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真・意味がわかると怖い話 四時  作者: 妙原奇天


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返送印の押し方

 役所の仕事のなかで、いちばん軽いのは封筒だ。だって、紙だもの。けれど、いちばん重いのも封筒だ。だって、名前が入っている。

 市民課の片隅、窓口とは逆向きに置かれた長机が、私の持ち場だ。朝いちで配達員さんがまとめて置いていく「返送郵便」をほどき、宛名をシステムで照合し、返送理由のコードを選び、封の上からやわらかいスタンプで、赤い四角をやさしく落とす。——“宛所に尋ねあたりません”“受取人不明”“転居先不明”“あて所にたずねあたりません(再)”。同じ意味でも、表現が少しずつ違う。活字の顔が違う。違う顔には、違う重さがある。


 返送印は強く押してはいけない。力むと、紙がへこむ。へこみは記憶の癖になる。封筒を持つ人の指に伝わる。指に伝わった癖は、窓口の机の角で増幅される。角は、言葉を硬くする。硬い言葉は、喧嘩になる。喧嘩は、音が大きい。音が大きい場所で、名前はよく欠ける。

 だから私は、印面を紙に触れさせるだけにする。赤は紙に乗るだけ。乗るものは、いつでも降りられる。


 封筒は、匂いで季節がわかる。春はインクが甘い。夏は糊が濃い。秋は紙が乾いて鳴く。冬は、すべてが軽い。軽い冬の封筒は、すこし悲しい。たいてい「請求書」だから。支払いの紙は薄いほうがいい、という考えがあるらしい。人は薄い紙を、薄い問題だと思いたがる。


 返送の理由は十数種類あるけれど、よく使うのは三つだけだ。宛所不明、受取人不明、転居先不明。どれも、封筒の向こうで何が起きたかまでは教えてくれない。

 郵便受けの名前札が外されたのか。表札の表記が違うのか。玄関の中で、新聞が積み重なっているのか。玄関が遠いから、誰も見ていないのか。

 私たちの仕事は、そこまで踏み込まない。封筒を軽くして、戻すだけ。軽くすれば、遠くまで行ける。遠くまで行けば、また戻ってくる。戻ってきたものだけが、記録になる。


 窓口の人たちは、午前中が忙しい。住所変更、印鑑登録、戸籍の謄本。番号札は一枚ごとに音を叩く。パン、と軽く。叩く音は、名前を呼ぶための準備運動だ。呼ばれた名前は、返事をする。返事は、名前を重くする。重くなった名前は、机の向こうから見ても、わかる。


 返送郵便の中に、薄い青の封筒が混じっていることがある。健康保険の。中はだいたい、保険証の発行案内と、本人確認のための案内状。これが戻ると、窓口がざわつく。本人確認は、名前の鎧だ。鎧が戻ると、人は軽くなる。軽くなった人は、どこへでも行ける。どこへでも行ける人は、どこにもいない。

 青い封筒に返送印を落とすとき、私はひと呼吸置く。置かないと、指が沈む。指が沈むと、印が濃い。濃い印は、読む人の目を刺す。刺された目は、名前から逃げる。逃げられた名前は、小さくなる。小さくなった名前は、封筒の角に滑り落ち、机の下のほこりと混ざって、午前の光の中で踊る。


 市民課の空気は乾いていて、夏でも紙がめくりやすい。紙がめくりやすいと、人は考えずにどんどんめくる。めくるたび、名前が通り過ぎる。通り過ぎたものは、軽い。軽いものは、戻すのが簡単だ。


 正午前、窓口がいったん落ち着いた隙に、担当の課長が、白い箱を持ってきた。夜間窓口の投函箱から上がってきた書類だ。箱の中には封筒が二十枚ほど。夜、誰もいない時間に差し出された紙は、昼の紙より静かだ。静かな紙は、よく読める。

 ——「住所変更届」。

 申請者名:矢野蓮。

 新住所:さくら町二丁目六番二号さくらハイツ二〇三号。

 旧住所:記載なし。

 連絡先:記載なし。

 添付書類:なし。

 夜の紙は、略が多い。略は、軽い。軽いものは、午前中の流れに紛れて、どこにでも紛れる。


 私は受理できない書類に付ける黄色い付箋を、角に貼る。——「旧住所空欄」「本人確認未完」「引越し日記載なし」。貼って、課内書架の「保留」段に差す。段は、夕方に重くなる。夕方の段は、取り出す手がすぐ疲れる。疲れている手は、丁寧だ。丁寧な手は、紙にやさしい。やさしい紙は、よく残る。


 返送郵便に戻る。ふと、見覚えのある住所が目に入った。さくらハイツ二〇三号。封筒の表の左下に、うっすらと鉛筆の線。投函者が、地図を描こうとしてやめた線。やめた線は、残る。残った線は、指の腹で消える。消えた線は、見えないが、ある。

 差出人は、電気料金センター。返送理由は「転居先不明」。スタンプはすでに黒で押されていた。黒は、冷たい。冷たい黒は、午前の光に細く立つ。細い影は、机の木目に沿って伸びる。伸びる影は、読む人の顔に触れない。


 昼の休憩には、市役所の屋上に出る。夏でも風が通る。遠くで保育園の子どもたちが、水を撒く音がする。ホースの金具が、石に当たって軽く鳴る。軽い音は、笑いを呼ぶ。笑いは、名前をやわらかくする。やわらかくなった名前は、紙の上で丸くなる。丸い名前は、転がる。転がって、どこかに隠れる。

 隠れたものは、呼ばれない。呼ばれないものは、返ってくる。


 午後、窓口に、若い男性が来た。番号札を握りしめ、目の下に浅い影。影は昼の乾いた空気で薄くなるはずなのに、彼の影は濃かった。濃い影は、夜の匂いがする。

 彼は住所変更の相談だった。書類の空欄を指摘され、旧住所の確認を求められ、本人確認書類を持っていないことに気づき、肩を落とした。窓口の担当が冷たいわけではない。書き方を丁寧に案内し、「夜間投函でも結構です」と笑顔まで添えた。けれど、彼は笑わなかった。返事をするとき、名前を名乗らなかった。

 名前を名乗らない人は、紙の上でよく迷う。迷う人の封筒は、軽い。軽い封筒は、風に乗る。風に乗ったものは、どこにでも届く。どこにでも届くものは、誰にも届かない。


 返送郵便の束は、三時の鐘が鳴る頃に減る。減ると、机の木目が見えてくる。木目は川みたいで、名前の船がいくつも流れていく。私は舟が沈まないよう、印の角を川筋から外して落とす。外れた印は、紙の上にただ乗るだけ。乗ったものは、降ろせる。降ろせるものは、戻せる。戻せるものは、もう、怖くない。


 四時を回って、窓口がまた混み始めたとき、課長が私を呼んだ。「夜間投函の保留、確認に立ち会って」。私は黄色い付箋のついた封筒の束を抱えて、窓口の裏から出る。さくらハイツ二〇三号の封筒も、その中にある。申請者は、昼に番号札を握っていた彼だ。窓口係が呼ぶ。「矢野さま」。彼は顔を上げ、名前に反応する。反応した瞬間の筋肉の動きは、小さい。小さいものは、よく見える。

 課長は淡々と説明する。「旧住所の確認が必要です。本人確認書類の提示もお願いします。届出はできますが、処理は保留になります」。彼は頷く。頷く角度が、わずかに左右にブレる。迷いの角度。迷いは軽い。軽い迷いは、風が好きだ。

 「旧住所は……」と、彼が口を開く前、窓口の横の壁の時計が五時の少し前を指した。時計の針は、毎日同じ場所で、ほんの少し引っかかる。引っかかる音は聞こえないけれど、空気が固くなる。固くなった空気は、言葉を食べる。食べられた言葉は、紙に乗らない。


 定時のチャイムで窓口は閉まる。夜間投函に向けて、ガラスの箱の鍵が開けられる。透明の箱の底は、わずかに傾斜していて、紙を一枚ずつ手前に滑らせるようになっている。私は底の傾きを指先で撫でる。滑りは今日、良い。滑る紙は、よく集まる。集まった紙は、軽い野次馬になる。軽い野次馬は、名前を飲み込む。飲み込まれた名前は、朝になると静かだ。


 夜、帰り道、さくら町に寄り道をすることがある。市役所から歩いて十五分。川沿いの道を越え、コンビニの角を曲がると、三階建ての古いハイツが見える。通り沿いの表札は、白いカードが差し込まれているものもあれば、何もないものもある。二〇三の前には、表札がない。ポストの差し込み口に銀色のテープ。昼間、封筒で見た跡と同じ。テープの段差は、指でなぞると消えるが、指の皮に残る。皮に残った段差は、家に帰るころには、溶けている。

 夜のハイツの廊下は、音がよく伸びる。誰かが階段を上り、誰かが降りる。誰かが鍵を回す。鍵の音は名前の音だ。名前の音がしない扉は、軽い。


 翌朝、返送郵便の束の上のほうに、またあの住所があった。差出人は水道局。「転居先不明」。返送スタンプは、昨日と違う字体。昨日は黒、今日は赤。インクの水分量が違う。手が変わった。別の配達員。別の歩幅。別の呼吸。別の朝。

 私はシステムで住所を照会する。二〇三は登録がある。住民基本台帳の画面、住民票のコード、氏名、前住所……の欄が、薄い灰色のまま光っている。入力待機の色。待っている色は、優しい。優しい色は、目を甘やかす。

 画面の下に、小さな欄外注記がある。「夜間提出。保留中。本人確認書類未提出」。注記のフォントは、少し古い。更新されない欄は、よく残る。よく残るものは、意味を持つ。

 私は封筒に、赤い返送印を落とす。軽く。紙に乗るだけ。


 昼、同僚が囁く。「さくらハイツ、最近返送多いね」。私は「多いですね」と答える。返送が多い建物は、ポストの開口部が狭い。狭いポストは、人の手を拒む。拒まれた手は、別の箱に入れる。夜間投函箱。夜の箱は明るい。明るい箱は、名前をよく集める。

 同僚は続ける。「この間、住民票の写し取りに来た人がさ、番号札呼んだら、急に『いえ、違います』って帰っちゃって」。

 「名前、呼びました?」

 「呼んだ。二回。大きく。そしたら、二回目は、誰もいなかった」

 呼ばれていない名前は、よく返事をする。呼ばれた名前は、時々いなくなる。二回目の呼びかけのあいだの空白は、軽い。軽い空白は、足音を引き寄せる。足音は、遠くからでも来る。


 午後の返送作業に戻る。封筒の束の中に、違和感のある一枚が紛れていた。封は閉じているけれど、軽すぎる。手のひらの中で、紙の風船みたいに浮く。差出人は、役所の別の課。「市税納付書在中」。宛名は、さくらハイツ二〇三。返送理由は空欄。空欄の返送は、本来来ない。空欄は、風に似ている。風は、誰のものでもない。誰のものでもない風は、箱の蓋を閉め忘れても、怒られない。

 私は封を光に透かす。中は、真っ白だ。紙がない。何も、入っていない。入っていない封筒は、軽い。軽いものは、遠くまで来られる。

 課長に見せる。「中身が、空です」。課長は一瞬だけ眉を寄せ、「差戻しにして」とだけ言った。差戻し用の青い付箋に「中身なし」と書き、別トレイへ移す。青い付箋は、昼の光で冷たく光る。冷たい光は、紙を薄くする。


 その日も夜にさくら町に寄り道をした。帰り道の足は勝手に角を曲がり、同じ石畳の出隅を踏み、同じ電柱の根元を見てしまう。癖は、地図より正確だ。癖の地図で歩くと、名前が道になる。名前の道は、誰も呼ばない。

 二〇三の前に立つと、扉の郵便受けに小さな紙が差し込まれていた。「不在連絡票」。印字の黒が新しい。ボールペンの数字は、浅い。強く書かない人の字だ。差出人は宅配会社。宛名に、名前がない。「二〇三号室様」。呼ばれない部屋。呼ばれない部屋は、軽い。


 その週の金曜、窓口に見慣れない年配の女性が来た。番号札を持たず、案内係に「さくらハイツの……」とだけ言い、視線を泳がせる。泳がせる目は、川の石を見る。石の形が変わったかどうか。石の形は変わらない。けれど、川の水位は変わる。変わる水位で、人は歩く場所を変える。変わった歩幅は、名前の音を変える。

 彼女は「転居届のことで」と言った。案内は丁寧に受け取って窓口へ向かったが、数分後、番号を呼ばれても、席は空いたままだった。呼ばれない番号は、音だけ残る。音だけの番号は、朝になると紙になって、返送郵便の束の下のほうに眠る。


 週が明ける。返送郵便の上から三枚目に、また二〇三があった。返送理由の印は、見慣れない書体。“宛所に尋ねあたりません(再)”。再。再の字は、二度目の礼儀だ。礼儀は、軽い頭の下げ方で済む。軽い頭は、すぐ上がる。

 昼過ぎ、課内メールが回る。「行方不明者情報の提供について」。警察からの照会だ。——“さくらハイツ二〇三号室 矢野蓮(仮名) 所在不明。最終確認:〇月〇日(深夜窓口投函記録)。本人確認未完につき、住民票異動未反映。情報提供者:近隣住人(鳴き声等生活音なし)。家族からの照会:なし”。

 メールの末尾に、統一フォーマットの一文がつく。「該当者は住基ネット上、現住民として確認できません」。

 確認できません。

 確認は、できない。できるのは、返すことだけ。


 夜、さくら町のコンビニの前で、同じ年配の女性を見かけた。紙の袋を両手で抱え、角を曲がって、ハイツの玄関に吸い込まれていく。玄関の中の照明は、蛍光灯の白。白は紙に似ている。紙に似た光は、名前を消す。消えた名前は、あとで浮かぶ。浮かんだ名前は、軽い。

 私は通り過ぎる。通り過ぎる足は、石畳の出隅を確かめ、同じ電柱の根元を見てしまう。根元に、塩の跡があった。冬の塩。足裏で散らす。残った白は、雨で消える。消えた白は、どこかで乾き、午後の返送郵便の封筒の角に戻ってくる。


 届くべきところに届かない紙は、届きやすいところへ届く。夜間投函箱は、いつでも開いている。透明の箱は、名前の水槽だ。中で紙が泳いでいる。泳いでいるあいだに、書かれていない項目は、ますます書かれなくなる。書かれていないものほど、よく集まる。集まるほど、軽い。

 私は夜間投函箱の鍵の滑りを、たまに点検する。鍵は人間のためにできている。人間が諦める前に、鍵が諦めるようにできている。諦める鍵は、音が小さい。音が小さい場所で、名前はよく欠ける。


 冬の終わり、課長が私の机に白い封筒を置いた。「宛名不明の返送、多いから、ポスト周りの調査お願いします」。依頼文は事務的で、断定はない。調査という名の散歩だ。散歩は、癖と相性がいい。

 私は市役所公用の腕章をつけ、さくら町に歩く。さくらハイツのポストは曲者だ。差し込み口のバネが強く、紙がはね返されることがある。返された紙は、地面に落ちる。地面に落ちた紙は、誰のものでもない。誰のものでもない紙は、夜間投函箱に入る。

 ポストの口に、指先を入れて、バネを確かめる。硬い。硬いものは、軽い紙を嫌う。軽い紙は、入口の音で帰る。帰る音は、赤い返送印で薄くなる。

 私は管理会社に連絡を入れ、ポストの調整を依頼する。電話口の若い男の声は、午後の光で乾いていた。「早急に見ます」。早急は軽い。軽い言葉は、すぐ忘れられる。

 ポストの前に立っていると、二〇三の扉が、少しだけ開いた。チェーンがかかったまま、細い隙間。隙間の向こうの空気は、温かい無臭。上から降りてくる匂い。

 「市役所の者です」とだけ言うと、隙間は閉じた。閉じる音は、小さい。小さい音は、よく残る。残った音は、机の木目の川筋に似て、昼の返送郵便の上に、薄く積もる。


 日が延びる。窓口の終わる時間の光が柔らかくなる。柔らかい光の中で、名前は丸くなる。丸くなった名前は、転がる。転がった名前は、夜間投函箱の底に溜まる。

 ある晩、投函箱の底の傾斜が、いつもより滑らなかった。紙が角で引っかかる。角に汗の跡。汗は、名前の水分だ。水分は、乾くと砂になる。砂は、封筒の間に挟まって、摩擦を増やす。

 私は投函箱を一度空にして、底を拭いた。拭く布は、静かなものを選ぶ。布の繊維に、音が絡まる。絡まった音は、布の中で眠る。眠った音は、朝、洗い流される。洗い流された音は、排水の金具に当たって軽く鳴る。軽い音は、笑いを呼ぶ。笑いは、名前をやわらかくする。


 春分の少し前、警察からの照会メールがまた来た。「所在不明の続報」。さくらハイツ二〇三についての記述は変わらない。「住基ネット上、現住民として確認できません」。

 「確認できません」は、便利だ。存在を否定しない。存在を肯定しない。書類を軽くする。軽い書類は、よく流れる。よく流れたものは、戻ってこない。戻ってこないものは、記録にならない。記録にならないものは、机の下のほこりと混ざって、午後の光の中で踊る。


 同じ日、返送郵便の束に、一通だけ厚い封筒が混じっていた。厚い封筒は、軽くない。軽くないものは、遠くに来られない。なのに、そこにある。宛名は二〇三。差出人は「司法書士事務所」。返送理由は「受取人不明」。スタンプは赤。印面の角がすこし欠けていて、四角が丸い。丸い赤は、やさしい。やさしい赤は、読む人の目を眠らせる。

 私は封筒を持ち上げる。中で固いものが鳴る。カードか、鍵か。鍵は人間のためにできている。人間が諦める前に、鍵が諦めるようにできている。諦めた鍵は、封筒の中で黙っている。

 課長に見せる。「厚い返送です」とだけ言う。課長は頷き、「所内便で法務へ回して」と指示する。私は赤い回覧札をつけ、封筒を別のトレイに移した。赤い札は、夜に見えにくい。見えにくいものは、よく残る。


 年度末の忙しさは、紙を軽くする。軽くなった紙は、机の上を滑って、床に落ちる。落ちた紙は拾われる。拾われた紙は、順番を失う。順番を失った紙は、名前から遠ざかる。遠ざかった名前は、呼ばれない。

 私は机の下に落ちた紙を拾い集める。紙の角で指を切らないように。切ると、血が紙に映る。映った赤は、返送印と混ざって見える。混ざった赤は、意味を持つ。意味は、重い。重いものは、遠くに行けない。


 四月。さくらが咲く。さくら町のハイツの前の植え込みにも、名の知らない白い花が咲いた。白い花は紙に似ている。紙に似た花は、名前を消す。消えた名前は、浮かぶ。浮かんだものは、軽い。

 返送郵便の束から、さくらハイツ二〇三の封筒が消えた。消えるというのは、来なくなったということだ。来なくなるのは、宛先が変わったか、差出人が学んだか、投函箱の底が滑らかになったか、誰かが受け取ったか。受け取ったのなら、よい。宛先が変わったのなら、よい。差出人が学んだのなら、もっとよい。

 私は机の木目の川筋を撫でる。川は、春に水を増やす。水が増えると、石は見えなくなる。見えない石は、ある。あるものは、触れないとわからない。触れないものは、軽い。軽いものは、遠くに行ける。遠くに行けるものは、戻らない。


 六月。梅雨。封筒は重くなり、返送印のインクは乾きにくい。乾きにくい赤は、紙に沈む。沈んだ赤は、触ると指に映る。映った赤は、机の角で薄く伸びる。伸びた赤は、意味を持たなくなる。

 雨の日、窓口で、あの年配の女性が、また番号札を握っていた。今度は席を立たない。席に座り、名前を呼ばれて、返事をした。「はい」。その声は、紙に似ていた。紙の声は、軽い。軽い声は、遠くまで行ける。遠くで消える。消えた声は、机の木目の川筋の間で踊る。

 彼女は用件を言った。「除票を、ください」。

 職員が確認する。「どなたの」

 彼女は答える。「二〇三の」

 職員はキーボードを打つ。「お名前」

 彼女は目を伏せる。「……」

 伏せた目は、川の石を見る。石の形は変わらない。水位は変わる。水位が変わると、見えないものが増える。増えた見えないものは、軽い。

 職員は丁寧に言う。「該当者の住民票除票は、確認できません。住基ネット上、現住民として……」

 私は耳で続きを言う。「確認できません」。

 確認できないものは、返送される。返送されたものは、軽くなる。軽くなったものは、遠くへ行く。遠くへ行ったものは、戻らない。

 彼女は番号札を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がると、紙袋の底が鳴る。雨の日の紙袋は、重い。重いものは、近いところにしか行けない。近いところに行くものは、すぐ戻る。戻るものは、机の木目の川筋で止まる。


 夏。返送郵便の束に、見知らぬ団地名が増えた。新しい開発。新しい名前。新しい紙。新しい返送印。新しい軽さ。軽いものは、よく集まる。よく集まるものは、誰のものでもない。

 ある日の束の真ん中に、さくらハイツの別の号室の封筒が混じっていた。二〇一。返送理由は「受取人不明」。二〇一の表札は、たしか新しい。新しい表札は、名前をよく受け止める。受け止め損ねたのなら、誰かが名前を外したのだ。外された名前は、紙の上で軽くなる。軽くなった名前は、遠くへ行ける。

 私は返送印を落とす。軽く。紙に乗るだけ。乗った赤は、乾きにくい。乾かない赤は、指でこすると薄くなる。薄くなった赤は、意味を持たない。


 秋。風が乾き、封筒が鳴る。鳴る紙は、笑う。笑う紙は、名前をやわらかくする。やわらかくなった名前は、紙の上で丸くなる。丸い名前は、転がる。転がった名前は、夜間投函箱の底へ滑る。

 夜間投函箱は、相変わらずよく滑る。底の傾斜は、いつの間にかわずかに角度が増していた。角度は、鍵穴のように繊細だ。誰かが調整したのだろう。調整は、軽い力でできる。軽い力は、痕跡を残さない。痕跡がなければ、記録にならない。記録にならなければ、返送されない。


 冬が来る前、私は新しいスタンプをもらった。古い返送印のゴムがすこし削れて、縁が甘くなっていたからだ。新しい印面は、角がきりっとしている。角が鋭いと、紙に乗ったとき、影が生まれる。影は、名前の輪郭を強くする。輪郭の強い名前は、戻ってこない。

 新しい印を、最初に落としたのは、さくらハイツではなかった。別の町の、別の軽い封筒。赤は紙に乗り、すぐ乾いた。乾いた赤は、目を刺さない。刺さない赤は、読む人の眉を寄せない。眉を寄せない昼は、静かだ。静かな昼は、名前が欠けやすい。


 年末。市役所は忙しい。窓口は長い列。番号札の音が途切れない。パン、パン、パン。音に合わせて、私は返送印を落とす。パン、パン、パン。印の角度を変え、力を抜き、紙に乗せる。乗せて、降ろす。降ろしたものは、戻せる。

 さくらハイツ二〇三の封筒は、その日もなかった。なければ、よい。なければ、軽い。軽い夜は、早く終わる。早く終わる夜は、すぐ朝になる。朝になれば、返送郵便が来る。来る封筒は、重い。重いものは、近いところにしか行けない。近いところは、机の木目の川筋の、すぐ手前だ。

 私はそこに印を落とす。軽く。紙に乗るだけ。


 帰り道、さくら町を通るのをやめた。癖を変えるのはむずかしいが、できないことではない。石畳の出隅を踏まない。電柱の根元を見ない。見ないものは、ない。ないものは、軽い。軽いものは、遠くへ行ける。遠くへ行くものは、戻らない。


 春、桜が咲く。新しい年度。新しい名前。新しい紙。新しい返送印。新しい軽さ。

 窓口に、若い男性が来た。番号札を握り、目の下に浅い影。影は、春の光で薄くなるはずなのに、彼の影は濃かった。濃い影は、夜の匂いがする。

 窓口が呼ぶ。「矢野さま」。

 彼は顔を上げ、反応する。

 私は返送印を持った手を、一度だけ止める。

 止めて、印面を指で撫でる。

 角は、まだ鋭い。

 鋭い角は、紙に影を作る。

 影は、名前の輪郭を強くする。

 輪郭の強い名前は、戻ってこない。


 彼は言う。「住所変更を。旧住所は……」

 窓口の時計が、去年と同じ場所で、ほんの少し引っかかる。空気が固くなる。固くなった空気は、言葉を食べる。

 私は返送郵便の束に目を落とし、上から三枚目の封筒の角を揃える。角が揃うと、紙は軽くなる。軽くなった紙は、よく滑る。よく滑る紙は、遠くへ行ける。

 私は印を落とす。軽く。紙に乗るだけ。

 赤は紙に乗り、すぐ乾く。乾いた赤は、目を刺さない。

 刺さない赤は、眉を寄せない。

 眉を寄せない昼は、静かだ。

 静かな昼は、名前が欠けやすい。

 欠けた名前は、軽い。

 軽いものは、どこにでも行ける。

 どこにでも行けるものは、どこにもいない。


 ——返送印は強く押してはいけない。

 力むと、紙がへこむ。へこみは記憶の癖になる。

 紙に乗せるだけでいい。乗ったものは、いつでも降りられる。

 降りたものは、いつでも戻せる。

 戻せるものは、もう、怖くない。


 窓口がもう一度、名前を呼ぶ。ゆっくりと、大きく。

 「矢野さま——」

 二回目の呼びかけのあいだにある空白は、軽い。

 軽い空白は、足音を引き寄せる。

 足音は、遠くからでも来る。

 遠くから来る足音は、誰のものでもない。

 誰のものでもない足音は、朝には紙になる。


 朝になれば、封筒が届く。

 封筒は、軽い。

 軽いものは、遠くに行ける。

 遠くに行ったものは、戻ってこない。

 戻ってこないものは、記録にならない。

 記録にならないものは、机の下のほこりと混ざって、午後の光の中で踊る。

 午後の光は、赤い印を薄くする。

 薄くなった赤は、意味を持たない。

 意味のない赤は、やさしい。

 やさしい赤は、よく眠る。

 よく眠った赤は、次の朝には、また、紙に乗る。


 今日も、返送郵便の束は軽い。

 軽い束は、よく集まる。

 よく集まる場所は、静かだ。

 静かな場所で、名前はよく欠ける。

 欠けた名前は、軽い。

 軽いものは、遠くへ行ける。

 遠くへ行けるものは、どこにもいない。


 役所の仕事のなかで、いちばん軽いのは封筒だ。

 けれど、いちばん重いのも封筒だ。

 だって、名前が入っている。

 ——そして、時々、入っていない。

 入っていない封筒は、いちばん遠くまで届く。

 遠くで、誰にも読まれない。

 誰にも読まれないものは、すぐに戻る。

 戻ってきたものだけが、机の上に、ひとつ、またひとつと、軽く積もる。

 私はそこに、印を落とす。

 軽く。紙に乗るだけ。

 乗った赤は、すぐに乾く。

 乾いたら、忘れられる。

 忘れられたら、やっと、静かになる。

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