『静かなる死体』
灯りは点いていた。
けれど、部屋にはもう、誰の気配もなかった。
テーブルの上には封の開いた惣菜と、転がったままの箸。
テレビは無音で映像だけを流し続け、どこかのワイドショーの画面が動いていた。
右下には、誰かが作ったアニメ調のキャラクター。
《正論ガール・ミラルン》
—
三浦は、椅子に座ったまま、それを見つめていた。
手にはスマホ。
画面には、自分の名前を検索した結果。
そこにあるのは、何もない——ただの沈黙と忘却。
—
何も、なかった。
パワハラの加害者としての過去。
元部下の自殺。
ネットリンチ。
失職。
家族の離反。
マスコミの断罪。
社会的抹殺。
それらすべてが、“終わったこと”になっていた。
話題にならなくなれば、それは「なかったこと」と同じだった。
だが、自分の中にだけ、罪はまだ残っていた。
—
鏡を見る。
老けた。
声が出ない。
食欲もない。
眠れない。
夢を見る。
夢の中で、彼女が笑っていた。
紅茶を差し出してくる。
「これ、優しくなれるお茶なんですよ」
手を伸ばす。
カップを取ろうとする。
でも、取れない。
指が触れるたび、カップが溶けて、黒い液体になる。
彼女が笑う。
だが、目は笑っていない。
「優しさって、痛みのない毒ですよね。
あなたがくれたのは、それでした」
—
目を覚ますと、手が震えていた。
テーブルには、散らばった薬の殻。
飲んだのか、飲んでいないのか、もうわからない。
—
夕方。ポストに手紙が届いていた。差出人はなかった。
中には、かつての社内報のコピー。
その隅に、震える文字でこう書かれていた。
「あなたは“殺してない”。
でも“生かさなかった”人を、何人見送ったんですか?」
筆跡は、自分のものだった。
—
それが最後だった。
その夜、灯りはつけたまま消えた。
翌朝、管理人が異変を察し、通報した。
三浦浩一は、椅子に座ったまま冷たくなっていた。
—
部屋は整っていた。
スマホの検索履歴には、ひとつだけ——
「紅茶 レモンバーム 効果」
—
誰も彼を殺さなかった。
だが、誰も彼を生かさなかった。
それが、本当の破滅だった。