3 取引
翌朝。空が白み始めた頃に目を覚まし、身支度を始める。部屋の暖炉に火を入れた後、洗面所に行って顔を洗えば、眠気は冷たい水に押し流されて、すっと頭の中の靄も消えた。いくらか温まった部屋に戻り、クローゼットの中からシンプルなシャツとスカート、カーディガンを選ぶ。寝衣を脱げば、小さな身体が朝の冷気にさらされた。急いで服を着て、鏡の前の椅子に座り、櫛で背中まで長くのばした髪を丁寧にすく。邪魔にならない程度に紐でゆるく縛り、前髪を整える。毎日くりかえす、日常。
窓を見ると、朝日が昇って爽やかな光が差し込んでいた。
小さく息を吸って立ち上がり、隣の部屋につながる扉を開ける。かちゃり、と小さな音が部屋の中に響いた。何も反応が無いのを確かめ、念のためベッドに近づいてみる。レノは昨日と同じように穏やかに眠っていた。
なら、先に———
「ん………」
「!」
踵を返そうとしたとき、突然レノの声が聞こえてピシリと固まる。ゆっくりと振り返れば、レノのまつ毛が震え、おもむろにその目を開けた。
昨日、薄暗い中ではよく見えなかったレノの瞳の色が、くすんだ薄い黄緑が光に透ける。薄く光ったようにも見えるその色に見とれ、思わず見つめていると、レノはもう一度瞬きを繰り返してこちらに焦点を結んだ。
「あ…………」
「お、おはよう……。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「ん、いや、まあ……」
起き上がってのびをするレノの様子を見る。怪我のせいで熱でも出ているかと思ったのだが。
「腕の傷はどう? 身体が火照ってたりしない?」
「多分大丈夫」
額に手を当ててみるが、熱は無さそうだ。その腕の包帯に目を留める。
「薬箱取ってくるから、ちょっと待ってて」
小走りでもといた部屋に戻り、丸テーブルに置かれた大きな直方体の箱を寝室に運ぶ。ベッドのサイドテーブルに置いて蓋を開けば、中には錠剤やさらし、軟膏がぎっちり詰まっていた。ベッドに乗り上げて、彼の隣に座る。
消毒液を手に取ってまず手を拭き、レノの包帯を解く。彼の前腕には赤い筋が2本、長く走っていた。傷は浅いもののガーゼには血が滲んでいたが、傷口の方は止血出来ているようだ。レノに声をかけて、傷口の周りを濡れたガーゼで拭う。軟膏を塗って新しいガーゼを傷口に当て、固定するように包帯を巻いていく。無心でころころと巻いていると、それまでされるがままだったレノが声をかけてきた。
「あの、あんたの名前は……?」
「フィリーネ・オルコットよ」
きゅっと包帯の端を結び、余りを切る。
「何て呼べばいい? オルコット様?」
余りの包帯をくるくると巻き直して、箱に戻しながら答える。
「普通にフィリーネでいいわよ」
「…………フィリーネ様?」
「あのね」
今まで散々、あんたあんたと言ってきただろうに何を言っている。
箱の蓋をぱたんと閉じて顔を上げ、ややじと目で言った。
「呼び捨てでいいわ」
そのくせ、そう言えばひどく頼りなさそうな顔をする。よくわからない。
なんだかさっきからやけに下手に出てくる。
「……………?」
はっきりと困惑を顔に映す私に、レノも戸惑うように眉間にしわを刻む。
「だって、あんた貴族だろ」
あ、また言った。
なんだか言い分に全く説得力がない。本当に敬う気はあるのだろうか。
ますますじと目になる私に、レノははっとして口を押える。
「呼び捨てでいいわ。立てる?」
重ねて言いながら立ち上がり、ベッドから降りようとするレノに手を貸す。ぼそりと、その耳元で告げた。
「堅苦しいのはきらいなの。いい?」
ダメ押しに、上目遣いをしてみる。並んで立つと頭半個分ほど身長が高いレノは、やはりためらいがちに頷いた。
でも、言質は言質だ。
薬箱をもとのテーブルに戻し、部屋を出る。まだ少し暗い廊下の端の窓からは、透き通った朝の光が長く差し込んでいた。スイッチを押して照明を付けてから、廊下を進む。レノは一連の動作を注意深く見ながら、背筋をぴんと伸ばしてついてきた。
突き当たりの階段を降り、階段から3つ目の扉を開け、レノを招き入れる。テーブルと2つの椅子があるダイニング、その奥にはカウンターで仕切られたキッチンがある。カウンターの上に置かれた鍋の中を覗き込むと、中には、昨日作ったスープの残り。一人分と少しといったところか。足りない分かさ増しすることにして、レノに声を掛ける。
「ちょっと時間かかるから、そこらに座ってて」
ひとつの椅子にかけられたエプロンを回収しながら、他の椅子を指す。腕を通し、後ろ手に紐をリボン結びにして、キッチンの一番奥に置かれている貯蔵庫を開ける。大人の胸くらいまでの高さがあるそれの一番上の段から、背伸びをしてバターの箱を取り出す。空いている手で壁にかかっている鍋をひとつ取り、かまどに持っていく。火にかけて温めながら、ナイフでひとかけ削り取ったバターを鍋の中に落とした。しゅわぁ、と音を立てながらバターが溶け、いい香りが立つ。こげないように弱火で全て溶かしたら、今度は小麦粉をスプーン一杯分。粉っぽくないようになるまで混ぜ、昨日もらった牛乳と残りのスープを加えた。一煮立ちさせてとろみをつければ、完成。
残り物スープで簡単クリームシチュー。
一口味見をしてみて、顔をほころばせていると、レノが後ろから覗き込んできた。鍋の中を見て、ごくりと喉を鳴らす。きらきらとした視線に少し苦笑した。
「もうすぐできるから、もうちょっとだけ待っていて」
「………俺に手伝えることはないか?」
その言葉に、少し考えこむ。腕の傷が痛まないならば手伝ってもらいたいが、昨日の今日だ。
「傷は大丈夫?」
「大丈夫だ」
「なら、シチューをよそってもらおうかしら」
食器棚から深めの皿を二つ取り出して、調理台の上にかちゃりと置く。彼が頷くのをみて、私はまな板と包丁を取り出した。昨日村のパン屋で買ったバゲットを、いつもより多めに切る。かすかに香ばしい匂いが漂う。邪険にされてもあの店に買いに行くのは、このパンの味が気に入っているからだ。これも大皿に盛って、食卓に運ぶ。レノの方も終わったようで、二人分のカップとポットを持って聞く。
「飲み物は紅茶かハーブティーかどっちがいい?コーヒーもあるけど」
「……………どれでもいい」
「じゃあハーブティーにするわね」
なぜなら私が好きだから。薄い琥珀色の飲み物を静かにカップに注ぐと、ほんのり甘い香りがした。二つのカップを机の上に並べ、席に着く。レノも私の向かいに座った。
胸の前で両手を組む。
「この世界を創り給うた神と、私たちの糧となる生命に感謝して。いただきます」
「………いただきます」
やや戸惑うように復唱するレノに、あれ、と首をかしげる。私は普通だと思っていたが、違ったのだろうか。常識が分からない。人と関わらなさ過ぎた弊害だ。
だが、疑問を口にする前に、レノはパンに手を伸ばしていた。ものすごい速さでシチューとパンが消えていく。それに苦笑して、私もスプーンに手を伸ばした。高価な食材が使われているわけでもない、質素なシチューとパンだが、少しでも彼の助けになればいい。
彼を見ていて気が付いたが、食べるのは速いわりに、食べ方はきれいだ。ところどころに教育を受けた形跡がある。平民の中でも上流階級の出だろうか。さすがに貴族ではないだろうし。
「さて、じゃあ昨日の話の続きをしましょうか」
皿が空になり、彼が落ち着いたころを見計らって声をかけた。一度ハーブティーを口に運んでから、しっかりと目を合わせる。
「じゃあまず、なぜあの時森に入ったの?」
一番聞きたかったことだ。彼はその森で妹を亡くしている。それほど危険だとわかっていてなお森に入った意味を昨夜から考えていたが、分からない。
しかし、彼はその答えを即座に口にした。
「妹の遺体や遺品を取り返したかったからだ」
「……………正気?」
思わず思考が漏れてしまったことは許してほしい。しかしどう考えても無謀だ。無謀すぎる。
げんに襲われて一瞬でやられていたし、私がいなければあれは確実に死んでいた。
さらに、無手だ。武器もなしに魔物に勝てるわけがない。
家族の遺品を諦められない気持ちを否定することはないが、手段が問題だ。
「もう少し人に頼るなり武器を使うなりすればよかったのに」
ここの村人は、元々任せられていた役割もあって、時折魔物討伐をしている者もいる。
「村人は頼りにならない。守り人にも近づく気にはなれなかった」
「あー……………ごめんなさい、失言だったわ」
お金を持たない孤児に武器を買えというのは確かに無理だ。
村人の反応も、村に行った時の扱いで察するべきだった。あの調子で取り付く島もなかったのだろう。ついでに、彼が守り人を知っていたことと、どうやって知ったのか、なぜ頼らなかったのかの答えが同時に分かった。村人は私のことに関しては、禄でもないことしか言わないだろう。どんな陰口が叩かれていたかは知らないが、レノが私に好印象を持たないことだけは分かる。
「というかもしかして、私を見て逃げたのって……………」
「………守り人に関しては、良い噂を聞かなかったから……………」
それで逃げて魔物に襲われたことに後ろめたさを感じているのか、レノはぼそぼそと答える。
まあそこに彼の非はないし、私も気にしていない。襲撃の巻き添えを食らったのには少し文句を言いたいが、罵詈雑言を投げつけられることもあるのだ。まだマシな対応だと言える。
そこまで考えて、基準が狂ってきているのではとも思ったが、深く考えるのは止めた。心が広くなってきたということにしておこう。
「で、そうそう、本題に戻しましょう。今後危ないことはしないで、って言ったらあなたは聞く?」
「………」
無言のまま、レノは小さく首を横に振る。
分かっていたことだが、面倒だ。思わずため息をつく。
「…………妹は、母さんの遺品も持っていたから」
「つまり、諦める気はないのね?」
わがままを言っている自覚はあるのか、気まずそうにレノは頷く。
またひとつ、今度は大きなため息をついて、口を開く。
「条件があるわ」
「?」
「それをのんでくれるのなら、手伝ってあげる」
彼が大きく目を見開く。
魔物から人を守ることが、『守り人』の役目だ。いずれ死ぬと分かっていてこの子をこのまま放り出すことは出来ない。
「条件一つ目。私が捜索に出ている間、家事をしてほしい」
「待ってくれ。俺も——」
「捜索への同行は却下」
レノが言い終わる前にさえぎる。これは決定事項だ。
「私一人の方が身軽に動けるし、魔物に遭遇した時戦いやすいから」
要はあなたは足手まといにしかならない。暗にそう告げると、彼は唇をかんだ。こればかりは仕方がない。
それに、私の力不足もある。
もし私がもっと強かったなら、レノの願いを聞くこともできただろう。でも、今の私ではレノを連れて行ったとき、死なせてしまう可能性がある。それではだめだ。
できるならもうこれ以上誰も死なせたくない。
「私は、私にできることをする。だから、あなたにも、あなたにできることをしてほしいの」
身の丈以上に手を伸ばして、命の危険を負うことはない。特にレノはまだ子供だ。もっと周りに頼っていい。
「……………分かった」
しぶしぶ頷いたレノに、よくできましたと微笑みかけると、なんとも言えない視線を突き返された。見なかったことにして先を続ける。
「それで、仕事の内容だけど、掃除や洗濯、あとは料理あたりかしら。怪我が痛まない程度でいいから、私の手が回らない分を手伝ってほしいわ」
「今ここには何人住んでいるんだ?」
「私一人よ」
怪訝そうな顔のレノにさっくり返すと、ますます彼は眉根を寄せた。
「あんたは俺より年下だろ。ずっとここに一人なのか?」
「ええ、一年半前からね。というか、レノは何歳なの?」
なんだか気まずくなってきたので、話題をそらす。
「11歳だけど」
「なら私の一つ上ね。ああ、それから、やらないとは思うけど、この家のものを壊したり盗んだりしてはだめよ」
急いで首を横に振る彼に、まあ安心かと頷いた。
「さっきのが条件二つ目ね。で、三つ目だけど、狩った魔物の魔石は私がもらうこと」
レノはこくりと頷く。
魔物や魔法を使える人間は、体の内側に「魔石」と呼ばれるものを持っている。あまりそのもの自体の研究は進んでいないが、おそらく魔法を使うときの触媒だろうとされている。この魔石は、魔力を含有していたり、魔法を使うときの補助に使えたりして、高く売れる。加工すれば、活用方法が多彩なのだ。この屋敷でも、様々なところで使われている。
と、それくらい価値がある魔石だが、当然魔物と闘って、殺して手に入れるものだ。今回それをするのは私だから、当然魔石は私のものとなる。条件に出したのは一応だ。
これでだいたい決めたいことは決められた。
立ち上がって、レノの前に手を差し出す。
「じゃあ、改めてよろしくね、レノ」
「こちらこそ、よろしく」
同じく立ち上がったレノの手をぎゅっと握る。私よりは少し大きくて、小さな傷が多くて、でも子供らしく柔らかい手だ。
私と同じ、寄る辺のない、小さな子供。
守りたい。守らなくてはならない。
この子と一緒にいて、久しぶりにうまく笑えた気がしたから。