忘却ポスト
最初のポストは、図書館の角に立った。
赤でも青でもなく、灰色。投函口の上に「忘却」とだけある。
説明は簡単だ。嫌な記憶を書いて投函すると、七十二時間以内に消える。
料金は切手式。五分記憶につき一枚。重い出来事は、たくさん貼る。
市は軽い口調で言った。
「心のごみ分別に、ご協力ください」
私は一枚だけ買った。
店員は言った。
「お得な回数券もあります。ご家族分にどうぞ」
帰り道、横断歩道でクラクションが鳴った。私は一歩遅れた。
去年、ここで事故があったことを思い出した。
白い花。雨。新聞の小さな写真。
私は思い出すのをやめた。ポケットの切手が指に貼りついた。
家で、メモを書いた。
——あのときの言葉。
——大声。
——冷たい手。
便箋は何枚かに分かれた。切手を貼り、灰色の口にまとめて飲ませた。
投函口は軽く鳴り、私の脳のどこかが、少し軽くなった。
三日後、話題に上ったとき、私は首を傾げた。何の話だったか、曖昧だった。
気分は、いい。
気分は、正しいとは限らない。
忘却ポストは増えた。
学校、駅、病院、役所、ショッピングモール。
「軽くなろう週間」のポスターに、笑顔の家族が並ぶ。
忘却税控除が始まり、領収書が確定申告の欄で光る。
保険会社は契約に「事故後の忘却推奨」を入れた。
「トラウマ防止の一次対応です。科学的」と担当者は言った。
科学は、便利な装飾語だ。
街の雰囲気は、確かに明るくなった。
ニュースは柔らかい。SNSの言い争いは減った。
会議で怒鳴る声は消え、議事録の読みやすさが評価された。
ヒヤリ・ハットの報告は激減した。
担当部長は胸を張った。
「安全文化が根づいた証拠だ」
私は心のどこかで、別の想像をした。
——忘れただけではないか。
バス会社の運転士が言った。
「交差点の危ない癖、昔はよく共有したんです。
今は投函しちゃうから、地図が白くなる」
彼はルート図を見せた。
赤い印は少なく、紙は新しい白さを保っている。
清潔は、善だ。
善は、ときどき盲目だ。
市長は記者会見で笑顔だった。
「忘却ポストは幸福指標を押し上げました。
次の段階として、街の恥の記録の投函も——」
記者が笑った。
「歴史まで?」
市長は笑顔のまま、紙をめくった。
「表現は慎重に。過度な負荷は避けて」
その頃から、妙な再発が増えた。
改修済みの歩道橋で、同じ段差につまづく。
対策済みの交差点で、同じ方向からの追突。
台風の後、浸水マップに記された青い区域に、新築住宅が立っていた。
地図の青は、どこかに投函されたのだろう。
住民説明会は平穏だった。
「危険の記憶は風評です」
配られた紙の下に、薄い切手がのぞいた。
教育委員会は「いじめ防止の成功」を発表した。
通報件数は過去最低。
掲示板の匿名投稿は、「謝罪済」のスクリーンショットで終わる。
担任は保護者会で言った。
「もう蒸し返さないことが、子どものためです」
翌週、保健室のベッドが足りなくなった。
理由の欄は空白だった。
空白は、立派な枠だ。埋めずに提出できる。
私はあの灰色の口に、じっとした嫌悪感を覚えるようになった。
ある朝、掃除をしている作業員に声をかけた。
「いっぱいになることは」
「毎日です」
「回収後は」
「溶解です。安全です」
彼は同じ答えを三度くれた。
彼の目は、私の顔を覚えなかった。
私も、彼の顔を覚えないことにした。
その年の夏、ダムのゲートが遅れた。
マニュアルは改訂済み、訓練も実施済みのはずだった。
監視室の時計は合っていた。
人の頭の中の時計は、三日前に投函された。
上流から電話。下流にサイレン。
ニュースのテロップ。
海の向こうの国のニュースが、同じ日に流れた。
どちらの国も、灰色の箱を持っていた。
追悼式は、簡素だった。
市長は短く頭を下げた。
献花台に、白い箱が積まれた。
——忘却の切手。無料配布。
涙は、乾く速度を知らされた。
乾いたあと、紙は軽い。
事故調の中間報告は、曖昧だった。
担当者は「個々の責任追及は控える」と言い、
「未来志向で」と結んだ。
過去は、未来の嫌がる鏡である。
鏡は、布で覆われた。
それでも、街はまわる。
パン屋は焼き、学校はチャイムを鳴らし、工場は回転する。
私の職場のトイレには「忘却切手自動販売機」が取りつけられた。
上司は言った。
「職場の心理的安全性のためだ」
部下は言った。
「トラブルが起きたら、すぐ投函できます」
私は、誰にも言わないで、一枚だけ買った。
——今日の会議での、卑怯な沈黙。
投函した。
三日後、胸の重さは消えた。
代わりに、舌の味が薄くなった気がした。
私の舌は、何かを忘れた。
秋、歴史資料館の展示が閉じられた。
「展示の見直しのため」
新聞は、さらりと書いた。
館長は夜、ひっそりとポストの前に立っていた。
重い封筒を、両手で持っていた。
彼は気づいていなかった。
自分の手が、そこまで軽く訓練されてしまったことに。
やがて、市役所の前に、巨大な灰色の筒が立った。
忘却ポストの拡張版。トラックが横づけされ、紙の箱が流れ込む。
看板には、こうあった。
「街の歴史資料の一時保管」
ラジオは音楽を流し、DJは軽口を叩いた。
「重い話題はプロに任せて、今日も軽くいきましょう」
市議会は夜を徹して議論した。
翌朝、決まった。
“街の負荷軽減のため、歴史の一部を忘却処理へ”
反対は、数人だった。
彼らの演説は、灰色の筒の前に置かれたスピーカーから、遅れて流れた。
音は少し歪んでいた。
歪みは、病気ではない。録音の仕様だ。
搬入は、祭りのように始まった。
古い議事録、過去の不祥事の新聞、浸水マップ、労災の記録、補助金不正の資料、
戦時中の徴用台帳、
公害の裁判資料、
撤去された記念碑の設計図。
箱の角はすぐ丸くなり、トラックのタイヤは黒かった。
子どもたちが手を振った。
大人たちは、うなずいた。
うなずく角度は、社会的合意という名のスライダーで決まる。
私は筒の前で、立ち尽くした。
雨宮はいない。ここには、誰の雨宮もいない。
係員は言った。
「ご家庭の小さな歴史も、受け付けています」
私はポケットの中で、何かを握った。
古い写真だった。
白い花。雨。小さな写真。
指が濡れた。
私は、反射的にそれを離した。
灰色の口が飲み込み、軽い音がした。
私は、自分の手を見た。
汚れていなかった。
三日後、街は軽かった。
記念日が、カレンダーから抜け落ちた。
式典は、名称を失って「市民の日」にまとまった。
学校の教科書は薄くなった。
遠足の荷物も軽くなった。
荷物が軽いと、遠くまで歩けるような気がする。
遠くまで歩いても、道に目印はない。
冬、同じ交差点で同じ事故が起きた。
ニュースのテロップは、既視感を避けた。
「痛ましい」「教訓に」
教訓とは、記憶を武装化したものだ。
武装は、武器庫ごと投函された。
市長は、再び会見した。
もう笑っていなかった。
「過ちを学ばない街という批判を、重く受け止めます。
しかし、過去に縛られて未来を失うのもまた過ちです」
彼の背後に、灰色の筒が映り込んでいた。
筒の表面には、子どもが書いた落書きがあった。
「ここに重さを捨てよう」
子どもは、正しい。
正しさは、ときどき刃だ。
その夜、臨時議会。
提案は一つ。
「歴史の一括投函」
拍手はなかった。
沈黙だけ。
沈黙は、賛成より強いことがある。
翌朝、トラックが列を作った。
記録庫が空になり、資料館が空になり、学校の倉庫が空になった。
灰色の筒の口が、わずかに広がった気がした。
係員がシャッターを押した。
ドンという音がした。
私の胸にも、同じような音がした。
理由は、三日後には消えるはずだった。
街は軽くなり、静かになった。
風の音がよく届くようになった。
歩道の白線が新しく塗られ、看板が更新され、
**“再発防止へ”**の横断幕が、風で笑った。
誰も笑わなかった。
笑い方を、どこかに預けたのだ。
図書館の角に立っていた最初の灰色の箱は、撤去された。
「役目を終えました」
工事の人が言った。
私は、その人の顔を覚えていない。
工事の人も、私の顔を覚えていない。
公平だ。
夜、公園に行った。
ベンチに座る。
手ぶらだ。
何も持っていないのは、良いことだ。
それとも、悪いことか。
判断の材料は、郵便で送られてこない。
足元に、古い切手が一枚、落ちていた。
五分分。
使いかけ。
私は拾って、ポケットに入れた。
期限は書いていない。
忘却の切手には、有効期限:なしと書かれていない。
書かれていないことは、だいたい有効だ。
遠くで、サイレン。
風向きは、去年と同じだった。
去年という言葉が舌に乗り、するりと落ちた。
私は空を見た。
星は、何も覚えていない顔をしていた。
星を責める権利は、どこにも投函されていない。
私たちは、明日の朝も、白い線を渡る。
前回と同じタイミングで、信号が変わる。
私たちは、学ばない。
学ばないという事実も、いつか投函されるだろう。
灰色の口は、きっと開いている。
いつも、軽い音で。