第6話 ヘンリー第一王子から見た会議室の様子。
ヘンリー視点:「王城会議室の一日」
国王の第一王子という立場になって久しいが、今日ほど、胸の内に微かな苦味を感じた日はなかった。
王城、第三会議室。
重厚な扉を隔てたこの場所には、今、王族と貴族、それに新たな道を歩み始めようとする一人の少女が集っている。
エリーゼ・アーデルハイト嬢。
ルマンド王国魔法学院を首席で卒業した才媛でありながら、先ほど、婚約破棄という不名誉を押し付けられた少女だ。
だが、その肩に悲哀の影はなかった。
緊張した面持ちで椅子に腰掛けるかと思いきや、彼女は好奇心に輝く目で会議室を眺め、ふかふかの椅子に感動し、絹のカーテンをちらりと見やる余裕すら見せた。
──強い娘だ、と、ヘンリーは心の中で呟く。
(あの若さで、よくここまで……)
エリーゼ嬢の視線は、ほんのわずかに、会議室に飾られた王家の紋章にも向けられた。
王家という巨大な存在に怯えることなく、しかし礼を失するわけでもない。
ただ淡々と、事実を受け止め、進もうとしている。
若き魔導士にして、鋼の心を持つ娘。
それが、ヘンリーが彼女に抱いた第一印象だった。
一方、問題の当事者たちはどうか。
まず、レンブランド伯爵令息。
赤毛と逞しい体躯を誇る、いかにも武に生きる貴族の息子。
だが、残念ながら──
(軽率だな)
それがヘンリーの偽らざる感想だった。
婚約破棄。それ自体は、互いの気持ちの問題だ。
時に致し方ない場合もある。
だが、問題はタイミングと方法だ。
魔法学院卒業式の日、皆が未来に胸を膨らませる日に、王女との不義密通、さらには懐妊の事実まで発覚させるとは──
あまりに、思慮が足りない。
(せめて、公にする時期を考えればよかったものを)
隣に寄り添うセザンヌ姫の存在が、さらに状況を複雑にしていた。
セザンヌ・アルフォート王女。
隣国アルフォート王国の第四王女。
外交官として王国に滞在していた彼女が、まさかルマンド王国の地方伯爵令息に心を奪われるとは──
(純粋なのだな)
ヘンリーは、彼女を責める気にはなれなかった。
セザンヌ姫は、初めて本物の恋に落ちた少女の顔をしていた。
王族としての自覚にはまだ欠けている。
だが、その瞳に宿る想いは、決して偽りではない。
(本気で愛しているのだろう、レンブランドを)
彼女の背中には、王家という重い責務がのしかかっている。
それを放棄してまで、ただ一人の男を愛そうとする覚悟は──
たとえ無謀であろうとも、ある種の尊さを持っていた。
そして、ウイリアム王子。
自慢の金髪をかき上げる仕草。
自信に満ちた微笑み。
普段なら、誰もが彼を「王子様」と呼びたがるだろう。
だが今日の彼は違った。
いつもの軽薄さを脱ぎ捨て、心から悲しみを滲ませた顔で、セザンヌ姫とレンブランドを見つめていた。
「正直に言おう。傷ついたよ。でも……セザンヌが幸せなら、それでいい」
その言葉に、ヘンリーは僅かに眉を上げた。
(成長したな、ウイリアム)
これまで、何事も自分本位で捉えがちだった弟が──
他者の幸せを願い、苦しみを呑み込んで手放す覚悟を見せた。
寂しさと誇らしさ。
相反する感情が、ヘンリーの胸を静かに満たした。
そして、エリーゼ嬢の番が来た。
全員の視線が彼女に集まる中、エリーゼ嬢は微笑みを浮かべた。
「すっきりしました」
あの一言。
あの、凛とした笑顔。
それが、今日この場で、最も強く、最も美しかった。
(彼女は……負けなかった)
誰に恥じることなく、誰を呪うこともなく。
エリーゼ嬢は、まっすぐに、自分の人生を選び取った。
拍手を送ったのはウイリアムだった。
続いて、自分も静かに頷く。
セザンヌ姫も涙ぐみ、レンブランドは、複雑な顔で黙っていた。
だが、どれだけ言葉を尽くしても、この場で最も「勝った」のは──
エリーゼ・アーデルハイト、その人だったのだ。
会議室を出ていく彼女の背中を、ヘンリーはしばらく見送った。
(……これからが、彼女の本当の物語だ)
そう思いながら。
その少し後、ウイリアムが何やら彼女に囁きかけたのを見て──
ヘンリーは苦笑した。
(懲りないな、まったく)
けれど、それもまた、若さというものだろう。
新たな旅立ちを迎えた者たち。
別れ、痛み、希望。
今日この日、王城の一室で交差したすべての感情は、
きっとこの先、彼らの未来を彩る礎となる。
──ヘンリー・ルマンド。
彼もまた、その一人であった。