表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

忘却ポスト

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/03

最初のポストは、図書館の角に立った。

赤でも青でもなく、灰色。投函口の上に「忘却」とだけある。

説明は簡単だ。嫌な記憶を書いて投函すると、七十二時間以内に消える。

料金は切手式。五分記憶につき一枚。重い出来事は、たくさん貼る。

市は軽い口調で言った。

「心のごみ分別に、ご協力ください」


私は一枚だけ買った。

店員は言った。

「お得な回数券もあります。ご家族分にどうぞ」


帰り道、横断歩道でクラクションが鳴った。私は一歩遅れた。

去年、ここで事故があったことを思い出した。

白い花。雨。新聞の小さな写真。

私は思い出すのをやめた。ポケットの切手が指に貼りついた。


家で、メモを書いた。

——あのときの言葉。

——大声。

——冷たい手。

便箋は何枚かに分かれた。切手を貼り、灰色の口にまとめて飲ませた。

投函口は軽く鳴り、私の脳のどこかが、少し軽くなった。

三日後、話題に上ったとき、私は首を傾げた。何の話だったか、曖昧だった。

気分は、いい。

気分は、正しいとは限らない。


忘却ポストは増えた。

学校、駅、病院、役所、ショッピングモール。

「軽くなろう週間」のポスターに、笑顔の家族が並ぶ。

忘却税控除が始まり、領収書が確定申告の欄で光る。

保険会社は契約に「事故後の忘却推奨」を入れた。

「トラウマ防止の一次対応です。科学的」と担当者は言った。

科学は、便利な装飾語だ。


街の雰囲気は、確かに明るくなった。

ニュースは柔らかい。SNSの言い争いは減った。

会議で怒鳴る声は消え、議事録の読みやすさが評価された。

ヒヤリ・ハットの報告は激減した。

担当部長は胸を張った。

「安全文化が根づいた証拠だ」

私は心のどこかで、別の想像をした。

——忘れただけではないか。


バス会社の運転士が言った。

「交差点の危ない癖、昔はよく共有したんです。

今は投函しちゃうから、地図が白くなる」

彼はルート図を見せた。

赤い印は少なく、紙は新しい白さを保っている。

清潔は、善だ。

善は、ときどき盲目だ。


市長は記者会見で笑顔だった。

「忘却ポストは幸福指標を押し上げました。

次の段階として、街の恥の記録の投函も——」

記者が笑った。

「歴史まで?」

市長は笑顔のまま、紙をめくった。

「表現は慎重に。過度な負荷は避けて」


その頃から、妙な再発が増えた。

改修済みの歩道橋で、同じ段差につまづく。

対策済みの交差点で、同じ方向からの追突。

台風の後、浸水マップに記された青い区域に、新築住宅が立っていた。

地図の青は、どこかに投函されたのだろう。

住民説明会は平穏だった。

「危険の記憶は風評です」

配られた紙の下に、薄い切手がのぞいた。


教育委員会は「いじめ防止の成功」を発表した。

通報件数は過去最低。

掲示板の匿名投稿は、「謝罪済」のスクリーンショットで終わる。

担任は保護者会で言った。

「もう蒸し返さないことが、子どものためです」

翌週、保健室のベッドが足りなくなった。

理由の欄は空白だった。

空白は、立派な枠だ。埋めずに提出できる。


私はあの灰色の口に、じっとした嫌悪感を覚えるようになった。

ある朝、掃除をしている作業員に声をかけた。

「いっぱいになることは」

「毎日です」

「回収後は」

「溶解です。安全です」

彼は同じ答えを三度くれた。

彼の目は、私の顔を覚えなかった。

私も、彼の顔を覚えないことにした。


その年の夏、ダムのゲートが遅れた。

マニュアルは改訂済み、訓練も実施済みのはずだった。

監視室の時計は合っていた。

人の頭の中の時計は、三日前に投函された。

上流から電話。下流にサイレン。

ニュースのテロップ。

海の向こうの国のニュースが、同じ日に流れた。

どちらの国も、灰色の箱を持っていた。


追悼式は、簡素だった。

市長は短く頭を下げた。

献花台に、白い箱が積まれた。

——忘却の切手。無料配布。

涙は、乾く速度を知らされた。

乾いたあと、紙は軽い。


事故調の中間報告は、曖昧だった。

担当者は「個々の責任追及は控える」と言い、

「未来志向で」と結んだ。

過去は、未来の嫌がる鏡である。

鏡は、布で覆われた。


それでも、街はまわる。

パン屋は焼き、学校はチャイムを鳴らし、工場は回転する。

私の職場のトイレには「忘却切手自動販売機」が取りつけられた。

上司は言った。

「職場の心理的安全性のためだ」

部下は言った。

「トラブルが起きたら、すぐ投函できます」

私は、誰にも言わないで、一枚だけ買った。

——今日の会議での、卑怯な沈黙。

投函した。

三日後、胸の重さは消えた。

代わりに、舌の味が薄くなった気がした。

私の舌は、何かを忘れた。


秋、歴史資料館の展示が閉じられた。

「展示の見直しのため」

新聞は、さらりと書いた。

館長は夜、ひっそりとポストの前に立っていた。

重い封筒を、両手で持っていた。

彼は気づいていなかった。

自分の手が、そこまで軽く訓練されてしまったことに。


やがて、市役所の前に、巨大な灰色の筒が立った。

忘却ポストの拡張版。トラックが横づけされ、紙の箱が流れ込む。

看板には、こうあった。

「街の歴史資料の一時保管」

ラジオは音楽を流し、DJは軽口を叩いた。

「重い話題はプロに任せて、今日も軽くいきましょう」


市議会は夜を徹して議論した。

翌朝、決まった。

“街の負荷軽減のため、歴史の一部を忘却処理へ”

反対は、数人だった。

彼らの演説は、灰色の筒の前に置かれたスピーカーから、遅れて流れた。

音は少し歪んでいた。

歪みは、病気ではない。録音の仕様だ。


搬入は、祭りのように始まった。

古い議事録、過去の不祥事の新聞、浸水マップ、労災の記録、補助金不正の資料、

戦時中の徴用台帳、

公害の裁判資料、

撤去された記念碑の設計図。

箱の角はすぐ丸くなり、トラックのタイヤは黒かった。

子どもたちが手を振った。

大人たちは、うなずいた。

うなずく角度は、社会的合意という名のスライダーで決まる。


私は筒の前で、立ち尽くした。

雨宮はいない。ここには、誰の雨宮もいない。

係員は言った。

「ご家庭の小さな歴史も、受け付けています」

私はポケットの中で、何かを握った。

古い写真だった。

白い花。雨。小さな写真。

指が濡れた。

私は、反射的にそれを離した。

灰色の口が飲み込み、軽い音がした。

私は、自分の手を見た。

汚れていなかった。


三日後、街は軽かった。

記念日が、カレンダーから抜け落ちた。

式典は、名称を失って「市民の日」にまとまった。

学校の教科書は薄くなった。

遠足の荷物も軽くなった。

荷物が軽いと、遠くまで歩けるような気がする。

遠くまで歩いても、道に目印はない。


冬、同じ交差点で同じ事故が起きた。

ニュースのテロップは、既視感を避けた。

「痛ましい」「教訓に」

教訓とは、記憶を武装化したものだ。

武装は、武器庫ごと投函された。


市長は、再び会見した。

もう笑っていなかった。

「過ちを学ばない街という批判を、重く受け止めます。

しかし、過去に縛られて未来を失うのもまた過ちです」

彼の背後に、灰色の筒が映り込んでいた。

筒の表面には、子どもが書いた落書きがあった。

「ここに重さを捨てよう」

子どもは、正しい。

正しさは、ときどき刃だ。


その夜、臨時議会。

提案は一つ。

「歴史の一括投函」

拍手はなかった。

沈黙だけ。

沈黙は、賛成より強いことがある。


翌朝、トラックが列を作った。

記録庫が空になり、資料館が空になり、学校の倉庫が空になった。

灰色の筒の口が、わずかに広がった気がした。

係員がシャッターを押した。

ドンという音がした。

私の胸にも、同じような音がした。

理由は、三日後には消えるはずだった。


街は軽くなり、静かになった。

風の音がよく届くようになった。

歩道の白線が新しく塗られ、看板が更新され、

**“再発防止へ”**の横断幕が、風で笑った。

誰も笑わなかった。

笑い方を、どこかに預けたのだ。


図書館の角に立っていた最初の灰色の箱は、撤去された。

「役目を終えました」

工事の人が言った。

私は、その人の顔を覚えていない。

工事の人も、私の顔を覚えていない。

公平だ。


夜、公園に行った。

ベンチに座る。

手ぶらだ。

何も持っていないのは、良いことだ。

それとも、悪いことか。

判断の材料は、郵便で送られてこない。


足元に、古い切手が一枚、落ちていた。

五分分。

使いかけ。

私は拾って、ポケットに入れた。

期限は書いていない。

忘却の切手には、有効期限:なしと書かれていない。

書かれていないことは、だいたい有効だ。


遠くで、サイレン。

風向きは、去年と同じだった。

去年という言葉が舌に乗り、するりと落ちた。

私は空を見た。

星は、何も覚えていない顔をしていた。

星を責める権利は、どこにも投函されていない。

私たちは、明日の朝も、白い線を渡る。

前回と同じタイミングで、信号が変わる。

私たちは、学ばない。

学ばないという事実も、いつか投函されるだろう。

灰色の口は、きっと開いている。

いつも、軽い音で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ