第九章:港町の異変と、聖務院の罠
港町ティルナは、潮風と魚の匂いが混じり合う、活気に満ちた場所のはずだった。しかし、リオネル、レリア、リュシアンの三人が足を踏み入れた時、そこには奇妙な静寂と、人々の顔に浮かぶ、どこか諦めにも似た表情があった。
「おかしいな……。こんなに静かな港町は見たことがありません」
リュシアンが周囲を見回しながら呟く。彼の魔力感知は、町全体に薄く広がる瘴気の淀みを捉えていた。それは、学園で感じた絶望の波動とは異なり、もっと微細で、しかし人々の活力をゆっくりと吸い取っているような、陰湿なものだった。
「これは……『緩慢なる侵食符文』。気づかぬうちに人々の精神を蝕み、抵抗する意思を奪う術式だ。聖務院の新たな手口か」
リオネルが、町の建物の壁に、かすかに刻まれた紋様を発見し、眉をひそめた。カサンドラ教授が学園で調べた古文書に、似たような記述があったことを思い出す。
「このままでは、町の人々が全て聖務院の意のままにされてしまうわ!」
レリアが焦りを募らせる。町の中心部へと進むにつれて、人々の目はさらに虚ろになっていくのが見て取れた。
リュシアンは、カサンドラ教授から預かった発光する鉱石を手に、魔力感知を集中させた。鉱石から伸びる魔力の糸は、町の最も古い地区にある、古びた灯台へと続いていた。
「灯台です!符文の魔力が最も強く集まっているのは、あの灯台のようです!」
リュシアンの報告を受け、三人は灯台へと急いだ。灯台の周囲には、人気が全くない。不気味なほどの静寂が、彼らを包み込んだ。灯台の扉は固く閉ざされ、その表面には、複雑な『緩慢なる侵食符文』がびっしりと刻まれていた。
「これは、町の全域にわたる術式の中心となる符文だ。これを破壊しなければ、町の侵食は止まらない」
リオネルが、灯台の符文の複雑さに目を凝らす。しかし、その符文からは、明らかに外部からの侵入を防ぐ、強力な反発の魔力が感じられた。
その時、灯台の陰から、数人の影が現れた。彼らは、黒いローブを身につけ、顔をフードで隠していた。ローブの胸元には、「真理の教団」の紋章が刻まれている。彼らは、手に魔術の杖を構え、リオネルたちを取り囲むように現れた。
「リオネル・ヴァンス。そして、魔力を持たぬ聖女レリア・エールハルト。聖務院の目論見を阻む、愚か者どもよ。ここで貴様らの旅は終わりだ」
教団のリーダーらしき男が、冷たい声で言った。彼の背後には、彼らの操る変異瘴気がうごめいていた。
「『真理の教団』……やはり、聖務院の尖兵か」
リオネルが構えを取る。彼の周囲に、清浄な魔力の渦が巻き起こる。レリアとリュシアンもまた、戦闘態勢に入った。
「リュシアン!符文の最も脆弱な部分を探せ!レリアは、町の侵食符文が人々から吸い取っている生命力を、一時的に解放する準備を!」
リオネルが指示を出す。彼は教団員たちに向けて、強力な**「光の嵐」**の魔術を放った。眩い光と浄化の波動が教団員たちを襲い、彼らは一斉に後退した。
リュシアンは、灯台の壁に刻まれた符文に魔力感知を集中させた。符文の複雑な回路を読み解き、その魔力的な「呼吸」を探る。以前の学園の符文とは異なり、この符文は、より巧妙に魔力を隠蔽していた。しかし、リュシアンの集中力は、エリックの死によって研ぎ澄まされていた。彼の親友が命を懸けて伝えようとした真実を、必ず突き止める。その思いが、彼の魔力感知を限界まで引き出した。
教団員の一人が、リオネルが牽制している間に、レリアに向けて不気味な呪文を唱え始める。彼の杖の先端からは、瘴気を帯びた黒い魔力の矢が放たれた。
「レリア先輩、危ない!」
リュシアンは、魔力感知で符文の核心を見つけながらも、とっさにレリアを庇おうと動いた。しかし、レリアは冷静だった。彼女の周囲に、瞬時に薄緑の光の膜が展開される。それは、彼女の純粋な生命力が作り出した、防御の結界だった。瘴気の矢は、その光の膜に触れた途端に霧散し、消え去った。
「見つけました!この部分です!」
リュシアンが指差したのは、灯台の符文の中でも特に細かく、ほとんど見えないほどの紋様だった。そこから、符文全体の魔力制御が行われていることを、リュシアンは感じ取った。
「今だ、レリア!」
レリアは、リュシアンが特定した符文の核心に向けて、掌から優しい生命の光を放った。レリアの光は、符文の魔力に触れると、町の住民から吸い取られていた生命力を、一瞬で解放した。町の人々の顔に、わずかな活気が戻る。
教団員たちは、突然の反撃に驚き、動きが止まる。その隙を逃さず、リオネルが渾身の**「聖なる裁き」**の浄化魔術を放った。彼の魔術は、灯台の符文を根元から浄化し、完全に破壊した。白い光が爆発的に広がり、灯台の壁に刻まれた紋様は、跡形もなく消え去った。
灯台の符文が破壊されると、町全体に広がっていた瘴気の淀みが、まるで霧が晴れるかのように消え去った。町の人々は、虚ろだった目から光を取り戻し、困惑しながらも、ゆっくりと動き始めた。
「よし、やったぞ!」
リュシアンは安堵の息をついた。しかし、安堵したのも束の間だった。
「聖務院を甘く見るな、愚か者どもめ!」
教団のリーダーが、高笑いとともに姿を現した。彼の背後には、符文が破壊されたにもかかわらず、全く影響を受けていないかのように佇む、新たなローブの男の姿があった。その男のローブの胸元には、「真理の教団」の紋章とは異なる、しかしどこか見覚えのある、古の聖女の紋章が刻まれていた。その紋様は、カサンドラ教授が調べていた古文書にあった、聖務院の最高位の証に酷似していた。
「お前たちが符文を破壊することは、織り込み済みだ。これは、聖務院の**『誘引の罠』**」
ローブの男の声は、底冷えするほど冷たく、そしてどこか傲慢だった。
「我々は、お前たち、特にレリア・エールハルトを、この場所へ誘い出す必要があったのだ。そして、この場所で、貴様らの全てを葬り去る」
ローブの男が手をかざすと、灯台の地下から、禍々しい魔力の波動が噴き出した。同時に、町の地下からいくつもの太い鎖のようなものが、地面を割って現れ、リオネルたちを拘束しようと襲いかかってきた。鎖は、黒い瘴気を纏い、触れるもの全てを腐敗させんばかりの威圧感を放っていた。
「これは……!この魔力は、聖務院の深層から発せられている!まさか、この灯台の地下に、聖務院の支部が!?」
リュシアンが驚愕の声を上げる。彼の魔力感知は、地下に広がる巨大な魔力の貯蔵庫と、その魔力を操る複数の強力な魔術師の存在を捉えていた。
「どうやら、これは聖務院の『聖女捕獲術式』の一種のようだ。我々を誘い出し、まとめて捕らえるつもりか」
リオネルは、襲い来る鎖を魔術で払い除けながら、冷静に状況を判断した。しかし、鎖は次々と現れ、その数は増していく。リオネルの魔術も、鎖の圧倒的な数と瘴気の力によって、次第に押し負けそうになっていた。
「リュシアン!レリア!この術式を止める方法を探せ!私は、この鎖を食い止める!」
リオネルが叫んだ。レリアは、周囲の植物たちに助けを求めるように手を伸ばし、リュシアンは、灯台の地下から溢れ出す魔力の源を探ろうと、再び魔力感知を集中させた。彼の心には、エリックの最期の言葉と、聖務院への激しい怒りが渦巻いていた。
港町ティルナ。それは、聖務院が仕掛けた巧妙な罠であり、リオネルたちにとって、これまでの戦いをはるかに超える、絶望的な状況が待ち受けていた。しかし、レリアの胸には祖母のメッセージが、リュシアンの心には親友の無念が、そしてリオネルの瞳には、必ずやこの危機を乗り越えるという強い決意が宿っていた。