絶望の産声
レオの小屋は湿った土と古い酒、そして隠しきれない血の匂いが混じり合っていた。
「こいつらはまだ『人間』のツラをしとるな」
それだけ言うと、レオは無造作に酒を煽った。品定めするような沈黙が、小屋に満ちた。
「天鋭になったお前らにはもう彼らを匿うのは無理じゃ。これからは儂に任せておけ」
その言葉が、日常との決別だった。
かつてジェイとダイヤも、このレオの下で死の淵を這い回った。理不尽極まりない地獄だったが、今の二人にとって、その地獄は皮肉にも「純粋」な思い出として映っていた。
山を下りる道中、ジェイとダイヤの間に重い沈黙が流れた。
二人が天鋭となってから、身の回りには常に「どこかに視線があるような」言いようのない違和感がつきまとう。廊下ですれ違う隊員の目、上層部の沈黙、背後にこびりつく正体不明の気配。英雄として祭り上げられ、一挙手一投足を組織という檻に監視される日々。
「…苦しいな」
ジェイが首元の軍服を力任せに緩め、吐き捨てた言葉には、この世界にうっすらと存在している閉塞感が滲んでいた。
翌朝。陽が昇るよりも早く、地獄の幕が上がった。
「一週間、この断崖の下で死なずに生き残れ。戻ってこれたら門下生として認めてやる」
レオが指し示したのは、断崖絶壁の下に広がる、日の光すら届かない原生林だった。
「ただしルールがある。儂は一週間の間、不定期に貴様らの首を狙う」
レオが指先で軽く空を切ると、空気が刃となって少年の頬を掠め、鮮血が飛んだ。
「眠っていようが、泥を啜っていようが関係ない。儂の『殺気』を察知し、瞬時に回避しろ。反応が遅れた瞬間、貴様らの首は地面に転がると思え」
「………は?」
アルマが呆然と呟く間もなく、レオの足が地を蹴った。目にも止らぬ速さの蹴りが二人の腹を捉え、容赦なく崖下へと蹴り落とす。
「うわあああああっ」
「止まれば森に喰われ、寝惚ければ儂に殺されるぞ!」
叩きつけられた先は、腐敗臭の漂う冷たい泥の上だった。
全身を襲う激痛。だが、それ以上に恐ろしいのは、崖の上から針のように突き刺さるレオの殺気だった。いつ、どこから、どのような攻撃が飛んでくるか分からない。脳を休めることは死を意味した。
初日の夜。原生林は完全な暗黒に包まれた。
飢えと渇き、そしていつ襲ってくるとも知れない野獣の気配。道場での「ルールのある組み手」とは根本から違う、完全な孤独。
「誰か助けに来てくれるかな」
寒さに震えながらカインドが呟く。その瞬間、闇を切り裂いて一本の枯れ枝が礫となって飛来した。カインドが反射的に顔を伏せ、耳たぶが裂ける。
「無駄じゃ、自分の力で生き抜くことを考えろ」
どこからともなく響くレオの嘲笑。アルマは擦りむいた拳を強く握りしめた。脳裏をよぎるのは、式典で見たジェイたちの輝かしい姿。だが彼らは今、その光の中で正体不明の視線に窒息しかけている。自分たちがここで死ねば、彼らをあの「檻」から救い出す者は誰もいなくなる。
「カインド。俺たちはここで終わりたいか?」
「嫌だよ」
「やってやろうよ!なんなら、あのじいさんの攻撃を止めるくらいにさ」
だが、現実は残酷だった。一日目と二日目はなんとか食い繋いでいたが、三日目になると睡眠不足と精神疲弊が極限に達し、思考は霧に包まれる。
一歩歩くたびに、体力が削られる。
一瞬まどろむたびに、死が首筋を撫でる。
守ってくれる師匠も、頼れる英雄もいない。あるのは、剥き出しの自然の脅威と、常に後頭部を冷たく突き刺すレオの殺気だけ。
エケネイスの英雄たちが見えない檻の中で息を詰めている裏で、二つの小さな命だけが、誰の目も届かぬ暗闇の底で、初めて本物の恐怖と向き合っていた。




