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忘却ポスト ―嫌な記憶を捨てた街は、同じ過ちを繰り返す―

掲載日:2025/10/03

 最初のポストは、図書館の角に立った。

 赤でも青でもなかった。

 灰色だった。

 古いコンクリートを雨で濡らしたような色をしていて、投函口の上に、ただ一言だけが刻まれていた。

「忘却」

 説明は、驚くほど短かった。

 忘れたい記憶を書いて投函すると、七十二時間以内に、その記憶は薄れていく。

 完全に消える場合もあれば、痛みだけが抜け落ちる場合もある。映像は残るが感情がなくなることもあれば、感情だけが残り、何に傷ついたのか分からなくなることもある。

 市の広報紙には、そう書いてあった。

 利用料金は切手式だった。

 五分相当の記憶につき一枚。十年前の後悔や、一生忘れられない光景には、多めに貼ることを推奨する、とあった。

 その下に、笑顔の家族写真が添えられていた。

「心のごみ分別に、ご協力ください」

 市は軽い口調でそう言った。

 ごみ。

 その言葉が、私の胸の奥で小さく引っかかった。

 記憶は、ごみなのだろうか。

 そう思いながらも、私は一枚だけ切手を買った。

 図書館のカウンター横に設置された臨時販売所で、若い店員が笑顔を作っていた。胸の名札には「忘却事業推進課 臨時窓口」とある。

「一枚でよろしいですか」

「はい」

「お得な回数券もあります。ご家族分にも使えます」

「家族には、まだ」

「そうですか。初回の方は、軽い記憶からのご利用をおすすめしています」

 軽い記憶。

 そんなものがあるなら、誰がわざわざポストに入れるのだろう。

 私は返事をせず、灰色の切手を財布にしまった。

 帰り道、横断歩道でクラクションが鳴った。

 私は一歩遅れて立ち止まった。

 白線の向こうを、配送トラックが濡れた音を立てて通り過ぎていく。

 その瞬間、胸の奥で、古い雨が降った。

 白い花。

 濡れたアスファルト。

 新聞の小さな写真。

 そして、雨宮の声。

「行かないで」

 私は、目を閉じた。

 閉じても、見えるものはある。

 十年前のその日も、私はこの横断歩道にいた。

 雨宮千尋は、私の高校時代の友人だった。

 友人と言うには、少し足りない。親友と言うには、私は彼女に対して不誠実だった。

 彼女はよく笑う子だった。

 けれど、笑う前に一度だけこちらの顔色を見る癖があった。相手が笑ってよさそうなら笑い、そうでなければ黙る。そういう子だった。

 私たちは同じ図書委員で、放課後になると返却本の整理をした。

 古い本の匂いが好きだと彼女は言った。私は、本が好きなのではなく、誰にも急かされない時間が好きなのだろうと思った。

 高二の秋、雨宮への嫌がらせが始まった。

 最初は机の中の紙くずだった。

 次に、体育館シューズがなくなった。

 その次に、彼女の名前が黒板の隅に書かれた。

 誰がやったのか、私は知っていた。

 知っていたのに、何も言わなかった。

 担任に聞かれたとき、私は「分かりません」と答えた。

 雨宮はその場にいた。

 彼女は私を見なかった。

 見なかったことが、私には救いだった。

 救いのように見えたものは、たいてい罪の別名だ。

 その数日後、雨宮は雨の中で事故に遭った。

 車道に飛び出したのか、押されたのか、滑ったのか、最後まで分からなかった。

 分からなかったことにされた。

 学校は短い黙祷をした。

 担任は「二度と同じ悲しみを繰り返さないように」と言った。

 けれど、誰も何を繰り返してはいけないのかを言わなかった。

 私はその日から、雨が苦手になった。

 図書館の角を通るとき、ポケットの切手が指に貼りついていた。

 家に帰り、机の引き出しを開けた。

 古いノートがあった。

 高校時代に使っていたものだ。表紙の裏に、雨宮の字で「返却期限、守ること」と書かれている。

 私は便箋を出し、書いた。

 あのときの言葉。

 分かりません、と言った自分の声。

 雨宮がこちらを見なかったこと。

 白い花。

 雨。

 新聞の小さな写真。

 そして、最後に一行だけ。

 雨宮千尋を、助けなかったこと。

 手が震えた。

 字は途中から乱れた。

 便箋は何枚にも分かれた。私は一枚分の切手では足りない気がして、翌日、追加で五枚買った。

 窓口の店員は、顔を覚えていなかった。

「ご家族分ですか」

「自分の分です」

「無理のない範囲でご利用ください」

 無理のない忘却。

 それは、優しい言葉のふりをした命令に聞こえた。

 私は図書館の角へ向かった。

 灰色のポストは、そこにあった。

 雨が降りそうな空だった。

 投函口は、口というより傷口に似ていた。

 私は便箋を折り、切手を貼り、まとめて差し入れた。

 中で、紙が落ちる軽い音がした。

 その音が、思っていたよりも明るかったので、私は少し泣きそうになった。

 七十二時間後、私は雨宮の名前を見ても、胸が潰れなかった。

 ノートの裏表紙に残る文字を見て、誰の字だろうと思った。

 白い花の写真を見ても、きれいだと思えた。

 気分はよかった。

 けれど、よい気分が、正しいとは限らない。

 忘却ポストは、すぐに増えた。

 学校、駅、病院、役所、ショッピングモール、会社の休憩室。

 やがてコンビニにも、小型の投函箱が置かれた。

 市は「軽くなろう週間」を始めた。

 ポスターには、晴れた空の下で笑う家族が並んでいた。父親は肩から重そうな鞄を下ろし、母親は破れた写真を笑って手放し、子どもは答案用紙を小さな箱に入れていた。

 忘却税控除も始まった。

 一定枚数以上の忘却切手を利用すると、医療費控除に準じて申告できる。市民生活の心理的負担を軽減し、社会全体の生産性を高めるためだと説明された。

 会社では、人事部からメールが来た。

「職場内の心理的安全性向上のため、忘却ポストの積極的活用を推奨します」

 会議で怒鳴った上司は、翌週には朗らかに言った。

「お互い、嫌なことは残さない方がいいからね」

 怒鳴られた若手社員は笑っていた。

 本当に笑っているのか、笑い方だけを残して何かを捨てたのか、私には分からなかった。

 ニュースは柔らかくなった。

 事件の詳細は「関係者への心理的負荷を考慮して」省かれた。

 学校のいじめ報道は「生徒間トラブル」と呼ばれた。

 災害の検証番組は、いつの間にか「復興の歩み」特集になった。

 街は明るくなった。

 怒鳴り声が減った。

 泣き声も減った。

 泣き声が減ったことを、市長は成果と呼んだ。

「忘却ポストの導入により、本市の幸福指標は過去最高を記録しました」

 記者会見で、市長は笑顔だった。

「今後は個人の記憶だけでなく、組織や地域が抱える負荷の軽減にも取り組みます」

 記者の一人が手を挙げた。

「それは、記録の削除という意味ですか」

 市長は笑顔のまま、手元の紙をめくった。

「削除ではありません。負荷の適正化です」

 その言葉は、便利だった。

 便利な言葉は、人を早く黙らせる。

 その頃から、妙な再発が増えた。

 改修済みの歩道橋で、同じ段差につまずく人が続いた。

 対策済みとされた交差点で、同じ方向からの追突事故が起きた。

 台風のあと、かつて浸水区域として青く塗られていた土地に、新しい住宅が建っていた。

 地図は白かった。

 真っ白だった。

 青い部分は、どこかに投函されたのだろう。

 住民説明会で、開発会社の担当者は言った。

「過去の印象に基づく不安は、風評被害につながります」

 配られた資料の下に、薄い灰色の切手が挟まっていた。

 教育委員会は「いじめ防止の成功」を発表した。

 通報件数は過去最低だった。

 掲示板の匿名投稿は、「当事者間で解決済み」という文言で閉じられた。

 担任は保護者会で言った。

「子どもたちの未来のために、必要以上に蒸し返さないことも大切です」

 翌週、保健室のベッドが足りなくなった。

 理由の欄は空白だった。

 空白は、便利だ。

 埋めないことで、何かを書いたことになる。

 私は次第に、灰色のポストを見るのが嫌になった。

 けれど、嫌だと思うたびに、嫌悪も投函できるのだと気づいた。

 その事実が、いちばん怖かった。

 ある朝、図書館の角で、ポストを掃除している作業員に声をかけた。

「いっぱいになることは、あるんですか」

 作業員は手を止めずに答えた。

「毎日です」

「回収されたものは、どこへ」

「溶解です。安全です」

「本当に、消えるんですか」

「安全です」

 彼は同じ答えを三度くれた。

 目が、私の顔を覚えようとしていなかった。

 私も、彼の顔を覚えないことにした。

 そうするのが、街の礼儀になっていた。

 その年の夏、ダムのゲートが遅れた。

 マニュアルは改訂済みだった。

 訓練も実施済みだった。

 監視室の時計は正確だった。

 けれど、人の頭の中の時計は、三日前に投函されていた。

 上流から電話があり、下流にサイレンが鳴った。

 ニュースのテロップは短かった。

「予期せぬ水位上昇」

 予期せぬ。

 誰かが予期していたはずのことを忘れたとき、出来事はその言葉で呼ばれる。

 追悼式は簡素だった。

 市長は短く頭を下げた。

 献花台には、白い花の隣に、灰色の小箱が積まれていた。

 忘却切手、無料配布。

 涙は、乾く速度まで管理された。

 事故調査委員会の中間報告は曖昧だった。

 担当者は「個人の責任追及は控える」と言い、「未来志向で」と結んだ。

 過去は、未来の嫌がる鏡である。

 街は、その鏡に布をかけた。

 それでも、街はまわった。

 パン屋は朝のパンを焼き、学校はチャイムを鳴らし、工場はベルトコンベアを動かした。

 私の職場のトイレには、忘却切手の自動販売機が取りつけられた。

 上司は言った。

「これで職場の心理的安全性が高まる」

 部下は言った。

「トラブルが起きても、すぐ処理できますね」

 私は、誰にも言わず、一枚だけ買った。

 会議で、若い社員が不正な数字を指摘しようとした。

 私はそれを止めなかった。

 止めなかったのではない。

 助けなかった。

 その場の空気が重くなるのが嫌で、私は視線を落とした。

 若い社員は、次の週から会社に来なくなった。

 私は便箋に書いた。

 今日の会議での、卑怯な沈黙。

 投函した。

 三日後、胸の重さは消えた。

 代わりに、舌の味が薄くなった気がした。

 言うべきことを飲み込んだ記憶は、舌に残るのだと、そのとき知った。

 秋、歴史資料館の展示が閉じられた。

「展示内容の見直しのため」

 新聞は、さらりと書いた。

 館長は夜、ひっそりと図書館の角に立っていた。

 両手で、重い封筒を抱えていた。

 中身は資料だろうか。

 手紙だろうか。

 誰かの名前だろうか。

 私は声をかけなかった。

 館長も、私を見なかった。

 彼は気づいていなかった。

 自分の手が、そこまで軽く訓練されてしまったことに。

 やがて、市役所の前に巨大な灰色の筒が立った。

 忘却ポストの拡張版だった。

 トラックが横づけされ、段ボール箱が流れ込む。

 看板には、こう書かれていた。

「街の歴史資料の一時保管」

 一時。

 その言葉は、永久の前に置かれる飾りだった。

 ラジオは音楽を流し、DJは軽口を叩いた。

「重い話題はプロに任せて、今日も軽くいきましょう」

 市議会は夜を徹して議論した。

 翌朝、決まった。

 街の負荷軽減のため、歴史資料の一部を忘却処理へ。

 反対は、数人だった。

 彼らの演説は、市役所前のスピーカーから録音で流れた。

 音は少し歪んでいた。

 歪みは、病気ではない。

 仕様だった。

 搬入は、祭りのように始まった。

 古い議事録。

 過去の不祥事を報じた新聞。

 浸水マップ。

 労災の記録。

 補助金不正の資料。

 公害の裁判記録。

 戦時中の名簿。

 撤去された記念碑の設計図。

 学校の事故報告書。

 いじめ調査の聞き取りメモ。

 誰かが死んだ場所に、二度と誰かを立たせないための地図。

 箱の角は、すぐに丸くなった。

 トラックのタイヤは黒く濡れていた。

 子どもたちが手を振った。

 大人たちはうなずいた。

 うなずく角度は、社会的合意という名の目盛りで決まる。

 私は灰色の筒の前で、立ち尽くした。

 雨宮はいない。

 ここには、誰の雨宮もいない。

 係員が声をかけてきた。

「ご家庭の小さな歴史も、受け付けています」

 私はポケットの中で、何かを握っていた。

 古い写真だった。

 雨宮と私が、図書館の前で並んでいる。

 彼女は笑う前に、私の顔色を見ている。

 私は、その顔を見て笑っていた。

 写真の裏には、雨宮の字が残っていた。

「返却期限、守ること」

 指が濡れた。

 雨ではなかった。

 私はその写真を、反射的に手放した。

 灰色の口が飲み込んだ。

 軽い音がした。

 あまりにも軽い音だった。

 私は自分の手を見た。

 汚れていなかった。

 それが、許されたという意味でないことだけは、まだ分かった。

 三日後、街は軽かった。

 記念日が、カレンダーから抜け落ちた。

 式典は名前を失い、市民の日にまとめられた。

 学校の教科書は薄くなった。

 遠足の荷物も軽くなった。

 荷物が軽いと、遠くまで歩けるような気がする。

 けれど、遠くまで歩いても、道に目印はなかった。

 冬、同じ交差点で同じ事故が起きた。

 ニュースのテロップは既視感を避けた。

「痛ましい事故」

「再発防止へ」

 教訓とは、記憶に骨を与えることだ。

 街は、その骨ごと投函した。

 市長は、再び会見した。

 もう笑っていなかった。

「過ちを学ばない街という批判を、重く受け止めます。しかし、過去に縛られて未来を失うのもまた過ちです」

 彼の背後に、灰色の筒が映り込んでいた。

 筒の表面には、子どもが書いた落書きがあった。

「ここに重さを捨てよう」

 子どもは、正しい。

 正しさは、ときどき刃になる。

 その夜、臨時議会が開かれた。

 提案は一つだった。

 歴史の一括投函。

 拍手はなかった。

 沈黙だけがあった。

 沈黙は、賛成よりも強いことがある。

 翌朝、トラックが列を作った。

 記録庫が空になった。

 資料館が空になった。

 学校の倉庫が空になった。

 古い写真箱が空になった。

 職員室の棚から、事故報告書が消えた。

 保健室の奥から、名前のついたファイルが消えた。

 図書館の郷土資料コーナーから、誰も借りなくなった本が消えた。

 灰色の筒の口が、わずかに広がった気がした。

 係員がシャッターを押した。

 重い音がした。

 私の胸にも、同じような音がした。

 その理由は、三日後には消えるはずだった。

 街は軽くなり、静かになった。

 風の音がよく届くようになった。

 歩道の白線が新しく塗られた。

 看板が更新された。

 市役所前には、新しい横断幕が掲げられた。

「再発防止へ」

 風で布が揺れた。

 誰も笑わなかった。

 笑い方を、どこかに預けてしまったのだ。

 図書館の角に立っていた最初の灰色の箱は、撤去された。

「役目を終えました」

 工事の人が言った。

 私は、その人の顔を覚えていない。

 工事の人も、私の顔を覚えていない。

 公平だった。

 公平という言葉は、寂しさを薄めるのに便利だ。

 夜、公園に行った。

 ベンチに座った。

 手ぶらだった。

 何も持っていないのは、良いことだ。

 それとも、悪いことか。

 判断の材料は、もう郵便で送られてこない。

 足元に、古い忘却切手が一枚落ちていた。

 五分分。

 使いかけ。

 私は拾って、ポケットに入れた。

 期限は書かれていなかった。

 忘却切手には、有効期限なしと書かれていない。

 書かれていないことは、たいてい有効だ。

 遠くで、サイレンが鳴った。

 風向きは、去年と同じだった。

 去年、という言葉が舌に乗り、するりと落ちた。

 私は空を見た。

 星は、何も覚えていない顔をしていた。

 星を責める権利は、まだどこにも投函されていない。

 そのとき、ポケットの中で何かが指に触れた。

 切手ではなかった。

 小さな紙片だった。

 投函したはずの写真の、端だけが残っていた。

 なぜ残っていたのかは分からない。

 灰色の口が噛み残したのか。

 私が無意識に破り取っていたのか。

 あるいは、忘却にも取りこぼしがあるのか。

 紙片には、雨宮の手だけが写っていた。

 細い指。

 図書館の本を押さえている指。

 その下に、私の字ではない文字が少しだけ残っていた。

「守ること」

 何を守ることだったのか、もう分からない。

 返却期限だったのか。

 約束だったのか。

 友だちだったのか。

 私は紙片を握った。

 胸の奥に、痛みが戻った。

 小さな痛みだった。

 五分にも満たない。

 切手一枚で消える程度の痛みだった。

 けれど、私はその痛みをポストに入れなかった。

 図書館の角にポストはもうない。

 市役所前の巨大な筒なら、まだ開いているだろう。

 夜でも、きっと受け付けてくれる。

 灰色の口は、いつも軽い音で迎えてくれる。

 私は立ち上がった。

 横断歩道の白線が、街灯の下で新しく光っていた。

 信号が変わる。

 前回と同じタイミングで。

 誰かが急ぐ。

 車が曲がる。

 風が、忘れたはずの雨の匂いを運んでくる。

 私は一歩、前に出た。

 そして、足を止めた。

 止まれ、と誰かが言った気がした。

 雨宮の声だったかもしれない。

 私自身の声だったかもしれない。

 もう、区別はつかなかった。

 それでも足は止まった。

 私たちは、明日の朝も白い線を渡る。

 前回と同じタイミングで、信号が変わる。

 私たちは、学ばない。

 学ばないという事実も、いつか投函されるだろう。

 けれど、もしも五分だけ残るなら。

 たった五分の痛みでも、誰かの足を止められるなら。

 私はそれを、手の中に残しておきたい。

 灰色の口は、きっと今夜も開いている。

 いつも、軽い音で。

 私はポケットの中の切手を握りしめた。

 使わないために。

 忘れないために。



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