞いたら、基本毎日会ってるよ、と余裕の笑みで返してきやがった!なんだ!大人の余裕か?数歳の差がそんなに偉いのか?メガネのくせに!愛ちゃんが教育実習で忙しくなってから少し疎遠になって、いつの間にかバンド再開してたからびっくりしたよって言うメガネはなんか彼氏とかいうより先生のお兄ちゃんとかお父さんとかそんな感じがした。ボクにはお兄ちゃんはいないけどさ。お父さんだってボクがこんなだからきっと。いやいや、やめよう。そう!メガネのせい!そうだ!メガネが調子乗ったのが気に入らない!メガネの馬鹿!
8日目
今日はメガネは来なかった。おかげで先生とたくさん話せた!明日も来なくていいぞ、メガネ!
9日目
あれ?メガネって実はいいやつ?なんかボクのサポートしてくれてない?
10日目
いよいよ明日がフェス!メガネありがとう!
11日目
フェス楽しかった!メガネはメガネだけど、かなり見直した!心の中でも桜って呼んでやるとするか。
我ながら現金なものだ。メガネは恋敵ではない、そう認識した途端、メガネを桜と呼ぶ。このメガネ日記も3日坊主ではなく、11日坊主で終われそうだ。8日目、桜がバンド練習に来なかった理由は、翌日明らかになった。簡単に言えば、過去の先生の写真や動画のデータを自宅のPCから引っ張り出すのに時間がかかったらしい。動画には、先生がベース、桜がキーボードで他のメンバーと一緒に演奏していた。桜が動画を見せるとき、先生がわ~!わ~!と半狂乱になった。うん、きっと昔の動画が懐かしかったんだろう、そういうことにしておこう。視聴中、桜が先生を抑えていたときには少し嫉妬したが、途中で先生を放し、いきなり解放された先生はボクのほうへ。ぶつかる!と思った瞬間に先生がぐはっ!という声を出した。あまり運動神経が良さそうに見えなかった桜だが、私にぶつかる瞬間に先生の襟をつかみ衝突を避けてくれたらしい。桜と目が合った。桜が笑ったかと思うと次の瞬間先生の襟を放し、まるで先生がボクを押し倒すような形になった。う~ん。グッジョブ、桜。その後は、桜は先生にボコボコにされていた。ドンマイ、桜。そこからは先生も諦めたようでボクの隣で動画の解説をしてくれた。奏がこのドラムの人、今度紹介してください!と興奮気味に先生に詰め寄っていたのは珍しいことだった。由も黙って動画を見ていたが、指だけは音に合わせて動いていた。
フェス前日、当日も桜は先生とボクが2人きりになる瞬間を度々作ってくれた。その度にボクに向かってサムズアップをしてくるから、桜なりにボクのことを応援してくれていることに気づいた。ん?応援?てことは、桜はボクが先生のことをどう思っているのかわかっているってこと???最近のボクはボケボケだ。桜はどうしてボクの気持ちに気づいたんだろう?という疑問についてはあえて考えないことにした。だって桜が気づいたってことは、先生ももしかしたらボクの気持ちに気づいているかもしれないから……。考えても答えがわからないものには蓋をしよう……。もう少しだけ今を楽しみたいから……。
塵も積もれば山となる。山になってしまった塵は一体どうやって片づければいいのだろう?会いたい、会いたい、会いたい。先生に会いたい。そうボクの心が叫ぶ。この叫びも積もりに積もればいつか何かになるんだろうか?
3年間の蓄積は、ちょっとやそっとのことじゃ消えるものじゃない。例えば3年間部屋を掃除しなかったら?埃がたまっていることだろう。それは埃だけでなく、心にたまったモヤモヤにも言えることだ。
「どうして由はいつも不機嫌そうなんだよ?」
だから、ボクのふとした発言が引き金になることだってあるわけだ。
「別に……、不機嫌なのはいつも通りだろ?」
「まぁ、そうだけどさ。またバンド再結成してから、不機嫌度が上がったような……」
「へぇ……。そういうことには気づけるんだ?」
棘のある返し。中学の頃の由はこんな風に悪態はつかなかった。ボクが黙ったままでいると、
「なになに?心に余裕がある葵様は、心に余裕のない俺なんかを気にしてくれちゃってるわけだ。そして言い返しもしない、上から目線ですか~?」
「なんだよ、葵様って」
「おい、由、さっきからなんなんだ?」
明らかに喧嘩を売っている由。どうして喧嘩腰なのかわかない。奏も困惑している。
「なんかさ、今も普通にバンド練習やっているけどさ、俺馬鹿だからまだ納得いってねーのよ。急に辞めたお前はさ、残された俺らの気持ち、考えたことあんの?」
「由っ!」
「奏はちょっと黙ってろよっ!」
にらみ合い一触即発の2人。まずい!
「ご、ごめん!由!奏も!ボク、2人に甘えてた!」
争いを避けたくて咄嗟に出た「ごめん。」それを見逃す由ではなかった。
「葵ってさ……」
由の声がさらに低くなる。
「ごめんって言えばいいと思ってるところ、あるよね?」
「……」
「別にほんとはごめんなんて思ってないんだろ?」
「……」
「なんで何も言わないの?」
「言い過ぎだ、由」
奏が止めに入ってくれる。それに甘えているボクは……、
「なんでも正直に言えばいいというもんじゃないだろ?由は喧嘩売りすぎだ」
「奏はムカついてないの?中学卒業したらバンド三昧だなって言ってたじゃん!」
「あんなことがあって続けられると本気で思ってたのか?俺らに会わなかったのだって、俺らに会わす顔がないってのもあるかもしれないけど、葵なりの優しさだって俺は思ってる」
2人のやりとりがボクが2人に甘えて逃げていたという過去を映し出す。何も言えなくなったボク。そんなボクをさらにフォローしてくれた奏。
「優しさ?それって怖いから目をつぶっているだけじゃない?人と対立するのが怖いから?言い返されて対応出来ない自分の無力さを露呈するのが怖いから?」
由の言葉が胸を貫く。対立するのが怖い自分、言い返されて対応できない無力な自分、まさに今のボクだ。自分がいかに無力かなんてすでに知っている。それをあえて他人に見せることは恥ずかしいし、それで嫌われてしまうんじゃないかという恐怖がある。それならいっそのこと他人との境界線を予め引いておけばいい。境界線上までのことしか相談しないし、弱みも見せない。逆に境界線を踏み越えられる前に予防線を張る。そう、怖いから……。
「……由、そのくらいに……」
「奏は黙っててよ。奏はいつもコイツに甘いんだからさ。コイツにはいい薬だよ」
ボクと由との境界線はどこまでだったろう?そんなことを頭の隅の方でぼんやり考えながらも、どんどん言ってくる由に段々腹が立ってきた。
「ボクは由みたいに……」
自分の手が震えているのが分かる。怒りからなのか、言いなれていないからなのか。
「え?なんか言った?」
「……由みたいに相手のことを気遣わないで言いたいことだけ言って、それで喧嘩しれっ!問題ばっか、起こしってっ!」
自分の感情を出すってこんなに難しいことだったんだ。途中で声が裏返り、呂律も回っていない。じんわりと汗がシャツに染みていく。でも言い切った。由の顔を見るとそこに怒りはなく、笑っていた。
「ほら、言えるじゃん。あー、あほらし!」
「え?」
「あいつが抜けてどんだけ卑屈になってるのか知らないけどさ……」
由がボクを凝視する。あれ?由とこんな風に面と向かって話したのって……、中学生の頃もこんなに話したことない。あれ?
「俺らにも遠慮して何も言わないとか、俺ら仲間じゃなかったのかよ!?お前にとって俺らはそんなに頼りない存在だったのかよ!?」
そう叫ぶ由の顔にもう怒りの色はなかった。その代わり、由の顔は目から流れ落ちる涙で濡れていた。ボクは慌てて、
「っつ!違っ!」
「違くないんだよ!お前がこの3年間、3年間だぞ!直接俺らに会わなかったってのは、俺にとってはそういうことなんだよ!俺じゃなくてもいいよ!俺だって自分が役に立つなんて思ってないよ!だったらさ、奏に頼ればいいじゃないか!自分で勝手に完結して、自分で諦めて、俺らの存在をいなかったものにするなよっ!!!」
「だって、ちょくちょくDMしてたじゃんっ!」
「そんなネットだけの表面上の会話で何がわかるんだよ!俺馬鹿だからお前みたいにそんなポンポンメッセージ送れねーしっ!んなの、直接会って話した方が早いに決まってるじゃねーかよ!」
由は正しかった。ボクはまた間違えていたんだ。こんなにボクのことを心配してくれる仲間がいたのに、ボクはそれに甘えていて……、
「お前の悪い癖だぞ、葵」
奏がボクの頭にぽんと手を乗せる。いつもだったら手を置くな!バカ奏!って言うところだけど、ボクも自分の目から流れ落ちる液体を止めるのに必死だった。
「どうせ由の言葉の意味を考えて、今自分が悪いって思ってるんだろ?そうなるとお前は貝になるんだから。ほら見ろ、また余計由が混乱してるだろ?ほらっ、思ってること言ってやれよ」
奏が背中を押してくれる。
「よっ、由……」
「な、なんだよ!俺、悪くねーからなっ!」
まだ顔が濡れている由は腕を組んで答える。由は自分が泣いていたことに気づいているんだろうか?涙を拭うこともなく仁王立ちしている姿、それはまるで去勢を張っているように見えた。それがなんかおかしくて、
「って、お前!なんで笑ってるんだよ!もー!わけわかんねーよ!奏~っ!」
「あ、ごめん。由、ありがとう。」
「はぁ?何がごめんで、何がありがとうなんだよ~っ!奏~っ!」
奏がボクらを見てため息をついている。でも顔は笑っている。後で解説してやるよ、そう言って奏が由の頭を撫でた。由は、撫でんな!ばか奏!と怒鳴った。3年前と同じ風景。いつものやりとり。
「遅くなった!ごめん!」
振り返ると先生がいた。先生は涙の乾いていないボクらを見て、一瞬、?を頭に浮かべたようだが、笑っているボクたちの顔を見て微笑んだ。
太陽の花、お日様を見て育つ花。日陰者のボクとは正反対の花。いつかボクも向日葵みたいに首を上げて咲けるかな?下を向いてばかりのボク、そんなボクがキライ。だから向日葵はボクの好きな花だけどボクには眩しい花。
母親を亡くしたのはボクが10歳の梅雨、まるで雲も紫陽花も母を惜しんで泣いてくれているかのような土砂降りの日だった。その頃のボクの一人称は、「あたし」、「あーちゃん」、「あおちゃん」。「あおちゃんはぁ……」少し子供っぽいかもしれないが、そう自分を呼ぶことによって、「ボク」を押し殺し、「女の子」として生きていた。母が死ぬ前から、いや、物心ついたときには、ボクは「ボク」という認識があった。そして母親の死後、身近な大人の女性のロールモデルを失ったボクはますます自身の外見上の性と内面の性のズレ、違和感を感じていった。
父はとても母を愛していた。ボクのことは母の「ついで」で愛してくれていた。母の葬式中も父は現実を受け止められなかったようだ。母の棺にすがる父。当然喪主は父のはずだったのだが、父の祖父母も母の祖父母も父の荒れっぷりに驚き、急遽父方の祖父が喪主を務めた。母は一人っ子で親類も友人は多くなかったため、ひっそりとした葬式になるはずだったのに、あまりに騒ぐので葬式中に父は強制退場させられ、霊柩車に乗せてもらえず、次父があった母の姿は骨壺の中だった。それでもずっと泣き叫び続けた父。他人に迷惑をかける父が嫌いではあったが、同時にそんなに人を愛せるなんてすごいと思った。
そしてそんな父がいつもの父に戻ったのは葬式から一週間後。それまで父は自分の部屋に籠っていた。葬式後3日目までは父方の祖父母がボクと父の面倒を見てくれた。しかし、4日目に耐えかねた祖父が父に説教したが、それでも父はほとんど反応しなかった。祖母から、「お父さんは疲れちゃったのよ。おばあちゃんのうちに来る?」と聞かれたが、ボクはそれでも母のことをあんなに愛した父を一人にはしたくなかった。もしかしたら……、いつか……、ボクも母のように父からの愛をもらえるのかもしれない、とそのときは思っていたから。
表面上は父親に戻り、仕事に行くようになった。でも、ボクのことをまるでいなかったかのように扱った。その結果、ボクは自分のことは自分でするようになった。野菜の切り方も少しずつうまくなった。まずい料理も少しずつうまくなった。掃除、洗濯はすぐに出来るようになった。必要に駆られれば人は出来るもんなんだな。世間一般で言えば父の行為はネグレクトと呼ばれるものだろう。
「葵という名前はね、向日葵から取ったのよ?向日葵って日に向かう葵って書くの。太陽に向かってすくすく元気に育つ、そんな子に育って欲しいから」
父もボクも母という媒体を通してお互いを見ていた、そう思わせるくらい、ボクらの間に会話はなかった。たまにテーブルの上に置いてあった食事がなくなっている。美味しかった、これ食べたい、なんて言葉はない。それでもボクは良かった。でもたまにふと疑問に思った。父はボクが存在しているのかさえわからないんじゃないだろうか。2年くらいそんな関係が続いた。
それは小学校最高学年になった年の母の命日だった。ああ、これが……。初めなので少し驚いたし、戸惑った。でも、事前に用意していたものと知識で、対処はなんとか自分一人で出来た。年月とともに身体だけ女性になっていくという恐怖。「ボク」は消えて、「ワタシ」がメインになっていくのだろうか?それともボクは「ボク」のまま身体だけが変わっていくのだろうか?シクシク痛む下半身としくしく泣く上半身。これは痛いから泣いているんだ。自分が情けないから泣いているんじゃない。そう自分に言い聞かせボクはボクを慰めた。
すくすく育ってしまった身体と幼児のようにグズグズしている心。その歪さはゆっくりと、しかし確実にボクの精神を蝕んでいった。このままじゃおかしくなる。もしかしてボクはもう壊れているのだろうか?ボクは悩んだ。誰に相談したらいいんだろう?祖母?保健の先生?担任の先生?父?身近な大人と言えばその4択くらいだ。正解がどれなのかわからない。遠くの親類より近くの他人。迷った結果、ボクは父に相談した。
「お父さん……」
珍しくテーブルで料理を食べていた父。そして後ろから話しかけるボク。返事はない。いつも通り。
「ボク、女になったんだ」
なんて言えば分からず、ボクはボクなりの表現を使った。食事をしていた父の肩が一瞬ビクッと反応したが、無言でそのまま食事を続けた。その様にボクは妙な安心感を得て、そのまま父の背中に向けて独白を続けた。
「でも、ボクは女になりたくないんだ。身体だけそうなっても、ボクの心はボクなんだと思う」
きっとこれで父もわかってくれるはず。今までずっと隠していた秘密の告白。幼いボクは自分の説明がいかに稚拙で言葉足らずなのか、理解していなかった。だから父の肩が少し震えていたことなんて気づきもしなかった。
「……一体……」
約2年ぶりの父とのキャッチボール。父からの返答。
「……お前は何言っているんだ?」
は?帰ってきたボールは疑問文だった。
「えっと……」
どこからもう一度説明すればいいんだろう?ボクが悩んでいると、
「……お前はお前の人生を生きなさい」
え?
「……もう、俺に構う必要もない」
お……
「俺もお前がいなくてもやっていける」
とう……
「当分はこの家にも戻らない」
さ……
「探す必要はない。たまに帰ってくる」
ん……
「……ボクは……、もう……、必要ない?」
絞るような縋るような声で父に問いかけた。
「……ん?ああ」
そっかぁ。いつかお父さんがボクを愛してくれるなんて夢だったんだ。うん、わかっていたよ。バイバイ、おとうさん。それからボクは考えるのをやめた。もう、どうでもいいや。おとうさんはボクがいらない。それだけはわかったからいい。涙は出なかった。
「……それから2年後にボクは誰かの彼女になろうと頑張ったんだけどね……。ダメだったんだ……」
絆は最初からなかったと思えばこれ以上傷つくことはない。ボクはそうやって自分の心の中に蓋をしてきた。だから淡々とまるで他人事のよう話せるんだ。
「心がどこにあるかなんてわからない、でもあるんだよ、空っぽなはずないんだよ!」
そう叫んで先生はボクの胸の真ん中を叩いた。その瞬間、まるで今までそこにあったかのようにボクの心が雄叫びを上げた、ボクはここにいる、ボクはここにいたんだ!って。ボクの瞳から頬を伝う液体。あ、涙か。
先生は怒っていた。きっかけはボクの話から。そして先生は今ボクを連れてボクの家のリビングにいる。テーブルを挟んで目の前に座っているのはボクの父親。先生は自己紹介もせず、ボクの家に入って父親を見つけては、有無を言わせずにこのテーブルに座らせた。
「……それで、どういうご用件ですか?」
「あんた、葵にいらないって言ったって本当?」
「あんたって……。こちらはどなたなんだい?」
口調は穏やかだが、私を見る父親の顔は明らかに機嫌が悪いと言っていた。
「葵のバンドメンバーだよ。葵に聞かずに直接私に聞きなよ。話しているのは私とあんたでしょ?」
「……バンドメンバーか。学業と両立出来ているのか?」
「あ~!そういうことかっ!」
また父親が先生ではなく私に質問したときに、先生は言い出した。
「自分の都合が悪くなると子供に頼るんだ。自分がいらないって言った子供に、ね!ほんっと情けない大人だね!あー!そっか!自分の都合が悪いから、自分の体裁が悪くなるから、葵のことを理解できないから、だから自分の子供に要らないなんて言えちゃうんだ!そっかそっか~!自分のキャパ超えちゃったわけね~!ほんっとに、器量の狭い男だね~!本当に葵の親なの?」
啖呵を切った先生は止まらなかった。そしてそれを聞いていた父親の表情の変化も止まらなかった。
「だから、子供はいらなかったんだっ!そうやって俺を非難するやつを連れてきてっ!」
やはり父親の怒りの矛先はボクだった。うん、いつものこと。おとうさん、ごめんな……
「あ~!そう!要らないのね!なら貰っていきます!さ!いこっ!葵っ!」
先生は立ち上がり、ボクの手を握って家を出ようとしている。え?あれ?あれ?え~?あ~れ~?なんか父親が後ろから言っていたような気がするけれど、全然聞こえなかった。ん?ボクの鼓動?先生の鼓動?ドクドクドクドク……。
ボクの父親との話が終わった後、ボクは近所の公園に先生と来ていた。あれを終わったと言っていいのかはわからないけれど、ボクにとってはそんなこともうどうでもよかった。先生がボクの手を引っ張って連れてきてくれなかったら、ボクはあのまま父親の前でぼけーっと突っ立ったままだったかもしれない。少し冷静になった今もリフレインした言葉にボクは囚われてしまっている。貰っていく?あれってどういう意味?それを聞く勇気がないボクは代わりにふと漏らした。
「ボク、葵って名前好きじゃなかったんだ……」
「私も自分の名前が好きじゃなかったなぁ……。愛ってよくある名前だし。でも、「あ」って母音って最強なんだって、なんかの論文に書いてあった」
「最強って……」
ボクは笑いながら答えた。
「うん、私もうろ覚えなんだけどさ、「あ」って母音が最強だから、例えば英語だと主語、動詞の順番じゃん?そして自分のことを言うときはI am~とか I play~とか、I、つまり自分から始まる。自分が一番大事。だから英語圏の人は個人主義なんだ~みたいな?」
「え~?それって話が飛びすぎじゃない?」
「う~ん、私も流し読みしてたからさ、そこまでの説明の経緯をちゃんと覚えてないんだけどさ、でも日本語で「あい」って言えば、私の名前の愛じゃん?そして大事な人には「愛してる」っていうじゃん?でも日本人ってシャイな文化だから、人によっては「愛してる」っていうのが恥ずかしい人もいるじゃん?だからさ……」
先生はボクの目線に合わせ、じっとボクの目を見つめながら、
「「愛してる」、の代わりに、「ありがとう」、をいっぱい言えばいいんだよ。「ありがとう」、も、「あ」、から始まるじゃない?」
「あ、あり……」
あれ?なんかこの流れでありがとうを言うのはどうなんだ?先生には感謝の気持ちでいっぱいだけど。あれ?あれ?先生に誘導されている?あれ?そう思ったボクは瞬時に、
「なら先生はいつも英語で自己紹介していればいいじゃん。英語の先生していたんだからさ。I am AI.ってさ。最強と最強じゃん!」
そう返した。そして同時にI love AI.という文が頭の中に浮かび、ボクは首を振った。
「確かに!なんかそれ最強過ぎるパワーワード!」
先生は納得したように背筋を伸ばした。
まだ先生の名前話?は続くみたいだった。
「ローマ字で書くと「葵」は「AOI」だよね。AとIの間にOがある。AOI。私の中にOを入れると葵。そういえばAIってArtificial Intelligence、人工知能の略でしょ?Oってなんの略?」
地面に指で、「AOI」と書きながら。
「そんなの知らないよ。それにそれって、「あい」じゃくて、「エーアイ」、じゃん」
ボクの返しを気にせず、顎に手を当ててブツブツ。最近見つけた先生の癖だ。ボクはボクで、さりげなく先生の名前を呼んだことに気づかれていないことにほっとしている。
「O、O、O……、ordinary、operation、output、object、option、orange、obvious、October……、one、only、online、……」
それから数分間思考中だった先生。ふと、
「Oって考えるからダメなんだよ!発想の転換!Oでなく0ならどう?」
「え?なんの話?」
「ゼロだよ、ゼロ!数字の0!0って数字ってインドが産んだ数字だって知ってた?それまで0はなかったんだよ?置き時計で10をXって書くのあるじゃん?あれって0がなかった頃の名残なんだよ?」
いきなり0の歴史を熱弁し始める先生。そして満足げに、
「愛の真ん中が0か~!くぅっ!ロックだね!」
……なんか自己完結しているみたいだった。これからボクどうなるんだろう?
ふと隣を見ると現実に帰ってきた先生はポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「先生、煙草吸うんだね」
初めて見る姿だったから、少し驚いた。
「あ、たまにね。苦手だった?」
「いや、父も吸っていたから慣れてるよ」
「あ~、あのくそ親父も吸ってんの~?やめよっかな~」
そう言って煙草を吸って顔を私に背けてから煙をゆっくり吐く。その紫煙は風に乗って私の反対側に流れていった。
「こうしてるとさ、世の中のどうでもいいことをさ、一緒に吹き飛ばせる気がしてるんだ……。あ、副流煙、ごめんね」
「そうなんだ。ならボ~クもっ」
そんなつもりはないけど、からかい半分で先生から煙草を奪おうとしたら、
「っダメだよ!」
今まで聞いたことのない先生の真剣な声。
「あ、ごめんね。自分が吸っておいてなんなんだって感じなんだけどさ、タバコなんて百害あって一利無しなんだからさ。私なんて中学から吸ったけど、吸って以来身長が1ミリも伸びなくなっちゃったよ。中学の時は一番背が高かったのに、高校で追い抜かれてショックだったんだから」
「え?普通は煙草は大人になってからって言うんじゃないの?」
「そんなん、吸うやつは吸うし、吸わない奴は吸わないし、言っても無駄じゃない?」
先生は顔をくしゃくしゃにして言う。
「でも、私は葵の成長を止めたくないな。身体的にも精神的にも。だから……」
そう言って自分の吸っていた煙草をもみ消し、
「私もやめよっかな~!うん!やめよっ!今決めた!ねっ!」
立ち上がってボクを見下ろす先生の顔は何か憑き物がおちたかのように清々しかった。
「さっ!行こう!」
先生がボクの手を掴んで……、え?掴んで?握って?繋いで?え?え?あれ~?はれ~?もう手を繋ぐってデフォルトなの?はれ~?先生はさっきの父親とのことがあってから過保護になっている気がする……。それともやっぱりボクって貰われたの?
自分のこれからの行先に若干の不安とまだ冷めやらぬ気持ちを抱えながらも、ボクは先生の隣を歩いていた。歩き出してからずっと先生が手を離してくれないから、ボクの思考は握られている自分の右手に持っていかれて碌に作動してくれない。ボクの手を握ったままさっき先生が電話していたけど、誰に話していたんだろう?いつもだったらわかるはずなのに、ぼーっとしていたボクはそれさえ気づけなかった。
「ちょっとここで待ってて!」
どのくらい歩いていたんだろう?いつの間にか世界は夕方になっていた。先生の手が離れたボクはようやく周りを見渡す。あ、ここはいつもの……
「18歳の誕生日おめでとう!葵だけに、向日葵を18本用意したよ!」
そう言って先生はボクに花束を渡してきた。花束はミニヒマワリと呼ばれる18本の小さな向日葵の花束だった。自分の誕生日。ようやく冷静に脳味噌を動かせるようになったボクはそれを無言で受け取った。そして、7本だけ抜いて、
「残りは先生にあげるよ」
「え?気に入らなかった?なになに?なんで7本だけ?ラッキーセブン?」
困惑する先生。まずい。
「うん。ボク、7が好きなんだ。だから残りは先生に受け取って欲しい」
「わー!なんか自分のプレゼントの一部が戻ってくるとか面白いかも!ありがとう!」
笑顔で受け取る先生。もしかしたら先生はこの意味に気づいているかもしれない。でも、先生のことだから本数なんて気にしていないかもしれない。気づいてほしい気持ちと気づかれたくない気持ちのアンビバレンス。自分自身でもわからない気持ち……。
まだ18年しか生きていないのに人生なんて大それた言葉を使うのはおこがましいのかもしれないけれど、先生との出会いはボクの人生を劇的に変えた。そしてここからさらにボクらの人生は変わっていくんだろう。
しばらくして桜が来た。きっとさっき電話していた相手は桜だ。
「あれ~?まだ向日葵持ってる~。葵ちゃんに渡したんじゃなかったの~?また買ったの~?」
桜が先生に訊ねる。
「っつ!……もらったんだよ、葵から」
そう言って11本の向日葵の花を眺める先生の横顔は夕日に照らされて赤みがかっていて、とても綺麗だった。
「もらったの~?」
「うーん、厳密に言えば返された、かな?」
「う、うん、そうだね。18本は多かったからさ」
ボクの方を見る先生が同意を求めてきたから思わず多かったなんて答えてしまった。あー!ほんと、ボクのバカ!いや、先生は花言葉とか興味ないはず。バレるはずがない。大丈夫、大丈夫。冷静を装いながらも桜が何か余計なことをしないかと、ボクの鼓動はBPM300を超えていた。そんなボクの心配をよそに桜は続けた。
「え~、それって本数によって花言葉が変わるってやつじゃないの~?僕今日、冴えてな~い?」
やめろ!よりにもよってまたこいつか、桜。なんで今日に限ってそんなに冴えてるんだよ?またメガネって呼ぶぞ!
「え~と、それじゃあ、僕が調べてあげるよ~。え~と……」
「あ、やめっ!」
ボクの制止もむなしく桜の声は続く。
「向日葵7本は、ひそかな愛。11本は最愛、だって~」
「え?」
桜の説明に驚いてボクを振り返る先生を想像していたが、先生が振り向くことはなかった。おかげで先生の後ろ姿を少し冷静に見ることができた。あ、先生の耳が赤くなっている。
「足して18本か~。ん~?っていうか18本?」
18本に反応する桜。そしてさらに調べる。
「お~!すご~い!愛ちゃん、狙ったの~?」
ボクが先生に11本返したという話をしていたのに、なにやら見当違いな質問を先生にする桜。え?となるボク。先生は耳だけでなく頬も真っ赤にして黙っている。
「だって~、17本だと絶望の愛でしょ~?18で良かったと思ってるんでしょ~?」
「ばっ!おまっ!ちょっと待てっ!」
先生の制止を無視して、なんか嚙み合っていない説明を続ける桜。
「あ~!それとも17本にプラス1本で、絶望の愛だけど、一目惚れ、あなたがわたしの運命の人とでも思ってたの~?」
「ばっ!そんなの葵が18歳だからに決まってんだろっ!?」
慌てている先生。あんまり見たことない。あれ?さっきから……
「ふ~ん……。だってさ~、葵、あ~立葵っていうのか~。ん~?それとも葵?」
なんで葵?ボク?向日葵でなく?スマホをいじり続けながらどんどん話を進める桜。
「まあ、いいや~。葵の花言葉は「大望」や「気高い美しさ」、だし、向日葵の花言葉は「憧れ」、「情熱」、「あなただけを見つめる」でしょ~?葵の花言葉は葵ちゃんを表すにはぴったりなんだけどさ~、あんまり恋愛要素がないよね~!」
桜はさらに続ける。
「でも向日葵の花言葉のほうはなんか恋愛要素満載だもんね~。どうせさ~、愛ちゃんのことだから本当は葵ちゃんに108本送りたかったんだけど、それだと多すぎるし、引かれちゃうだろうし、それでちょうど葵ちゃんが18歳だからってことで18本にしたんでしょ~?この前言ってたもんね~!葵から0を取ると私になるんだ~って~!ね~、ね~!今回も0を取ったんでしょ~?ね~!ぼくの推理、当たってるでしょう~?今日のぼく、冴えてる~!」
「ばっ……」
ウザがらみする桜と慌てまくる先生。ん?あれ?108本?0を抜いて18本?あれってたしかOじゃなかった?
「……それは、夏だし、向日葵の方が葵に合っているって思っ……」
「……愛ってさ」
いつもの間延びした言い方じゃない桜。いつもの「ちゃん」づけの呼び方ではなく、メガネの奥の目つきも鋭い。
「嘘つくとき、いつもその前に、「ばっ……」って言うんだよ?そこからは自然と嘘つくように言い訳のオンパレードだよね~。もうこれってさ~、ルーティンだよね~」
次第にいつもの話し方に戻る桜。
「……」
「もうさ~、観念しちゃいなよ~。」
いつも通りの笑顔の桜といつもらしくない目が泳いでいる先生。先生の白い肌がますます赤く染まっていくのは……
「も~、愛ちゃんはさ~、う~ん、も~いいや!葵ちゃん、僕から言うね~!」
「ちょっと待てっ!ばかメガネっ!」
ちょっと待って?え?え?どういうこと?どういう展開?先生も桜のこと心の中でメガネって呼んでたの?ボクと一緒だ……。一瞬で色んな情報がボクの頭の中でグルグル回り、情報過多で二人のやり取りに追いついていっていない。先生は桜を制止するため右手を伸ばしたまま微動だにしない。少しの静寂。遠くから聞こえるのは、遮断桿が降りるカウントダウン。
「っ葵!」
「っひゃいっ!」
先生は11本の向日葵から4本だけ抜き取り、
「これが私の気持ちだ!」
そう言ってぶっきらぼうに渡してきた。
「え?え?え?」
突き出された4本の向日葵。えっと……。受け取れってこと?4本、4本……、4本の意味。覚えていたはずなのに、目の前で起きている出来事に頭がついていけず、意味を思い出せない。
「愛ちゃ~ん……、さ~すがにそれはないんじゃないのかなぁ~」
いつもののんびりとした口調で苦笑する桜。目の前には真っ赤な顔の先生。これはきっと夕日のせいじゃないはず。
「ね、ねぇ、葵?」
先生の優しい声が戸惑っていた。少し思い詰めた顔をした後、先生は一気に言い切った。
「……私と一緒に地獄に堕ちてくれない?葵と一緒ならそこが地獄でも私にとっては極楽なんだよ」
「なんつ~言い回しっ!言い方~!」
「うるさいっ!あっ!極楽じゃなかった!ゴキゲンて言おうとしたの!」
「え~?そこ~?」
「え?だって、ゴキゲンのほうがロックじゃん!」
「ぷっ!あはははははは!」
もう少し2人のやり取りを見ていたかったけどもう無理・
「はい。ボクも先生と地獄に堕ちたいです」
「……愛でいいよ、葵」
「え?あ、あぅう……」
オロオロするボクの手を取り先生は、愛は、少しかかんで……、
「あ~あ~、べつ~にね、接吻するのは構いませんがね~、拙者はどうすればいいんですかの~?外野~?観客~?撮影班~?」
桜の間の悪い声に互いの唇が離れ笑いだすボクたち。
「桜~!空気読んでもうちょい空気になってろよ~!」
「いや~、そろそろ僕が止めたほうがいいのかなぁって」
「拙者はってなんだよ?」
二人の会話中、ボクはボーっとした頭で今起きたことを反芻していた。初めてのキスはもっとロマンチックな、なんて理想はもともとなかった。だからここがどこであろうとも、たとえ誰かがみていようとも?……うーん……、ま、いっか!桜だし!
「とか言っておいて、手は繋いだままなんでござるよな~」
「悪いかよっ!そんなからかわれたくらいで離すかよっ!」
真っ赤な愛が桜に向かって叫んだ。
「お熱いことで~。ご馳走様~。ならあとは若い二人で~」
そう言い残し桜は去っていった。残された二人。改めて二人になると意識してしまう。
「……あっ……」
何か言いたくて、でも何を言えばいいのかわからなくて2人同時に出てしまった「あっ……」たち。それがなんだかおかしくて、2人してくすくす笑いだす。
きっとこれはそう遠くない将来の話のこと。言ったのは私?ボク?
「いつの日か、二人で純白のドレス着て、向日葵と太陽の光に祝福されて永遠の愛を誓うの。ねぇ、それって素敵じゃない?」
完
*作中に出てくる向日葵の花言葉(本数)
1本:一目惚れ、あなたが私の運命の人です。
4本:あなたに一生の愛を捧げます。
7本:密かな愛。
11本:最愛。
17本:絶望の愛。
108本:結婚しよう。
読んでくれてありがとうございました。
少しでもいいなと思ってもらえたら嬉しいです。




