第9話 レオポルト・バンダームの回想その2
エリーゼが書斎を辞した後、私は一人、再び重い椅子に身を沈めた。
かすかに香る蝋燭の匂い。静まり返った書斎に、心音だけが響く。
──レオポルト・バンダーム。齢四十五。
バンダーム家二十七代目の当主にして、父であり、そして、王国に忠義を誓った男。
だが。
今この胸にあるのは、忠義や誇りなどではない。
ただ、娘への深い憂いだけだった。
「……エリーゼ」
あの子は、よく笑う子だった。
どんな苦労にも、どんな絶望にも、決して膝を屈しない強さを持っていた。
それは間違いなく、亡き母――マリアから受け継いだものだろう。
かつて、バンダーム家はもっと繁栄していた。
広大な領地、潤沢な資源、王家からも一目置かれる存在だった。
だが、あの日。
あの山崩れによってすべてが変わった。
マリアと、そして長男であったリカルド。
彼らは、領地視察の途中で命を落とした。
……あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。
血に濡れた知らせが、王都に届いた日のことを。
それ以来、私は一人で家を支えねばならなかった。
いや、正確には、エリーゼがいてくれたから、なんとか持ちこたえたのだろう。
幼くして母と兄を亡くしたあの子は、泣きもせず、私の前で強がっていた。
小さな肩に、家の未来を背負わせてしまったことに、私は今でも悔いを感じている。
──それでも、バンダーム家を潰すわけにはいかなかった。
だから私は、あらゆる手を尽くした。
王家に頭を下げ、支援を仰いだ。
それは誇り高いバンダーム家の歴史において、かつてない屈辱だったかもしれない。
だが、家を守るためには、誇りなどいくらでも飲み込めた。
王家は、条件付きで援助を申し出た。
ルマンド王国とアルフォート王国。
海を越えた二国の間に、新たな技術交流を生み出すために。
そのために貴族同士の婚姻を進める、というのだ。
エリーゼと、アルフォートの貴族レンブランド家。
そして、王子ウイリアムと、アルフォートのセザンヌ姫。
私たちに選択肢などなかった。
これに従うことが、家を救う唯一の道だったのだから。
だが──今回の件で、そのすべてが崩れた。
レンブランド家の嫡男が、エリーゼとの縁談を一方的に破棄した。
しかも、王子ウイリアムまでもが、セザンヌ姫ではなく、エリーゼを選んだ。
結果だけを見れば、むしろ良い方向に転んだのかもしれない。
ウイリアム王子は公爵位を賜り、バンダーム家に婿入りする。
これで家の格は上がり、財政も救われる。
──だが。
「……これで、本当に良かったのか?」
私は、誰にともなく呟いた。
契約ではない。政治でもない。
エリーゼの人生を、王家の都合で大きく動かしてしまった。
あの子は、どれほどの覚悟で「受け入れる」と言ったのだろう。
心を痛めなかったわけがない。
ウイリアム王子は確かに聡明だ。
若くして軍務をこなし、民からも慕われている。
だが、同時にあまりに掴みどころがない。
今日だって、まるで芝居のように態度を変えた。
彼の胸の内が読めない以上、私は安心できない。
エリーゼが、再び傷つくのではないかと。
「……せめて、私が」
せめて、もう少しだけ。
この手で、エリーゼを守れる時間があるのなら。
私は、すぐに家督を渡すつもりはなかった。
公爵家となるバンダーム家には、新たな責務と地位が生まれる。
いきなり押しつぶされぬよう、まずは私が政務を引き受け、エリーゼには徐々に慣れてもらうつもりだ。
もちろん、ウイリアム王子も力を貸してくれるだろう。
だが、王子であれ誰であれ、私の娘を泣かせるような真似をすれば、容赦はしない。
レオポルト・バンダームにとって、家は確かに大切だ。
だが、それ以上に大切なのは──家族なのだ。
マリアと交わした誓いがある。
リカルドに託した夢がある。
そして、エリーゼに繋いだ希望がある。
「──私にできることを、すべてやろう」
重々しく立ち上がり、書斎の窓を開けた。
夜の王都に、微かな星の光が降っている。
あの日、リカルドと眺めた夜空に、どこか似ていた。
「見ていてくれ、マリア。私は、エリーゼを守る」
たとえ、王家を相手にしようとも。
この身が滅びようとも。
それが、父としての私の戦いだ。
──エリーゼ。
どうか、君の未来が光に満ちたものであるように。
私は、心からそう願っている。