境界に響く声
四日目の夜。原生林は激しい嵐に見舞われていた。叩きつけるような雨は体温を容赦なく奪い、泥水が傷口に染みては鋭い痛みを走らせる。もはや、痛みに反応する気力すら残っていなかった。アルマは転落して負った傷が悪化し、カインドは脱水と疲労で焦点が定まっていない。もはや、レオの殺気を避ける体力も気力も残っていなかった。闇を切り裂いて飛来する礫が、抵抗できない二人の背中や脚を無慈悲に切り裂いていく。
「はぁ…ゲホッ…」
アルマは倒れ、泥の中に顔を付けたまま起き上がることの出来ず意識が白く染まっていく。
「ここで終わるんだ、俺たち」
そんな弱音をカインドが吐いた瞬間、冷たいはずの闇の向こうから、懐かしい声が響いた。
『ずっと外で遊んで泥だらけじゃんあんたたち、本まで汚さないでよね頼むから』
落ち着いた雰囲気で少し呆れたような声。本を片手に自分を見下ろす長女、クウロだ。
『いいじゃん、男の子はこれくらい元気な方が!まだまだいくよアルマ!』
隣で快活に笑い自分を焚きつける次女ノウス。二人の姉の笑い声。守りたかった、騒がしくて温かな日常。
(そうだ。俺は守らなきゃいけなかったんだ。あの日何もできなかった俺が…!)
母を見捨てなければならなかったあの日への怒り、姉を守れなかった無力感、力がなく果たせなかった誓いが、凍りついた心臓を無理やり叩き起こす。
────その隣で、カインドもまた、別の声を聞いていた。
混濁する意識の中で、彼は自分を呼ぶ兄、サポットの背中を追っていた。
自分と違って、何事もそつなくこなしていた兄。いつもその背中に隠れ、おんぶにだっこで甘えていた自分。
『さっさといくぞ、遅いと置いてくぞ』
兄の大きな背中が遠ざかっていく。
『待ってよ兄ちゃん、ちょっと手伝ってよ』
『なーに言ってんだバカタレ、こういうのを自分でやれるようにしないと将来困るのは自分自身だぞ、待ってやるから早くしな』
優しくも突き放すような励まし。甘えていた弟の殻が、死の淵でピキリと音を立てて割れた。
(兄ちゃん見てて、俺一人でも…ちゃんとやりきるから)
「…うおおおおおっ!!」
アルマが咆哮し、泥を掴んで立ち上がる。その瞬間、彼の右拳に異変が起きた。母や姉たちを守れなかったあの日への怒りと、二度と屈しないという執着。それが魔力の回路を逆流させ、一点に猛烈な勢いで凝縮させた。
ただの魔力ではない。アルマは右腕を回転させ、今自分が最大限出せるパワーを右手に集中させた。
同時に、カインドの気配が、不自然なほどに「無」へと転じた。
「兄の背中に隠れない」という拒絶の意思が、光や音、レオの放つ殺気さえも透過させる。カインドの輪郭は雨夜に溶け込み、そこには最初から誰もいなかったかのように、レオの認識から完全に消失した。
「…!!ホッ!!」
レオの放った、必殺の礫が闇を割く。しかしカインドを見失ったことに動揺したのか精度の高い一撃を放つことが出来ず、『無』と同化したカインドには当たらなかった。その先にいたアルマは正面から迫る一撃を右拳で真っ向から迎え撃った。
鈍く低い音が山に鳴り響く。木に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、それは羽ばたく音に変わった。
岩の壁は一部が粉々に砕け散り、アルマは一歩も引かずに拳を突き出していた。
「…止めたぞ、じいさん」
泥と自身の血にまみれたアルマの瞳には、かつての「子供」の光はない。その横には、幽霊のように気配を消したカインドが静かに立っていた。
闇の中からレオがゆっくりと姿を現す。その顔にはこれまで一度も見せなかった冷徹な「師」としての眼光が宿っており、ついに彼らの前で初めて心からの笑みを見せた。
「…おまんらの中にあった『ナニカ』を、生きる糧に変えた訳か」
レオは無言で無造作に食事を二人の前に放った。粗末だが、確かに温かかった。
「まさか攻撃を受け止めるとはな…予定変更じゃ。これを食え。ここからは死人や誰かのためだけではなく、かつての世界を取り戻すために動け。儂の修行はまだ始まったばかりじゃ」
エケネイスの英雄たちが拾い育てた二つの小さな牙は、家族の記憶を血肉に変えこの先に訪れる地獄の真実へと歩み出した。




