5 鬼ごっこ
がさり、と遠くで聞こえた音に素早く身を隠し、耳を澄ませる。木の陰からあちらをのぞくと、一頭の鹿がキョロキョロとあたりを見渡し、軽やかに走っていった。剣を下ろし、はぁ、とため息をついて立ち上がる。
ヴォーグを探し始めてから、今日で二週間。今のところ目立った成果はない。マーキングの跡や足跡など細かい痕跡は見つけているが、肝心のヴォーグには遭遇していない。
「そろそろあちらも私がうろうろしてることに気付いたと思うのだけど」
奴らは鼻が利くし賢い。これまでわざと探し回る痕跡を隠していないのだが、あちらから仕掛けられたことはない。今日も成果なしだ。
上をみると、暗い雲が空を覆っているのが葉の間から見えた。ぽつり、と小さな雫が手に落ちる。
「本降りになる前に帰ろう」
外套のフードをかぶり、元来た道を走る。正確には無理やり切り開いてきた獣道を。
両側、すぐ近くに茂みや木があり、身を隠して奇襲するには絶好の場所だ。周りに目を向けながら、注意深く走る。
しばらくすると、雨が少しずつ激しくなっていき、土砂降りになった。ばたばたと冷たい雨が身体を叩く。春のこの時期によく降る、短時間の激しい雨だ。
この雨の中では、耳がきかない。視界も悪くなる。
私ならーーー
次の瞬間右斜め後ろから飛びかかってきた魔物に、振り返りながら剣をかざす。
首筋を真っ直ぐ狙った牙に刀身を滑らせ、咄嗟に足を振り上げる。顎に直撃した蹴りに、ヴォーグは一度飛び退いた。唸り声をたてながら、再び飛びかかるタイミングをはかっている。
こちらも、長く息を吐いて剣を構え直した。
やっぱり、襲ってきた。どこからつけられていたのか分からないが、時期を見計らっていたのなら、この状況で襲ってこないはずはないと思った。
この雨。髪に滴る水滴が視界を遮り、雨の音が敵の動きをかき消し、服が濡れれば肌にぴったりと張り付いて動きにくくなる。
汗が滲む体に、外套の隙間から入り込んだ雨が伝っていく。
短く息を吐き、とっ、と軽く地を蹴った。
小さく軽い体を最大限活かし、敵の懐に飛び込む。下から首を狙った斬撃は、固い毛に阻まれて浅い。武器を一度魔力に戻し、斧を再生成する。その間にもう一度飛び退いたヴォーグを追うため、斧を振りかぶったとき。
比較的近くの空が光った。
次に響く、轟音。
雷だ。
それに気づくと同時に、体がふいにぐらりと揺れる。まるで急に後ろに引っ張られて体勢を崩すみたいに。
遅れて、左肩に食い込む牙に気づいた。
黄と青のオッドアイがすぐ近くにある。
ぎり、とその顎に込められる力が強くなるのが分かった。
はやく、はやく、はやく
手に持った斧では近すぎる。もっと小さなものでなくては。斧を雑に放り投げ、腰の後ろから短剣を引き抜いてその脳天に突き下ろす。
しかし、それが届く前にヴォーグはひらりと離れていた。私もとにかく地を蹴って距離を取る。
牙に引っかかって剥ぎ取られた外套が、バサリと水たまりの中に落ちた。
「っはぁ、はぁ」
遅れてやってきた痛みに、息が荒くなる。どくりどくりと大きく心臓が鳴る度に激痛が酷くなる。傷口の周りは嘘みたいに熱いのに、指先から温度が奪い取られているような感覚がした。
敵からは目を離さず、右手で傷口を探ると、ぬるりとした感触で包みこまれた。かなり出血しているらしい。指先は感覚がなく、力が入らない。右腕でなかったことを喜ぶべきか。
目の前には、ヴォーグが二頭。対してこちらは手負いで一人きり。加えて、敵のうちオッドアイの方は、かなり賢い。二頭一気に飛びかかってくるのではなく、片方を囮にして不意打ちしてきた。しかもあの雷に私が僅かに気を取られた瞬間に。
ぐっと奥歯を噛み締める。
無理だ。
勝てない。
満足に動けないのが大きすぎる。
今は、一旦逃げるしかない。ここで死んでも意味がない。
………でも。
でも、せっかく手がかりが見つかったのに?
もう二度とない機会かもしれないのに?
ふっと心の中に浮かんだ考え。もしかするとヴォーグたちは巣を移動してしまうかもしれない。そうなると、もうお手上げだ。何の手がかりもなしにこの広大な森から一つの巣を見つけるのは不可能に等しい。
少し迷って、でも首を振る。今ここで悪あがきをしても失敗に終わる可能性が高い。最善は、しっかり体勢を整えて再戦すること。
そのためには、何とかこいつらを振り切らなければ。
切り替えろ。
長く息を吐いて、痛みを逃がす。腰のポシェットに右手を伸ばす。口でピンを抜く高い音は雨の音にかき消された。
オッドアイのヴォーグがぴくりと耳を震わせ、体を弛める。
まだ。
3、2、1、
心の中のカウントに合わせ、とん、と後ろに飛ぶ。同時に飛びかかってきたオッドアイに、手に持つものを投げつけた。
それは、次の瞬間オッドアイの至近で爆発する。
ドォン、と轟音が上がった。
魔力手榴弾。
ピンを抜きながらながら魔力を込めると爆発する。正確に術式を刻んでさえいれば不発はなく、術式が消えない限り長期保存できる。
その効果のひとつ、爆発と同時に吐き出された大量の煙に紛れて走る。ここからは単に追いかけっこだ。
奴らは鼻がきくが、家の結界内に入ってしまえば関係ない。そこまで全力で走るだけだ。
奴らに追いつかれないように、というのが難題だが。
あわよくばさっきの爆発で仕留められていればいいが、至近距離で爆発させるため、威力が低いものを選んでいた。よくて軽傷、悪くて無傷。
人間と獣の追いかけっこでは完全に分が悪い。
「はぁ、はぁ、っ」
さらに、この冷たい雨の中でどんどん体力が削られてきている。雨に濡れた傷口も血が止まる気配がない。
体の中で魔力を回す。私に治癒魔法の才能はないが、やらないよりましだ。同時に、身体強化の魔法が少し強化される。
追いつかない呼吸に無理を言って、ぐんとスピードを上げる。
あともう少し。
しかし、後ろから迫ってきた気配に、咄嗟に無理やり斜め右に方向転換する。振り返れば、ついさっき私がいたところに土の壁がそり立っていた。
地属性はつくづく厄介だ。相手の魔法が届く範囲に来た瞬間、片時も油断できなくなる。常に地面に気を配らなければならない。
地面に手をついて崩しかけた体勢を立て直し、速度を上げる。
もう一度手榴弾を後ろへ放り投げた。今度は二つ。さっきのより威力が強いものと、閃光を放つもの。周りの木々が一瞬強い光で照らされ、爆風に背が押される。運良く直撃したらしく、オッドアイはすぐには追ってこない。
振り向いた瞬間、隣の茂みの中を並走していたらしいもう一頭が飛びかかってきた。咄嗟に頭を下げ、爪をかわす。
すり抜けざまに短剣で鼻面を引っ掻いて、敵が怯んだ隙に、もう目の前に来ていた結界を抜けた。
へたり込みそうになるのを抑え、玄関の前まで走る。そこにある魔石のひとつに触れ、ありったけ魔力を注いだ。
振り返ると、ヴォーグたちは結界の前で足を止めている。
強度と反撃性能を最大まで上げた結界を抜けてくることはないだろう。
あとは、怪我の手当てをしなければならない。
「っく、はぁっ、はぁ」
どくどくと拍動に合わせて頭痛がする。血足の先は冷え切って感覚がない。視界が立ち眩みのように狭まり、歩くのもおぼつかない感じがした。
目の前の扉を何とか開いて家に入る。そのまま、扉を背にずるずると座り込んだ。
左肩を押さえて荒く息をついていると、ガチャリと正面のドアが開いた。
「……!? フィリーネ、それ………」
血だらけの私に驚愕を浮かべ、駆け寄ってくるレノに顔を上げる。
くらくらして意識を失ってしまいそうだ。怪我もじくじくと痛いし、嫌な悪寒がする。
それでもへらりと笑みが浮かんだ。
「それ、やっと呼ぶ気になったのね」
「……!」
今まであんたとしか呼びかけてこなかったのに。
ふざけていると思われたのか、レノが声を荒げる。
「っそれよりも!」
「ごめんなさい。えっと……薬箱を取ってきてくれる?私の部屋の大きな戸棚の上から三番目の引き出し」
頼むと、レノは走って取りに行ってくれた。その間に、ポシェットに入れていた包帯で傷口の近くをきつく縛り、止血する。びしょ濡れの長袖は脱いだ。
「はい、これ!」
「ありがとう。ちょっとついてきてもらえる?」
震える脚で、扉に背中を押しつけて何とか立ち上がる。レノが慌てて手を貸してくれて、ふらふらと風呂場に向かう。噛み傷はしっかりと傷口を洗い流しておかないと危ない。
その後、傷を洗浄して、ガーゼで圧迫止血をして、薬を塗って包帯を巻くまでに一時間以上かかり、疲れ果てた私は、気を失うようにベッドに倒れ込んだ。
◆◆◆
夢を、見ていた。
お母さまが生きていた頃の夢だ。
庭の陽だまりの中で、お母さまが歌っている。私は側の芝生の中に寝転んでいて、お母さまが花冠を編んでいるところをじっと見ている。
お母さまの歌声は、とても綺麗だ。ぴんと澄んだ声の中にも深みがあって、その声が紡ぐ柔らかい子守唄が、私は大好きだった。だから、頑張っていてもいつもすぐに寝てしまう。
でも、少しウトウトした頃に出来上がった花冠を載せられて、すぐに目が覚めた。はしゃぐ私に、お母様は優しく微笑みかけてくれる。
大好きだと、何よりも雄弁に私への親愛が滲む目だ。
視界が、反転する。
今度は村の中だ。初めてお母様に連れられてやってきた私は興味津々で、周りをキョロキョロと見回している。
でも、周りの大人から向けられる視線は、お母様のものと何か違った。
戸惑いながらも、私はそれが敵意だとは気づかなかった。あからさまなものではなかったし、その頃の私は、お母さましか知らなかったから。
でも、子供には、大人のようなしがらみが無い。
ただ敏感に大人の感情を感じ取り、ストレートに敵意を表現する。その相手が同じ子供であれば特に顕著に。
「この村から出ていけ!魔力持ちの化け物は山にこもっていろ!」
ばけもの。
唐突に、集まった子どもたちから投げつけられた言葉。
この村では私は敵なのだということに、頭がしびれたように動かない。
体の中の魔力が、ゆっくりと動き始める。
「フィリーネ」
お母さまが私を呼び、私の手を引いたが、私は彼らから目を離せない。
今も子どもたちは乏しい語彙で懸命に悪罵を叫んでいる。
どの子も、自分が正しいと信じて疑っていない。生活に入り込んできた異物を排除する、それが彼らにとっての正義なのだろう。その狭い視野の中に、私の感情というものは入っていなかった。
「化け物」「ばけもの」「出ていけ」
ああ、そうか。
この子たちの行動原理は魔物と大して変わらない。
これが人間か。
それでも、私は彼らを守らなければならない。
勢いよく、魔力が決壊する。
「フィリーネ!!」
お母さまが急いで鞄の中を探っている。
その間にも、視界が歪み、手足の先から冷たく感覚がなくなっていく。
こらえきれずに膝をついた。
お母さまが急いで魔石を握らせてくれたが、抑えきれない。
ばけもの、ばけもの、ばけもの
次第に世界がぼやけていく。
夢が終わる。
◆◆◆
ゆっくりと意識が浮上していく。
目を開けると、薄暗い天井が見えた。
それを認識すると同時に、ひどく怠い感覚に襲われる。おそらく怪我のせいで熱が出ているのだ。全身がじっとりと汗ばんでいて、左肩もずきずきと痛い。
右腕で目元を覆って、深く息を吐き出した。
まだあの声が耳に残っている。
やはり、体調が悪い時に見る夢など碌なものではない。
はぁ、ともう一度息をついたとき、扉が開く音がした。
「フィリーネ?」
「………おはよう、レノ」
水差しとコップを持って入って来たレノに、ゆっくりと顔を向ける。笑顔を作る気力はない。そのまま寝ころびながら話しかける。
「私、何時間寝てた?」
「………五時間、いや六時間くらいだ」
ならもう夜だ。我ながらかなり消耗していたのだろう。
上体を起こし、レノが手渡してくれたコップを傾ける。冷たい水が喉を滑り落ちていき、少し気分がましになった。ぽすんと再び枕に頭を落とす。
「何か他に要るものはあるか?」
「ううん、いいや。今はとにかく寝る。そしたら、数日もすれば動けるようになるから……………」
レノが息をのむ音がした。反対側に寝返りをうとうとしたのを引き留められる。
「…………もういい」
「………? なんのこと?」
ぼんやりと回らない頭で聞き返す。レノはなぜか辛そうな顔で続けた。
「もう、妹のこと探さなくてもいい。俺は、フィリーネにここまでしてほしかったわけじゃなくて、ただ………」
「ただ?」
「…………フィリーネを、これ以上巻き込みたくない」
明らかに続きではないその言葉に、目を細める。これも、レノの本心なのだろう。
けれど。
「取り戻したいんでしょう? あなたの妹が生きた証を。その思いは、変わってはいない?」
「………それ、は」
その表情は、何よりも雄弁な答えだ。
泣きそうなのをこらえるようなレノの手をぎゅっと握る。
「なら、がんばらなくちゃ。だって、やっと尻尾を掴んだんだもの」
「…………え?ちょっと待て、それは………」
それに、お母さまとも約束したのだ。
守り人にふさわしい行いをすると。
「だから、ね。明日また、お話しましょう………」
うとうとと、眠気が襲ってくる。それに抗えず、私はまた眠りに落ちた。




