第二章:奇妙な平静と、リュシアンの疑念
学園は、まさに「絶望」の渦中にあった。廊下では、生徒たちが突然地面に座り込み、うなだれる。訓練場では、魔術師たちが魔力を暴走させ、周囲に無差別に魔術を放ち始める。食堂からは、悲痛な叫び声が響き渡っていた。
リオネルは冷静に状況を分析していた。
「符文から放たれる精神干渉の波長は、学園の魔力結界をすり抜けている。しかも、その波長は非常に広範囲に及ぶ。この規模の符文を、単独で設置し、維持できる魔術師はそう多くない」
レリアは、温室の植物たちが、符文の影響でゆっくりと活力を失っていくのを感じ取っていた。
「植物たちも苦しんでいます。このままでは、学園全体の生命力が、この符文に吸い尽くされてしまう……」
カサンドラ教授は、顔を覆う生徒たちの間を縫って、学園長の執務室へと急いでいた。
「学園長!この事態は、ただ事ではありません!この符文の紋様と、それに伴う精神干渉は、かつて文献でしか見たことのない、**『深淵の聖務院』**の禁忌の術式に酷似しています!」
学園長は、すでに状況を把握していたのか、沈痛な面持ちで頷いた。
「カサンドラ教授、やはり貴女もそれに気づかれましたか……。聖務院は、聖女の血筋と世界の秩序を影で操ってきた、忌まわしき組織。彼らが、今になってなぜ……」
学園長は、リオネルたちにも協力を仰ぐべく、通信魔術で呼び出しをかけた。
その頃、リュシアンは、魔力感知能力を最大限に使い、符文の魔力的な構成を解析しようと試みていた。彼の周りでは、友人たちが次々と絶望の淵に沈んでいく。
「フィーナ!グレン!しっかりしろ!」
リュシアンは、うずくまる友人たちに声をかける。フィーナは、涙を流しながら「もう、何もかも嫌だ」と呟き、グレンはただ虚ろな目で宙を見つめていた。しかし、彼の親友であるエリックだけが、奇妙なほど冷静な表情を保っていた。彼の目は確かに悲しみを湛えているものの、他の生徒たちのような混乱は見られない。むしろ、リオネルと同じような、状況を観察するような冷めた光を宿していた。
「エリック、大丈夫か!?何か、できることはないか!?」
リュシアンはエリックの肩を掴み、助けを求めた。エリックは、リュシアンの目を真っ直ぐに見つめると、静かに首を振った。
「リュシアン……。僕たちは、ただ受け入れるしかないのかもしれない。これは、この世界が、かつての聖女の輝きを取り戻すための……必然なのかも」
エリックの言葉は、どこか諦念を含んでいるようで、リュシアンには理解しがたかった。学園全体が混乱している中で、なぜエリックだけがこんなにも落ち着いているのか。その声は、他の生徒たちに比べて、符文の精神干渉をほとんど受けていないかのように、淀みがなかった。
その時、リオネルの魔力が、学園全体を覆うように展開された。彼の放った浄化の魔術は、符文から放たれる絶望の波長を一時的に抑え込み、生徒たちの混乱をわずかに沈静化させる。
「リュシアン!符文の核心を見つけろ!レリア、学園長室へ向かうぞ!」
リオネルの指示が飛ぶ。リュシアンは、エリックの言葉の違和感を胸に抱きながらも、魔力感知に集中した。彼の視界に、符文の魔力的な流れの「歪み」が見えてくる。それは、意図的に符文の威力を高めるための、補助的な魔力回路のようだった。リュシアンは、その回路の源を辿ろうと試みる。
その間も、エリックはリュシアンの隣に立ち、周囲の混乱を静かに見つめている。その表情は、依然として冷静で、どこか遠い目つきをしていた。リュシアンの魔力感知は、エリックの体内から微かな、しかし規則的な魔力の流れを捉えていた。それは、符文から放たれる精神干渉の波長とは異なる、しかし、何らかの形でその影響を「遮断」しているかのような、奇妙な安定した波動だった。
「エリック……お前、どうして……」
リュシアンの心に、深い疑念の種が蒔かれた。親友であるはずのエリックが、なぜこんな異常な状況で、まるで影響を受けていないかのように振る舞えるのか。そして、その体から感じる、符文の魔力とは異なる、しかしどこか関連性を感じさせる奇妙な波動は、一体何なのか。
その瞬間、レリアが学園長とカサンドラ教授を連れて駆けつけてきた。符文の異常な活性化に気づいたリオネルも、すぐに駆けつける。符文の魔力は再び強まり始めていた。
学園長がリオネルとレリア、そしてカサンドラ教授の元へ歩み寄ってきた。彼の顔には、疲労の色が濃かったが、信頼の光が宿っている。
「リオネル君、レリア君、そしてカサンドラ教授。君たちのおかげで、学園の危機は免れた。しかし、これは始まりに過ぎない。この符文の裏には、学園の歴史にも深く関わる、**『深淵の聖務院』**の影が見え隠れしている。彼らは、過去の聖女の力を利用し、世界を支配しようと目論む、忌まわしき組織だ」
学園長は、重々しい声で告げた。そして、リオネルとレリアをまっすぐに見つめた。
「君たちの力が、今こそ、真に世界を救う鍵となるだろう。私は、アカデミアを挙げて、君たちに協力しよう」
カサンドラ教授もまた、深く頷いた。彼女の表情には、これまでの懐疑心はなく、真実を追究する学徒としての決意が満ちていた。
学園に仕掛けられた符文の事件は、リオネルたちを、はるかに巨大で根深い闇へと誘う、最初の扉が開かれた瞬間だった。リュシアンの胸には、親友エリックへの拭い去れない疑念が、静かに渦巻いていた。