忘却ポスト ―嫌な記憶を捨てた街は、同じ過ちを繰り返す―
最初のポストは、図書館の角に立った。
赤でも青でもなかった。
灰色だった。
古いコンクリートを雨で濡らしたような色をしていて、投函口の上に、ただ一言だけが刻まれていた。
「忘却」
説明は、驚くほど短かった。
忘れたい記憶を書いて投函すると、七十二時間以内に、その記憶は薄れていく。
完全に消える場合もあれば、痛みだけが抜け落ちる場合もある。映像は残るが感情がなくなることもあれば、感情だけが残り、何に傷ついたのか分からなくなることもある。
市の広報紙には、そう書いてあった。
利用料金は切手式だった。
五分相当の記憶につき一枚。十年前の後悔や、一生忘れられない光景には、多めに貼ることを推奨する、とあった。
その下に、笑顔の家族写真が添えられていた。
「心のごみ分別に、ご協力ください」
市は軽い口調でそう言った。
ごみ。
その言葉が、私の胸の奥で小さく引っかかった。
記憶は、ごみなのだろうか。
そう思いながらも、私は一枚だけ切手を買った。
図書館のカウンター横に設置された臨時販売所で、若い店員が笑顔を作っていた。胸の名札には「忘却事業推進課 臨時窓口」とある。
「一枚でよろしいですか」
「はい」
「お得な回数券もあります。ご家族分にも使えます」
「家族には、まだ」
「そうですか。初回の方は、軽い記憶からのご利用をおすすめしています」
軽い記憶。
そんなものがあるなら、誰がわざわざポストに入れるのだろう。
私は返事をせず、灰色の切手を財布にしまった。
帰り道、横断歩道でクラクションが鳴った。
私は一歩遅れて立ち止まった。
白線の向こうを、配送トラックが濡れた音を立てて通り過ぎていく。
その瞬間、胸の奥で、古い雨が降った。
白い花。
濡れたアスファルト。
新聞の小さな写真。
そして、雨宮の声。
「行かないで」
私は、目を閉じた。
閉じても、見えるものはある。
十年前のその日も、私はこの横断歩道にいた。
雨宮千尋は、私の高校時代の友人だった。
友人と言うには、少し足りない。親友と言うには、私は彼女に対して不誠実だった。
彼女はよく笑う子だった。
けれど、笑う前に一度だけこちらの顔色を見る癖があった。相手が笑ってよさそうなら笑い、そうでなければ黙る。そういう子だった。
私たちは同じ図書委員で、放課後になると返却本の整理をした。
古い本の匂いが好きだと彼女は言った。私は、本が好きなのではなく、誰にも急かされない時間が好きなのだろうと思った。
高二の秋、雨宮への嫌がらせが始まった。
最初は机の中の紙くずだった。
次に、体育館シューズがなくなった。
その次に、彼女の名前が黒板の隅に書かれた。
誰がやったのか、私は知っていた。
知っていたのに、何も言わなかった。
担任に聞かれたとき、私は「分かりません」と答えた。
雨宮はその場にいた。
彼女は私を見なかった。
見なかったことが、私には救いだった。
救いのように見えたものは、たいてい罪の別名だ。
その数日後、雨宮は雨の中で事故に遭った。
車道に飛び出したのか、押されたのか、滑ったのか、最後まで分からなかった。
分からなかったことにされた。
学校は短い黙祷をした。
担任は「二度と同じ悲しみを繰り返さないように」と言った。
けれど、誰も何を繰り返してはいけないのかを言わなかった。
私はその日から、雨が苦手になった。
図書館の角を通るとき、ポケットの切手が指に貼りついていた。
家に帰り、机の引き出しを開けた。
古いノートがあった。
高校時代に使っていたものだ。表紙の裏に、雨宮の字で「返却期限、守ること」と書かれている。
私は便箋を出し、書いた。
あのときの言葉。
分かりません、と言った自分の声。
雨宮がこちらを見なかったこと。
白い花。
雨。
新聞の小さな写真。
そして、最後に一行だけ。
雨宮千尋を、助けなかったこと。
手が震えた。
字は途中から乱れた。
便箋は何枚にも分かれた。私は一枚分の切手では足りない気がして、翌日、追加で五枚買った。
窓口の店員は、顔を覚えていなかった。
「ご家族分ですか」
「自分の分です」
「無理のない範囲でご利用ください」
無理のない忘却。
それは、優しい言葉のふりをした命令に聞こえた。
私は図書館の角へ向かった。
灰色のポストは、そこにあった。
雨が降りそうな空だった。
投函口は、口というより傷口に似ていた。
私は便箋を折り、切手を貼り、まとめて差し入れた。
中で、紙が落ちる軽い音がした。
その音が、思っていたよりも明るかったので、私は少し泣きそうになった。
七十二時間後、私は雨宮の名前を見ても、胸が潰れなかった。
ノートの裏表紙に残る文字を見て、誰の字だろうと思った。
白い花の写真を見ても、きれいだと思えた。
気分はよかった。
けれど、よい気分が、正しいとは限らない。
忘却ポストは、すぐに増えた。
学校、駅、病院、役所、ショッピングモール、会社の休憩室。
やがてコンビニにも、小型の投函箱が置かれた。
市は「軽くなろう週間」を始めた。
ポスターには、晴れた空の下で笑う家族が並んでいた。父親は肩から重そうな鞄を下ろし、母親は破れた写真を笑って手放し、子どもは答案用紙を小さな箱に入れていた。
忘却税控除も始まった。
一定枚数以上の忘却切手を利用すると、医療費控除に準じて申告できる。市民生活の心理的負担を軽減し、社会全体の生産性を高めるためだと説明された。
会社では、人事部からメールが来た。
「職場内の心理的安全性向上のため、忘却ポストの積極的活用を推奨します」
会議で怒鳴った上司は、翌週には朗らかに言った。
「お互い、嫌なことは残さない方がいいからね」
怒鳴られた若手社員は笑っていた。
本当に笑っているのか、笑い方だけを残して何かを捨てたのか、私には分からなかった。
ニュースは柔らかくなった。
事件の詳細は「関係者への心理的負荷を考慮して」省かれた。
学校のいじめ報道は「生徒間トラブル」と呼ばれた。
災害の検証番組は、いつの間にか「復興の歩み」特集になった。
街は明るくなった。
怒鳴り声が減った。
泣き声も減った。
泣き声が減ったことを、市長は成果と呼んだ。
「忘却ポストの導入により、本市の幸福指標は過去最高を記録しました」
記者会見で、市長は笑顔だった。
「今後は個人の記憶だけでなく、組織や地域が抱える負荷の軽減にも取り組みます」
記者の一人が手を挙げた。
「それは、記録の削除という意味ですか」
市長は笑顔のまま、手元の紙をめくった。
「削除ではありません。負荷の適正化です」
その言葉は、便利だった。
便利な言葉は、人を早く黙らせる。
その頃から、妙な再発が増えた。
改修済みの歩道橋で、同じ段差につまずく人が続いた。
対策済みとされた交差点で、同じ方向からの追突事故が起きた。
台風のあと、かつて浸水区域として青く塗られていた土地に、新しい住宅が建っていた。
地図は白かった。
真っ白だった。
青い部分は、どこかに投函されたのだろう。
住民説明会で、開発会社の担当者は言った。
「過去の印象に基づく不安は、風評被害につながります」
配られた資料の下に、薄い灰色の切手が挟まっていた。
教育委員会は「いじめ防止の成功」を発表した。
通報件数は過去最低だった。
掲示板の匿名投稿は、「当事者間で解決済み」という文言で閉じられた。
担任は保護者会で言った。
「子どもたちの未来のために、必要以上に蒸し返さないことも大切です」
翌週、保健室のベッドが足りなくなった。
理由の欄は空白だった。
空白は、便利だ。
埋めないことで、何かを書いたことになる。
私は次第に、灰色のポストを見るのが嫌になった。
けれど、嫌だと思うたびに、嫌悪も投函できるのだと気づいた。
その事実が、いちばん怖かった。
ある朝、図書館の角で、ポストを掃除している作業員に声をかけた。
「いっぱいになることは、あるんですか」
作業員は手を止めずに答えた。
「毎日です」
「回収されたものは、どこへ」
「溶解です。安全です」
「本当に、消えるんですか」
「安全です」
彼は同じ答えを三度くれた。
目が、私の顔を覚えようとしていなかった。
私も、彼の顔を覚えないことにした。
そうするのが、街の礼儀になっていた。
その年の夏、ダムのゲートが遅れた。
マニュアルは改訂済みだった。
訓練も実施済みだった。
監視室の時計は正確だった。
けれど、人の頭の中の時計は、三日前に投函されていた。
上流から電話があり、下流にサイレンが鳴った。
ニュースのテロップは短かった。
「予期せぬ水位上昇」
予期せぬ。
誰かが予期していたはずのことを忘れたとき、出来事はその言葉で呼ばれる。
追悼式は簡素だった。
市長は短く頭を下げた。
献花台には、白い花の隣に、灰色の小箱が積まれていた。
忘却切手、無料配布。
涙は、乾く速度まで管理された。
事故調査委員会の中間報告は曖昧だった。
担当者は「個人の責任追及は控える」と言い、「未来志向で」と結んだ。
過去は、未来の嫌がる鏡である。
街は、その鏡に布をかけた。
それでも、街はまわった。
パン屋は朝のパンを焼き、学校はチャイムを鳴らし、工場はベルトコンベアを動かした。
私の職場のトイレには、忘却切手の自動販売機が取りつけられた。
上司は言った。
「これで職場の心理的安全性が高まる」
部下は言った。
「トラブルが起きても、すぐ処理できますね」
私は、誰にも言わず、一枚だけ買った。
会議で、若い社員が不正な数字を指摘しようとした。
私はそれを止めなかった。
止めなかったのではない。
助けなかった。
その場の空気が重くなるのが嫌で、私は視線を落とした。
若い社員は、次の週から会社に来なくなった。
私は便箋に書いた。
今日の会議での、卑怯な沈黙。
投函した。
三日後、胸の重さは消えた。
代わりに、舌の味が薄くなった気がした。
言うべきことを飲み込んだ記憶は、舌に残るのだと、そのとき知った。
秋、歴史資料館の展示が閉じられた。
「展示内容の見直しのため」
新聞は、さらりと書いた。
館長は夜、ひっそりと図書館の角に立っていた。
両手で、重い封筒を抱えていた。
中身は資料だろうか。
手紙だろうか。
誰かの名前だろうか。
私は声をかけなかった。
館長も、私を見なかった。
彼は気づいていなかった。
自分の手が、そこまで軽く訓練されてしまったことに。
やがて、市役所の前に巨大な灰色の筒が立った。
忘却ポストの拡張版だった。
トラックが横づけされ、段ボール箱が流れ込む。
看板には、こう書かれていた。
「街の歴史資料の一時保管」
一時。
その言葉は、永久の前に置かれる飾りだった。
ラジオは音楽を流し、DJは軽口を叩いた。
「重い話題はプロに任せて、今日も軽くいきましょう」
市議会は夜を徹して議論した。
翌朝、決まった。
街の負荷軽減のため、歴史資料の一部を忘却処理へ。
反対は、数人だった。
彼らの演説は、市役所前のスピーカーから録音で流れた。
音は少し歪んでいた。
歪みは、病気ではない。
仕様だった。
搬入は、祭りのように始まった。
古い議事録。
過去の不祥事を報じた新聞。
浸水マップ。
労災の記録。
補助金不正の資料。
公害の裁判記録。
戦時中の名簿。
撤去された記念碑の設計図。
学校の事故報告書。
いじめ調査の聞き取りメモ。
誰かが死んだ場所に、二度と誰かを立たせないための地図。
箱の角は、すぐに丸くなった。
トラックのタイヤは黒く濡れていた。
子どもたちが手を振った。
大人たちはうなずいた。
うなずく角度は、社会的合意という名の目盛りで決まる。
私は灰色の筒の前で、立ち尽くした。
雨宮はいない。
ここには、誰の雨宮もいない。
係員が声をかけてきた。
「ご家庭の小さな歴史も、受け付けています」
私はポケットの中で、何かを握っていた。
古い写真だった。
雨宮と私が、図書館の前で並んでいる。
彼女は笑う前に、私の顔色を見ている。
私は、その顔を見て笑っていた。
写真の裏には、雨宮の字が残っていた。
「返却期限、守ること」
指が濡れた。
雨ではなかった。
私はその写真を、反射的に手放した。
灰色の口が飲み込んだ。
軽い音がした。
あまりにも軽い音だった。
私は自分の手を見た。
汚れていなかった。
それが、許されたという意味でないことだけは、まだ分かった。
三日後、街は軽かった。
記念日が、カレンダーから抜け落ちた。
式典は名前を失い、市民の日にまとめられた。
学校の教科書は薄くなった。
遠足の荷物も軽くなった。
荷物が軽いと、遠くまで歩けるような気がする。
けれど、遠くまで歩いても、道に目印はなかった。
冬、同じ交差点で同じ事故が起きた。
ニュースのテロップは既視感を避けた。
「痛ましい事故」
「再発防止へ」
教訓とは、記憶に骨を与えることだ。
街は、その骨ごと投函した。
市長は、再び会見した。
もう笑っていなかった。
「過ちを学ばない街という批判を、重く受け止めます。しかし、過去に縛られて未来を失うのもまた過ちです」
彼の背後に、灰色の筒が映り込んでいた。
筒の表面には、子どもが書いた落書きがあった。
「ここに重さを捨てよう」
子どもは、正しい。
正しさは、ときどき刃になる。
その夜、臨時議会が開かれた。
提案は一つだった。
歴史の一括投函。
拍手はなかった。
沈黙だけがあった。
沈黙は、賛成よりも強いことがある。
翌朝、トラックが列を作った。
記録庫が空になった。
資料館が空になった。
学校の倉庫が空になった。
古い写真箱が空になった。
職員室の棚から、事故報告書が消えた。
保健室の奥から、名前のついたファイルが消えた。
図書館の郷土資料コーナーから、誰も借りなくなった本が消えた。
灰色の筒の口が、わずかに広がった気がした。
係員がシャッターを押した。
重い音がした。
私の胸にも、同じような音がした。
その理由は、三日後には消えるはずだった。
街は軽くなり、静かになった。
風の音がよく届くようになった。
歩道の白線が新しく塗られた。
看板が更新された。
市役所前には、新しい横断幕が掲げられた。
「再発防止へ」
風で布が揺れた。
誰も笑わなかった。
笑い方を、どこかに預けてしまったのだ。
図書館の角に立っていた最初の灰色の箱は、撤去された。
「役目を終えました」
工事の人が言った。
私は、その人の顔を覚えていない。
工事の人も、私の顔を覚えていない。
公平だった。
公平という言葉は、寂しさを薄めるのに便利だ。
夜、公園に行った。
ベンチに座った。
手ぶらだった。
何も持っていないのは、良いことだ。
それとも、悪いことか。
判断の材料は、もう郵便で送られてこない。
足元に、古い忘却切手が一枚落ちていた。
五分分。
使いかけ。
私は拾って、ポケットに入れた。
期限は書かれていなかった。
忘却切手には、有効期限なしと書かれていない。
書かれていないことは、たいてい有効だ。
遠くで、サイレンが鳴った。
風向きは、去年と同じだった。
去年、という言葉が舌に乗り、するりと落ちた。
私は空を見た。
星は、何も覚えていない顔をしていた。
星を責める権利は、まだどこにも投函されていない。
そのとき、ポケットの中で何かが指に触れた。
切手ではなかった。
小さな紙片だった。
投函したはずの写真の、端だけが残っていた。
なぜ残っていたのかは分からない。
灰色の口が噛み残したのか。
私が無意識に破り取っていたのか。
あるいは、忘却にも取りこぼしがあるのか。
紙片には、雨宮の手だけが写っていた。
細い指。
図書館の本を押さえている指。
その下に、私の字ではない文字が少しだけ残っていた。
「守ること」
何を守ることだったのか、もう分からない。
返却期限だったのか。
約束だったのか。
友だちだったのか。
私は紙片を握った。
胸の奥に、痛みが戻った。
小さな痛みだった。
五分にも満たない。
切手一枚で消える程度の痛みだった。
けれど、私はその痛みをポストに入れなかった。
図書館の角にポストはもうない。
市役所前の巨大な筒なら、まだ開いているだろう。
夜でも、きっと受け付けてくれる。
灰色の口は、いつも軽い音で迎えてくれる。
私は立ち上がった。
横断歩道の白線が、街灯の下で新しく光っていた。
信号が変わる。
前回と同じタイミングで。
誰かが急ぐ。
車が曲がる。
風が、忘れたはずの雨の匂いを運んでくる。
私は一歩、前に出た。
そして、足を止めた。
止まれ、と誰かが言った気がした。
雨宮の声だったかもしれない。
私自身の声だったかもしれない。
もう、区別はつかなかった。
それでも足は止まった。
私たちは、明日の朝も白い線を渡る。
前回と同じタイミングで、信号が変わる。
私たちは、学ばない。
学ばないという事実も、いつか投函されるだろう。
けれど、もしも五分だけ残るなら。
たった五分の痛みでも、誰かの足を止められるなら。
私はそれを、手の中に残しておきたい。
灰色の口は、きっと今夜も開いている。
いつも、軽い音で。
私はポケットの中の切手を握りしめた。
使わないために。
忘れないために。




