「静かな部屋の作り方」
ひとり暮らしの手ほどき、というほど大げさなものではないけれど、他所から来た友人がよく尋ねる。「どうしてそんなに部屋が静かなんだ」と。都会のワンルームにしては本当に静かで、聞こえる音といえば冷蔵庫の低いうなりと、遠くの電車の目覚ましみたいな軋みぐらい。壁が厚いのか、と友人は言う。厚いのかもしれない。実際、引っ越して初日に手のひらで壁を叩けば、軽い中空ではなく、指の骨に返る鈍い重さがあった。ここが気に入った理由はそれだ。音が散る壁。音を閉じ込める壁。
静かな部屋を作るコツは、音の入口と出口を減らすことだ。入口は外部の音、出口は内部の音。窓は二重サッシにした。レースカーテンの手前にもう一枚、遮音の厚手を吊った。網戸のアルミ枠のガタつきが小さくても、テープで一周巻いておくと、風の夜でも鳴かなくなる。ドアの足元は、隙間風防止のスカートを貼る。郵便受けの蓋もマグネットで押さえておくと、新聞が入るときにバンと鳴らない。
音は空気だけを通るわけじゃない。床も壁も天井も、振動の道だ。だから家具の足にはフェルトを。本棚は背板を外さず、壁にぴたりと付けずに微妙に離す。これは防音だけじゃない。本は、背表紙が並ぶと人の背中に似る。背中というのは、数が多いほど安心するのに、目で数えると不安になるものだ。だから背中は少し遠くに置く。
静かな部屋を作るもう一つのコツは、規則を決めること。徹底すれば、音は絞れる。
夜は二十一時で窓を閉める。ベランダで物を干すのは、午前零時から一時の間。クローゼットの扉は開けっぱなしにしない。洗濯機は二日に一度。二日に一度で十分だ。ホースの中に残る水の音まで覚えると、不意の滴りで胸が跳ねたりしない。乾燥機を回すとつい眠りに落ちるから、タイマーは使わない。回しっぱなしは良くない。熱は匂いを運ぶ。匂いは音より遠くへ飛ぶ。
匂いといえば、料理は湯気の少ないものに限る。カレーや煮込みは避ける。どうしても食べたいときは、土鍋ではなく耐熱のボウルに少量ずつ、電子レンジで。換気扇を回すと外に音が出るから、回さない。窓も開けない。匂いは濃くなる。濃くなった匂いは消臭剤で馴らす。柑橘系は長居する客の香りがするからやめた。洗いもののスポンジはふたつ用意して、片方は見えないところに。見えないところというのは、見えにくいではなく、見えないこと。たとえば、シンク下の奥、スプレー缶の並びの奥。缶は転がる。転がるものは音が出る。そこで棚板に薄い溝を切っておくと、缶は転がらない。スポンジの置き場所は、スポンジの形になる。
鍵を三本にした。賃貸だから管理会社に相談した。非常用の分を加えて合計三本。一本はポケット。一本は玄関の上の棚の缶に。一本は出かけるとき机の引き出しに。三本あると、人は数える。どこに何本、いつの記憶に。数えると、それは規則になる。規則が増えると、音は減る。試してみるといい。
訪ねてくる人がいるから、玄関の前に足拭きマットは置かない。音が吸われるからだ。音が吸われると、来訪者は足音の軽さに油断する。油断は会話の音量を上げる。それから、呼び鈴の音は小さくしてある。呼び鈴は人の声より高い。高い音は好奇心を呼ぶ。低い音は眠気を呼ぶ。訪ねてくる人は眠いほうがいい。眠い人は短い。
管理会社の人が時々点検に来る。ガスの法定点検、消防の設備点検。事前にポストに紙が入る。紙は最初から折れ目が付いている。折れ目の数を数えると、担当者の機嫌がわかる。二つなら普通、三つなら面倒くさがり、四つなら午前に回り切らずに午後に伸びる。午後に来る人は疲れている。疲れている人は手早い。だから紙の折り目が四つのときは、玄関側の準備を多くする。もちろん、見えるところに不自然なものは置かない。見えるものは普通でいい。普通は、脳が勝手に補ってくれる。普段通りの歯ブラシ、普段通りのコップ。歯ブラシは二本でも、コップは一つのほうが、家庭的でない安心感がある。歯ブラシは古いほうを少し濡らしておく。濡れているものは、生きているものに見える。生きているものがある部屋は、人に退屈を与える。退屈は、点検を短くする。
蛍光灯の玉切れはすぐに替えたほうがいい。部屋が暗いと、目が音を拾いに走るから。それから、煙探知機の電池は定期的に替える。ピーピーというあの音は、うっかりすると昼間でも鳴る。それは困る。昼間の音は、ご近所を呼ぶ。夜の音は、思い出を呼ぶ。思い出は、部屋を暖めるが、他人を呼ばない。
ごみ出しは最重要だ。ごみは音の塊。燃えるごみの日は、前夜の二十二時に一度出る。袋は軽いほうがいい。大きな袋を一つより、細い袋を二つか三つ。持ち手を結ぶとき、空気が逃げる音が出るから、ゆっくり引く。排水口の生ゴミ受けは、ステンレスのものに替えた。プラスチックは軽くて、カラカラ鳴る。ステンレスは重い。重いものは、当たる音が低くて、布一枚で消える。ごみ出しルールに「奇数階は奇数週の火曜、偶数階は偶数週の火曜」とあるのが、このマンションの面倒さだ。覚えにくい。覚えにくいものは、掲示板が教える。掲示板の紙は毎月色が違う。その色を、キッチンのタイルの一枚に合わせる。色は音より正確に残る。冷蔵庫に貼るマグネットも、同じ色にする。目は同じ色を見つけるのが早い。早いと、行動が早くなる。行動が早くなると、音は短い。
ここまで読んだ友人は笑う。「神経質だな」と。笑ってもらって構わない。神経は、張れば張るほど細くなり、細くなるほど音を通さない。時々、ベランダから道路を見る。この通りは片側一車線で、歩道には街路樹が十メートルおきに植えられている。十メートルおきというのは、目的を持った人間が適当にサボらず歩く歩幅に、だいたい合っている。ここを行く人は、少し早足だ。早足は音を持ち込まない。コンビニの袋の持ち手が、手首の骨に当たる音だけが上がってくる。あとは風。
風の音は規則では縛れないから、風の日は音楽を流す。音楽は言葉のないもの。ピアノと弦。歌は駄目だ。歌の言葉は、部屋の言葉を喰う。風のある日は、湯船の栓を抜かない。水は音を飲む。飲んだ音は重くなる。その重さで、風の音は床に落ちる。床に落ちた音は、下の部屋へ降りたがる。だから、下の住人には時々シュークリームを持っていく。「床下の音をありがとうございます」とは言わない。言葉は重い。シュークリームは軽い。甘いものは、音のことを忘れさせる。
郵便物が増えたときは、注意する。郵便受けの蓋が重くなると、カコンという音が鈍くなる。鈍い音は耳に残らないが、蓋の戻る速度が遅くなる。遅いものは目につく。最近は住民台帳の確認で区役所から葉書が来た。葉書は軽いけれど、官製の紙は少し硬い。硬い紙は、蓋に当たると甲高い音がする。官製の甲高い音は、隣人の目を引く。だから、郵便受けの箱に小さな布を貼った。音は布に包むのが一番だ。布は静けさの皮膚だ。
そういえば、先月の夜、廊下に知らない靴音が続いた。スニーカーとは違う、硬い革の靴。階段を上がりきって、こちらに来る。止まる。呼び鈴は鳴らなかった。人は呼び鈴を鳴らさないで扉の前に立つことがある。立ち尽くす人は、音になる。沈黙という音。沈黙は人の中に穴を穿つ。それが少しの間続いて、また遠ざかった。遠ざかるときの靴音は、来るときより軽い。軽いのは安心だろうか、諦めだろうか。どちらでもいい。廊下は長い。長い廊下は、音の距離を誤魔化す。誤魔化しは、静けさの親戚だ。
台所の話をしよう。包丁は二本、まな板は一枚。まな板は立てかけず、引き出しに寝かせる。立てかけると、夜中に倒れる。倒れる音は、思い出を呼ぶ。シンクの下にはボウルが三つ。三つあると、二つ使っても一つ余る。その一つが、目の隅に残る。目の隅に残るものは、頭の隅にも残る。だから、余らせる。余りは油の匂いを吸う。吸った匂いは、次の夜にやっと出てくる。出てきた匂いは、もう一度吸わせればいい。吸わせる相手は布。布は静けさの皮膚だから、匂いの皮膚にもなる。
冷蔵庫のポケットには、常に水を冷やしておく。ペットボトルは軽くて音が少ない。ガラス瓶は重い。重いものは安心だが、ガシャンという音は一度で台無しにする。その代わり、氷は使わない。氷は鳴る。コップの中で、静けさを叩く。水の温度を少しぬるく保つほうが、喉には優しい。優しさは、部屋を静かにする。
寝具は、布団に限る。ベッドは軋む。軋みはリズムだ。リズムは呼ぶ。布団は床に沿う。床と人が重なって、音を薄くする。布団を干すときは、夜中に。布団を叩かない。叩くと、部屋が鳴く。布団の中の空気だけを入れ替える。窓に寄り過ぎない。誰かが見上げたときに、布の膨らみは人の形に似る。人の形は想像を呼ぶ。想像は声になる。声は音だ。
さて、ここまで読んだなら、あなたの部屋はもう十分静かだろう。静かな部屋は、時間が広い。広い時間は、人の言葉を薄める。薄まった言葉は、夜に馴染む。馴染んだ夜は、よく眠れる。よく眠れる夜は、短い朝をくれる。
朝は、静けさの採血だ。朝一番に窓を開け、音を一口だけ飲む。学校のチャイムの練習音、配達のバイクの二段変速、横断歩道のピヨピヨ。飲んだらすぐに窓を閉める。採った音は、午前中に使い切る。使い切るのは簡単で、掃除をすること。掃除機は使わない。クイックルワイパーをゆっくり押す。角に溜まる白い埃を丸めて捨てる。白い埃はきれいだ。きれいなものは、音にならない。音にならないものは、部屋に残る。残ったものは、静けさの肥やしになる。
次に、カーテンの裾の糸を切りそろえる。ほつれがあれば切る。ほつれは、爪に引っかかる。引っかかる音は小さいが、そこから大きな音が生まれる。小さい音が大きな音の親だと知っている人は少ない。だから切る。切った糸は捨てる。捨てた糸は、ごみ箱の底で絡まる。絡まったものは、音を捕まえる。
最後に、部屋の角に置いたスツールに腰を下ろして、息を整える。息が、いちばんの音だ。息の音が一定なら、他の音は全部消える。秒針が止まる。いや、本当に止めるわけではない。止まったように思えるだけだ。思い込みは静けさの核だ。核は重い。重いものは、部屋の真ん中に落ちる。真ん中にある重さに、人は触れない。触れない重さは、そこにあり続ける。
ときどき、夢を見る。夢の中で、誰かがキッチンの蛇口をひねる。水の音がして、すぐに止む。夢の中の誰かは、私のほうを見ている。見られていると音が変わる。音は目になる。目は音を怖がる。だから私は笑う。「大丈夫」と言う。夢の中の言葉は音にならない。目だけが動く。目の動きは、意志だ。意志は音の反対で、静けさのもう片方だ。
夢から覚めると、部屋はまた静かだ。静かすぎて、空気が見える。空気は、見えると重くなる。重くなった空気を押して歩く。部屋の端々に手を伸ばして、確かめる。窓は閉まっている。鍵はかかっている。鍵は三本。ドアのチェーンも、引っかかっている。チェーンは、音を留める。郵便受けの蓋のマグネットは、まだ利いている。冷蔵庫のモーターは、昨日より静かだ。静かすぎると壊れるから、耳を近づけて確かめる。生きている。生きている音は、安心の形をしている。
その安心の形を確かめたあと、私は机に向かって、今日の規則を書き足す。「二十一時の窓閉め、確認」「洗濯は二日に一度」「布団は干さない」「ごみは軽く」「鍵は三本」「朝の音は窓から一口」。紙に書くと、それは世界のルールになる。世界のルールになれば、人は従う。従えば、音は減る。減った音は、部屋を満たす。満ちた静けさは、やっと室温になる。
昨日、隣の部屋の人が廊下で友人に話していた。「このフロア、静かだよね。隣の人、一人暮らしみたいなのに洗濯の回数が多いんだよ。偉いよね、清潔で」偉いかどうかはともかく、正しい。清潔は、静けさの外套だ。洗濯ものは、夜中に一気に干して、一気に取り込む。一度で済ませると、音が溜まらない。物干し竿に布が擦れるシャリという音は夜の中で溶ける。シャリは海の音に似ている。
海の音といえば、この街には海がない。最寄り駅の名前に「浜」が付いているのに、海がない。昔ここに海があったのかもしれない。海が引いたあと、砂だけが残り、上にアスファルトが敷かれて、静けさの皮膚になった。皮膚の下で、人は生きる。生きる音が、皮膚の表面を叩く。叩く音は、やがて忘れられる。忘れられた音が、夜を作る。
夜は、私のものだ。夜は、規則のためにある。夜は、息のためにある。夜は、部屋のためにある。夜は、人のためにある。
夜の規則に「声を出さない」は含まれない。声は出してはいけないというほど、厳しいものではない。声は空気を震わせる。震えは壁に伝わる。壁は鈍い。鈍い壁は、声を食べる。食べられた声は、胃の中で静かになる。だから、小さく、ゆっくり、短く。「だいじょうぶ」。これだけで足りる。言葉はこれで足りる。言葉は多いほど、夜は薄くなる。薄い夜は、朝に破れる。
朝が来たら、また窓を開ける。開けて、音を一口だけ飲む。飲んだら、閉める。閉めて、鍵を三本。ここまで、ずっと同じ。
あ、そうだ。友人が来るときは、事前に言ってもらう。呼び鈴は鳴らさないで、メッセージで「着いた」と送ってとお願いする。呼び鈴の音は、やっぱり高いから。友人が来る前には、机の引き出しを一つ空ける。引き出しは空洞だ。空洞は音を吸う。人がひとり増えると、音も一つ増える。増えた音は引き出しに入れる。入ってしまえば、部屋はまた一人分の静けさに戻る。友人が帰ったら、引き出しはまた紙で満たす。紙は低い。低いものは、音を敷く。
ところで、今夜は洗濯の日だ。二日に一度。そう決めている。明日は資源ごみの日でもある。ペットボトルは三本。三本は、袋を二つに分ける。一本と二本。一本の袋は軽いから、先に出す。二本の袋は、ベランダの隅に隠す。隠すと、音は小さくなる。小さい音は、誰にも見つからない。見つからなければ、存在しないのと同じだ。
洗濯機のふたを開ける。洗剤は計量スプーン一杯。柔軟剤は半分。柔らかくなると、布が鳴かない。鳴かない布は、夜と仲がいい。服を二枚入れる。タオルを三枚。薄いのと厚いの。厚いタオルは、音を吸う。薄いタオルは、すぐ乾く。乾くと、匂いが軽い。軽い匂いは、廊下へ出ない。廊下へ出なければ、誰にも気づかれない。誰にも気づかれなければ、誰も探しに来ない。誰も探しに来なければ、部屋は静かなまま。
回し始めると、洗濯機の底で水が踊る。踊る音は、遠い祭りのようだ。祭りは、私には関係ない。関係ない音は、子守唄になる。子守唄は、眠らせる。眠ってしまえば、夜は短い。短い夜は、朝にすぐ届く。
ふと、玄関のチェーンがかすかに震えた気がして、顔を上げる。風はない。廊下の灯りも、そのまま。気のせい、だと思う。規則に「気のせい」という項目はないが、これも規則の一部だ。気のせいは、いちいち確認しない。確認すると、音が生まれる。生まれた音は、育つ。育った音は、外に出ようとする。外は風で、風は言葉を連れてくる。言葉は人を連れてくる。人は靴音を連れてくる。
洗濯機が止まる。蓋を開ける。濡れた布を取り出して、軽く絞る。絞る音は低い。低い音は床へ落ちる。ベランダの物干しに、夜中の空気を避けるようにかける。ハンガーは金属をやめて、樹脂にした。金属は鳴く。樹脂は黙る。黙るものだけで、夜は作られる。
最後に、クローゼットを開ける。開けて、息を止める。息を止めると、耳はよく働く。中の暗がりは冷たく、匂いは昨日より薄い。薄い匂いは、静けさとよく混ざる。棚の上の箱のそばに、古い毛布が畳んである。毛布は、音を眠らせる。眠った音は、目覚めない。目覚めない音は、優しい。
私は毛布に手を触れ、ゆっくりと撫でる。毛布の下から、布が擦れるような微かな音がした気がする。気のせいだろう。規則に従えば、気のせいだ。従うと決めたのは私だ。従わないと決めるのも、私だ。でも今夜は、従う。夜は、規則のためにある。
ドアを静かに閉める。クローゼットの縁に、指がほんの少し触れる。冷たい。冷たさは、音を固める。固まった音は、もう動かない。動かないものは、世界にない。世界にないものは、誰にも教えられない。
廊下の灯りを落として、私は寝床に戻る。布団の重さが、胸に降りる。息を整える。呼吸の間が、一定になる。秒針は、止まらないけれど、止まったように思える。思い込みは静けさの核だ。核は重い。重いものは、よく眠りを呼ぶ。
目を閉じる前に、机の上のメモを一枚、声に出さずに読む。「明日、管理会社点検(午前)、ガス給湯器確認、玄関前掃き掃除、洗濯(夜)、資源ごみ三本、鍵三本、窓二十一時」。そして最後の一行。「部屋を静かに」。
静かな部屋の作り方は、難しくない。規則を守る。音を減らす。匂いも。光も。人も。
そして、忘れないこと。部屋は一人。鍵は三本。洗濯は二日に一度。歯ブラシは二本。コップは一つ。スポンジは二つ。ボウルは三つ。ペットボトルは三本。布団は一枚。毛布は一枚。声は、小さく。夢は、短く。呼び鈴は、鳴らさない。窓は、閉める。クローゼットは、開けない。
開けない。
——開けないで、ください。
夜は、規則のためにあるのだから。