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レオン・ワーグナー 前編

レノ過去編です。王国に逃れてくるまでのお話。

努力は、積み上げればいつか実ると思っていた。

自分の歩むはずだった道が根底からひっくり返されたときに初めて、自分のしてきた努力がいかに役に立たないかを知った。


◆◆◆


セオ歴592年。俺は八歳だった。


きらびやかな衣装。

惜しげもなく金を注ぎ込まれた宮殿。

外面よく取り繕われた仮面。

飛び交う噂話。


社交界と呼ばれるその場所が、俺の居場所だった。





休憩を取りたくて、あちこちから声をかけられるのを躱し、人混みから抜け出す。常に綱渡りのようで、揚げ足を取られないように気を張らなければならない貴族の会話には神経がすり減る。仮面を被らなくていい相手を求めて、会場を見回した。


父と母はこの夜会の中でトップ5に入る人混みの中心にいる。あそこに入っていきたくはない。却下。

ディーン兄上は、それよりさらに大きい人の輪を作っている。もはや兄上の姿が見えない。却下。

妹は………女性ばかりのグループの中で、噂話に花を咲かせている。却下。


他の知り合いも、生憎今は話し相手がいるようだ。結局諦めて一人こっそりとバルコニーに出た。

真っ暗な夜の中を吹き抜ける風は涼しい。笑顔を張り付け続けて固まっていた表情筋が少し緩む。


相手の顔色を窺い、常に人からどう見られるかを考え、身分にふさわしい振る舞いをする。それが当然とされる世界。これだから夜会は嫌いだ。

まぶしいシャンデリアの下にずっといた目が、少し暗闇に慣れてきた。上を見上げると、雲は無く星空が広がっていて、明るい月は綺麗な真円を描いている。

コツ、と背後で靴音が聞こえた。


「疲れたか?」


「………いえ、少し休憩を」


響いた声は、低く穏やかなものだった。子供の頃からよく遊んでくれた相手の声に、しかし少し身構えて振り向く。


「ディーン殿下こそ、お疲れでは?」


「別に兄上と呼んでもいいんだぞ? レオン」


先ほど人々の中心で浮かべていた綺麗な微笑とは違う、こちらをからかうような笑みを浮かべて殿下が首を傾げる。

月光に透ける金髪、澄んだ青の瞳。整った顔立ちは、その身にまとう豪奢な衣装に引けを取らない。どこか人を跪かせるような風格を持つ青年。

小さい頃は兄のように慕っていたこの人は、この帝国の皇太子だ。


「兄上呼びは遠慮しておきます。うっかり人の前でも呼んでしまいかねません」


「お前はそんなヘマはしないだろう。それに」


お前にまで堅苦しくされてはかなわん、とどこか困ったように付け足されて嘆息する。


「ディーン兄上は、こんな所にいてもよいのですか?」


「外せないところとはもう大体話したし、ひとり寂しく出て行った弟分を気遣うのは当然だろ?」


「からかわないでください。たまたま相手がいなかっただけですから」


カラカラと笑いながら「そういうお前はどうなんだ」と聞き返されて言葉に詰まる。


「……………高位の貴族とは挨拶は終わらせました」


「で、公爵家の権力にすり寄ってきた他の貴族たちに辟易して出てきた、と?」


「わざわざぼかした所を言わないでください」


他に聞かれたらまずいレベルのあけすけさだが、兄上の言うことは当たっている。

公爵令息とお近づきになりたいというのは分かるが、俺を見ようとはせず、俺の立場と自分の都合だけを見る者たちの話を延々聞きたいとは思わない。


「まあ、貴族とはそんなものだ。上手く利用し、操り、渡っていくしかない」


「………兄上はその辺り得意ですね」


「生まれたときからだからな」


「俺もそのはずなんですけどね」


一応俺もワーグナー公爵家の跡取りとしてやってきたはずなんだけど。

そう零すと兄上はこう言った。


「いくらお前が公爵の息子だとしても、俺とは踏んできた場数が違う」


貴族と皇族では、経験の密度も回数も大きな違いがある。

皇族とは国を背負うものだから。


ああ、こういうとき、俺とこの人の間に高い壁を感じる。

この人の見ている景色と俺の見る景色は、決定的に違うんだと。


ずっと追いかけてきた背中。いつかこの人を支えられるようになりたいと願ってやってきた。

皇帝になるこの人の隣には絶対に並べない。自分は皇帝の臣下にしかなれない。それが分かっていても、追い続けてきたはずだった。

けれど、こうして不意に突きつけられると、やっぱり少し悔しくて、寂しくて。


たとえ兄上が許したとしても、兄上、なんて呼べるのは子供の間だけだ。


「あとレオンは愚直すぎるな」


「は?」


寂寥感が一瞬で吹き飛んだ。カチンときて低い声が漏れる。


「愚直はないでしょう、愚直は。もっと他に言い方なかったんですか!」


「んー、ばか正直?」


「おい」


「冗談だよ。————お前は真っ直ぐで優しいからな。貴族の駆け引きには向いてない」


「…………ものは言いようですね」


まともな誉め言葉に一瞬喜んだが、その直後に落とされて、褒められたのか貶されたのかよく分からない。


「ちゃんと褒めてるよ。それに、俺相手にこんなに遠慮なく言ってくれる者は少ないからな」


感謝してる、と言われて目をそらす。

この人は普段素を見せないくせに、こういう時だけこうだ。ずるい。


「あ、公爵がこっち見たぞ」


「うげ」


急に変わった話題に、思わず会場を振り返ると父と目が合った。

やばい。これはお説教パターンだ。

夜会の主役である殿下がぐだぐだと隅っこで何をしているんですかと、今までも何度か怒られたことがある。幼いころからよく接しているせいか、父は兄上に対しても遠慮なく説教し、そして毎回もれなく俺も巻き込まれる。


「ああぁぁ」


「仕方がない。観念して早く行こう。それが説教を短くする方法だ」


「自分だけ逃げられるくせに」


俺は家に帰ってからも説教が続くことがある。せめて見つからないようにすべきだったと反省した。後が面倒くさい。


「ほら、行くぞ」


仕方なさそうに振り向いた殿下は、皇太子の仮面を被り直して社交用の微笑を浮かべている。先ほどのいたずらっぽい笑みは鳴りをひそめた。


「……はい、殿下」


俺もまた、弟分ではなく臣下の振る舞いでバルコニーを後にした。









もし。

もし、別の家に生まれていれば。そう考えることがある。


もしこんな身分に生まれていなければ、兄上と本当の兄弟のように過ごせたのだろうか。

兄上は、取り繕っていない本当の笑顔を皆に見せられただろうか。

少なくとも、国の存亡を背負い、国の繁栄のための義務にがんじがらめになることはなかったはずだ。



ねぇ、兄上。

俺は、兄上には社交用の笑顔よりもいたずらっ子みたいな笑みが似合うと思う。

皇族に生まれなかった方が、兄上は幸せだったんじゃないかなぁ。

小さい頃に、無邪気にそう言ったことがあった。まだ兄上が頻繁にうちに来ていた頃の話だ。

今思えば無神経な言葉だ。

けれど兄上はそれを笑い飛ばした。


『それは考えても仕方ないだろう。俺が皇族に生まれたことは、どうあっても変えられないことだ。それに、俺はこの身分を恨んだことはないぞ』


俺は心底不思議に思って、「なんで?」って聞いた。あの頃は、跡継ぎのための教育が本格的に始まって、貴族(こんなところ)に生まれたくなかったって思っていた。きっと皇族の兄上はもっともっと苦しいんだろうなって想像していた。


皇太子(ここ)はこの上なく不自由だが、この上なく自由だ。国のためにがんじがらめ、それはそうだ。この国に皇帝は一人しかいないからな。けれど、だからこそ強大な権力を一手に握る地位に俺はなれる。そうしたら——』


兄上は不敵な笑みを浮かべて、楽しそうに言った。


『皇帝に全権が集まる体制を変えられるかもしれない』


意味が分からなかった。その頃の俺にとって政治体制には専制政治しかなかった。生まれてきた時からそうだったから、疑問を抱いたこともなかった。

けれど、兄上は違ったみたいだった。自分で一生懸命考えて作った未来の話を、皆には内緒だぞ、と言って目を輝かせて教えてくれた。


『皇帝がいなくても国民が自分たちのことを決められるようにすれば、いつか皇帝などいらなくなる日が来るかもしれない。そうすれば俺は自由だ』


『自分たちできめるってどうやって?』


『んー、まあ話し合いだろう』


『皇帝がいないのに話し合いで決まるの?』


今も皇帝と貴族たちで会議はしているが、どれだけ意見が割れても最終的に決めるのは皇帝だからそれほど時間はかからない。でも、絶対的な権力者をなくすとなると、最後まで意見をすり合わせることが不可欠になる。


『そこは上手く制度を作るしかないな。国民を説得して、全く新しい法を定める。皇帝がいる状態で試験的に運用して、改善点を洗い出して………』


『でもそれ、何年かかるの?』


『………レオンは賢いな。痛いところを突かれた。まあ何十年はかかるだろう』


もしかしたら俺が生きている間には終わらないかもしれない、と兄上は少し諦めの混じった目で言った。

いつも真っ直ぐ前を見て胸を張っている兄上には珍しい表情だった。

もしそうなれば、、兄上には一生自由はない。


『………なら、俺も手伝います』


兄上がその青の目を見開く。


『立派な公爵になって、兄上の右腕になってみせます。俺は』


皇太子でも皇帝でもないあなたを見たい。

どこも取り繕うことなく、ただ自由にやりたいことをやるあなたを。

本当のあなたはきっと、その身を拘束する鎖が千切れればどこまででも行けるような大きな翼を持った、鳥みたいな人だから。


そう言うと兄上は、『珍しいことを言うやつだな』とびっくりした顔で言った。


『鳥かごの中の鳥が翼を広げて飛ぶところを見たいというのは、おかしいのですか?』


『いや、別におかしくはないが………帝位を鳥籠と言う奴は珍しい。俺の周りにいる貴族は皆、俺が権力を持てて幸せだと思っているらしくてな。レオンも生粋の貴族なはずだが………なかなか面白い感性を持ったまま育ったな』


『俺は、『権力』より『楽しい』の方が、兄上は好きかなと思ったので』


『そうか』


俺はレオンとこうやって話すのは『楽しい』ぞ、と言われて、照れ隠しに下を向く。


『ああ、でも帝位につくのは楽しみでもあるぞ』


『そうなのですか?』


『俺の夢はきっと人生をかけた大仕事になる。まだ誰もやったことがないことだ。どうだ? ワクワクするだろう?』


『はい!』


一緒に頑張ろう、とこつんと拳を合わせて兄上は嬉しそうに笑った。


それから、兄上の夢を叶えることが俺の夢になった。嫌いだった貴族教育も勉強も頑張って、努力して、努力して。

なのに。








593年 十月 ディーン皇太子暗殺。エイベル第二皇子が皇位継承権第一位に。

594年 十二月 皇帝が病に伏せる。

    一月 ワーグナー公爵失脚、投獄。

    二月 ワーグナー公爵処刑。




どこかで狂った歯車が、一気にこれまでを覆した。




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