1 急襲
「いってきます」
空っぽの家に呟いたその言葉は、誰にも受け取ってもらえずに、ぽとんと床に落ちた。それには頓着せずに玄関のドアを開ける。
空を見上げると、暗い紺色が橙に押しやられ、今度は明るい青が橙を塗りつぶそうとしていた。
朝の冷気に一度ふるりと身を震わせ、外套の首元を締める。後ろ手にお守りの短剣があることを確認してから、さくさくと足音を鳴らして緩やかな斜面を降り始める。そのうちに少しずつ木々の間に光が満ち始め、芽吹き始めた若葉の緑がより鮮明になる。
やがて斜面は終わり、道を塞ぐ柵を越えた先の、平坦な道の周りにはささやかな畑が見られるようになる。穂が出始めた麦が、風でさざなみのような音を立てた。ふわりとなびいた髪を隠すように、外套のフードを深くかぶる。
小さな川にかかった古びた橋を渡ると、村の家々が見えてくる。周りを森と畑に囲まれた、こぢんまりした村だ。そばに高い山脈と国境があること以外、特筆すべきものはない。素朴なレンガ造りの家が立ち並んでいる。
この村で一番大きい通りには、小さな商店が並んでいた。と言っても、ほとんどが農業の片手間に開かれている小さなもので、さほど数はない。その中で、香ばしい香りを漂わせている店に入る。扉についていたベルがからんからんと鳴ったが、店番をしている小太りの中年女性は遠巻きにこちらを見ているだけだった。
店頭に並べられているのは、様々な種類のパンだ。くるみが入っているもの、ソーセージが挟んであるもの、果物とクリームがのせられたもの。焼き上げられ、並べられたばかりであろうそれらは、欠けた数で人気を反映することもなく、整然と並んでいる。
値札には、クセのある字で数字のみが示されていた。
その中から、日持ちしやすく素朴なものを指差す。
「これを2本」
………そういえば、これどんな商品名なんだろう。農民には字の読み書きができる人は少ないから、普通お客さんはお店の人から聞くんじゃないかな。多分。
「……大銅貨1枚と小銅貨2枚だよ」
店番をしていた女性が提示したその価格は、値札に書いてあるものよりも少し高い。言われたとおりに渡すと、ふんと鼻を鳴らして包装紙に包んだパンを渡してくれた。
手提げにパンを入れて、すぐに店を出る。小さくため息をつき、フードを深くかぶり直した。
少し通りを進み、右の細い路地に入る。小さな村なので、少し歩くとすぐに建物の群れが途切れ、開けた草原に出る。放牧された牛たちがぽつぽつと見える中、他の建物より少し大きめの牛舎に向かう。
牛舎は木造で、古びた梁に支えられた入口から中に入ると、とたんに獣臭さと少し残った熱に包まれた。薄暗い中、奥で牛の寝床の掃除をしていた老人が、こちらに気づいて歩いてくる。質素な服を着ていて、目深に被った帽子と長くて白いひげが特徴的な老人だ。私は革袋と銅貨を五枚差し出した。
「いつものを」
「………あいよ」
短く答えて銅貨を数えた老人は、革袋を持って外へ出ていく。それについて行き、今朝搾乳した分のまだ温かい牛乳を少し革袋に分けてもらう。
「ありがとうございます」
「………」
受け取りながらお礼を言ったが、老人は一瞥しただけで、すぐに仕事に戻っていった。それを見送り、背を向けて歩き出す。
草原を突っ切って、放牧地の端にある柵までのんびりと足を進める。牛たちは少し暖かくなり始めた日差しの中で、ゆっくりと草を食んでいた。
私の身長をゆうに超える高い柵の目の前まで来ると、あちら側の深い森の中が見えるようになる。明るく日が差し、心地よい風が吹く草原とは反対に、たくさんの木が立ち並ぶ樹海の地面には木の葉の影が深く落ちていた。柵に沿って進みながら、左手を柵に触れて、結界にほころびがないか、柵が壊れていないかを確認していく。この柵は、牛が放牧地から出ないように、ということもあるが、それよりも森に住む魔物から村を守るためのものだ。森に二重に設置してある柵のひとつ目。
風が、吹いた。スカートの裾がふわりと膨らむ。ふと、視線を前に投げると、20メートルほど先、一つの人影が見えた。おそらく、大人より頭一つ分ほど小さい背丈の子供。手足は痩せていて細く、着ている服もボロボロだ。
柵の前に立って、じっと森の中を睨んでいる。村人は普段あまりこんなところに寄り付かないのに。不可解な光景に、思わず立ち止まって首を傾げた。あの子は、ここで何をしているのだろう。
じっと見つめていると、人影は思わぬことをした。
自分の背丈ほどもある柵に手をかけ、一気に乗り越えたのだ。
「………え」
唖然として間抜けな声を漏らすしかない私を置きざりにして、人影はスタスタと森に足を踏み入れていく。
頭の中でクエスチョンマークが舞う。
え? 何で? 森で何するの? 丸腰だよね? 子供だし、魔物狩りじゃないよね?
その場に固まること、5秒。私はようやっと我に返った。魔物に食われる前に、あの子を連れ戻さなければならない。手提げの紐を肩にかけ直して、子供がいたところへ走る。私が呆けていた分だけ進んでいた人影の背中には、木の葉の暗い影がかかっていた。柵に手をかけて、叫ぶ。
「止まって!魔物に食われたくないならーーーあ!」
ビクリと身体を大きく震わせ、勢いよく振り返ったのは、10歳ほどの少年。こちらに焦点を合わせてすぐに、顔を強張らせて走り出した。私から逃げるように、森の中へ。
人の顔見て脱兎のごとく逃げないでほしい。流石に傷つく。
ってかこれほんとにまずい。二つ目の柵を越えたらもう魔物の生息地だ。
ひ弱な人間なんか簡単に殺される。
だから、話聞けよ!止まれって!
て、また脱線してた。
ともかく、これも仕事だ。力づくでもいい。彼を止めないと。
荷物を投げ捨て、柵に手をかけて一息に飛び越える。大分遠くに行ってしまった背中に向けて地面を蹴る。しかし、捉えた姿はすぐに私の視界から消えた。少年は素早い身のこなしで木々の間を縫うように駆けていく。離されまいと、木々の間からときどき覗く彼の姿を追い続けた。密集した木々の中で追いかけっこをするのは案外神経がすり減る。
もう、大分奥まで入ってきてしまった。おそらくもうすぐ二つ目の柵がある。それまでに彼を止めないと。
ぐん、とスピードを上げる。
その時だ。するりと、木々の一本の影に入った少年の姿が見えなくなった。
「…………?」
そのあたりに行っても、見つからない。胸の中にじわりと湧き上がったのは、おそらく嫌な予感と言える類のもの。注意深く周りを見回し、念のためもう少し先に進んでみたが、これまで少し見えなくなってもすぐに見つけられていたはずの少年の姿はなかった。
ざっと、血の気が引く。
まずい。
こんな森の奥で見失ってしまった。
魔物がどうとかもあるが、ここで遭難したら、村まで戻れるのかどうかも怪しい。
後ろを振り向いても、明るい牧場は少しも見えず、木の葉の隙間から差す光だけが浮き上がる暗い森が、ずっと先まで広がっていた。
じっとりと汗をかく両手を握りしめて、息を殺す。
大丈夫、まだ大丈夫。
焦るな、取り乱すな、落ち着いて、冷静に。
心の中で繰り返して、心臓の音を静める。
どんな微かな音も聞き逃すまいと耳を澄ます。
さわさわ、ざわざわ、という葉擦れの音。
ピーチュチュチュ、と鳴く鳥の声。
木々の間を吹き抜ける、そよ風の音。
そして、偶然か、全ての音がやんだ瞬間。沈黙が聞こえるような静寂の中で、耳が掴んだ微かな足音。
ーー後ろ!
ばっと勢いよく振り返る。
見れば、しゃがんでいるところから立ち上がりかけているような格好の少年と目が合った。
彼我の距離、およそ15メートル。
今度こそ、間髪入れずに地面を蹴る。
同時に彼も走り出した。
どくん、と心臓が跳ねる。
だめ。
その方向は、だめだ。
必死で少年の後を追う。
立ち並ぶ木々を避け、みっしり苔の生えた岩を飛び越え、倒れかかった木の下をくぐる。
そして、その向こうに現れた、子供の腰ほどの高さの真っ黒な柵を、彼は飛び越えた。
「だめ」
思考がぽろりと口から漏れる。やけに平坦な声で。
鼓動が、どくどくと存在を主張し始める。
あまり走ってもいないのに息が乱れる。
体中に魔力がめぐる。めぐらせる。
早く、早く。もっと早く。
力を足に溜めて、溜めて、一気に地を蹴る。
あり余った勢いのまま柵を飛び越え、後ろ手に短剣を引き抜く。
脇目も振らずに走っていく彼の背中からは、目を外さない。
こうなればもう、穏便にとか言っていられない。気絶させるなり何なりしてでも止めなければ。
一際強く地面を蹴ろうとした時だった。
彼がふと、右手側の茂みに目を向けた。
顔を強張らせるのが分かる。
つられてそちらに目を向け、背筋が凍りついた。すべてがスローモーションのように遅く感じるのに、なぜか自分の心臓の鼓動が速くなったことは分かる。
そいつは木の陰に潜んでいた。低く伏せた身体には影がかかっていて、その中で金色の目だけが爛々と輝いている。
守らなきゃ。こちらに気を引かなきゃ。
頭で分かっていても、身体はすぐには動いてくれない。
声を上げる前に、魔物がそのバネのようにたわませた身体で地面を蹴って陰から飛び出し、一息に彼に迫る。
日の下で見たその魔物は、灰色の毛並みをしていた。体長は170センチほどだろうか。狼のような体躯で、前足は太く、大きく開かれた口の中には、鋭く、黄ばんだ歯が見えた。
ヴォーグだ。でも。
どうして、こんなところに。
空回りする思考をよそに、状況は目まぐるしく移り変わる。
少年が、反射的に腕で顔を庇って、身をよじる。魔物の牙が、彼の右腕の肉を浅くえぐる。何とかまともな接触は回避し、すれ違った状態で少年は尻餅をつく。魔物も今はこちらに背を向けている。
今!!
少年と魔物の間に割って入ろうと地面を蹴る。
間に合えっ……!
少年を追い越そうとする直前。
ぼごり、と音を立てて地面が盛り上がり、少年に直撃する。
軽い彼の身体は簡単に吹っ飛ばされ、私の横をすり抜けようとする。何とか手を伸ばして受け止めたが、自分よりいくらか大きい身体を受け止めきれずに、うっ、と声を漏らして後ろに倒れてしまう。衝撃で気絶したらしく、のしかかってくる彼の身体はぐったりして力が入っていない。
早く立たなければ。動かなければ。だって―――――ひとつ瞬きして目を開ければ、もう魔物の牙が眼前に迫っている。
重しになっている少年の体を乱暴に投げ出し、自分もその上に覆いかぶさるように素早く転がり、できるだけ顔を背ける。直後、先ほどまで自分の頭があったところに魔物の牙が突き立つ。
どっと冷や汗が出るのが分かったが、それどころではない。少年の手から短剣を引き抜きながら立ち上がり、彼を足下に庇う。自分の左前腕に意識を集中させて魔法を発動させる。
早く………っ!
再び飛びかかってきた魔物に、一歩後ろに後ずさりながら左手を前に掲げる。ギリギリで、魔法で生成した篭手に食いついた魔物は、その勢いのまま押し倒そうとしてくる。ゆっくりと展開する視界の中、ぬらぬらと表面が輝く両目は、至近でこちらを睨みつけている。右手で握った短剣を、その金色の目に突き立てる。ずぷり、と刃が埋まる感覚のあとに短剣をひねって抜けば、ぎりぎりと腕を締め付けていた魔物の顎から力が抜けた。
飛びかかられた勢いのままに、押しつぶされるように後ろへ倒れ込む。じわじわと外套に魔物の血が滲む感覚が最悪だ。その顎から左手を外してから抜け出す。
深く、長く息を吐いた。汗で背中に張り付いた服が気持ち悪い。
脈拍を落ち着かせてから、周りを見渡す。
事切れた魔物、気を失った少年、右肩の部分がの血みどろの外套。
ちょっと、いや大分、かなり、面倒くさいことになった。