閑話休題:小さな疑問と、その答え
生命魔術研究所の一角、リュシアンは真剣な面持ちで試験管を覗き込んでいた。彼の眼前には、先日採取してきたばかりの珍しい苔が、培養液の中で微かに輝いている。リュシアンの持つ卓越した魔力感知能力は、この苔が持つ隠れた特性を少しずつ読み解き始めていた。しかし、彼の思考は、ふと別の小さな疑問へと逸れた。
「ねぇ、リオネル先輩」
リュシアンは、隣でデータ解析に集中しているリオネルに声をかけた。リオネルは顔を上げず、視線はクリスタルボードに固定されたままだ。
「何だ」
「先輩、ずっと気になってたんですけど……どうしてレリア先輩のこと、『貴様』って呼ぶんですか?」
その言葉に、リオネルの手がぴくりと止まった。温室に、一瞬の静寂が訪れる。レリアは、別の作業台で植物のスケッチをしていたが、その手が止まり、少し困ったような、しかし面白がるような表情で二人を見た。
「……それが、どうした」
リオネルは、わずかに声のトーンを下げた。普段の冷徹な声色とは違う、どこか居心地の悪そうな響きが混じっている。リュシアンは、そんな先輩の反応に気づかず、純粋な疑問をぶつける。
「だって、他の人たちはみんな『レリアさん』とか、『レリア先輩』って呼んでるじゃないですか。学園長先生だって、レリア先輩のことはいつも丁寧なのに……。リオネル先輩だけ、いつも**『貴様』**って。なんか、聖女様に対して、ちょっと失礼じゃないかなって……僕、心配になっちゃって」
リュシアンは、レリアが世界を救った**「生命の聖女」**であることを深く尊敬していた。だからこそ、最強の魔術師であるリオネルが、なぜそんな呼び方をするのか、ずっと不思議だったのだ。彼の顔には、心底から納得がいかないという表情が浮かんでいる。
レリアは、リュシアンの真剣な心配に「ふふっ」と小さく笑った。
「リュシアン、そんなに気にしなくても大丈夫よ。先輩は、私が入学した頃からずっとそうだから、もう慣れっこなの」
「でも、慣れるものなんですか?僕だったら、リオネル先輩に『貴様』って呼ばれたら、ちょっとショックかも……」
リュシアンの素直な言葉に、リオネルの耳が、微かに赤くなっているのをレリアは見逃さなかった。彼はため息をつき、ようやくクリスタルボードから視線を上げた。
「……うるさい。どう呼ぶかは俺の勝手だろう。それに、馴れ馴れしく名前を呼ぶのは、俺の性には合わないんだ」
リオネルはそうぶっきらぼうに言い放つと、再びクリスタルボードに視線を戻した。その横顔は、いつも以上に無表情を装っているように見えた。
リュシアンは首を傾げた。「性に合わない」という言葉の裏に、何か別の意味があるように感じたのだ。彼は、リオネルがレリアといる時だけ、どこか人間らしい反応を見せることに薄々気づいていた。
レリアは、そんなリオネルの様子を見て、くすりと笑った。そして、リュシアンの近くまでそっと歩み寄る。
「多分だけど、リュシアン」
レリアはリュシアンの耳元に、さらに声を潜めてそっと囁いた。
「先輩はね、ただ単に、私のことを名前で呼ぶのが、ちょっと恥ずかしいだけなのよ。だから、ああやって強がってるの」
レリアの言葉に、リュシアンは「ええっ!?そ、そうなんですか!?」と驚きの声を上げた。彼の視線がリオネルの背中に向けられると、リオネルの耳が、さらに真っ赤に染まっているのがはっきりと見えた。彼の肩が、ピクリと震えている。
「貴様!何を余計なことを言う!そんなわけがあるか!」
リオネルが振り向いてレリアを睨むが、その視線には、いつものような鋭さはなく、むしろどこか困惑と、ほんの少しの照れが混じっているように見えた。彼の口からは、普段の冷静さからは想像もつかない、焦ったような声が漏れる。
レリアは楽しそうに「あら、そうかしら?」と笑い、リュシアンは、最強の魔術師の意外な一面に、さらに驚きと興味を抱いた。温室には、彼らの笑い声と、リオネルの「貴様!」という抗議の声が響き渡った。
世界を救った大魔術師も、やはり一人の人間なのだと、リュシアンは改めて感じたのだった。そして、このちょっと変わった先輩たちの関係が、彼にはとても心地よく感じられた。