第9話:婚約破棄
「な、なによ?」
大広間の手前で上機嫌に歩いていたアリスは、俺と目が合うと途端に不機嫌な顔になる。
仮にも伯爵令嬢なのだから、パーティの場でそのような表情は控えた方が良いと思うぞ。
「アリス嬢は本日もご機嫌麗しゅう」
「先日の嫌みかしら? 行っておくけど、今日はあなたとはお話しないからね」
礼を尽くしたつもりなんだが、アリスはふんと俺を見るなり顔をそらした。
俺は苦笑いで答えるが、さりげなく周囲に目を配り、誰もこのやりとりを気にしていないことを確かめた。
これから起こることに余計な詮索をされるのは面倒だしな。
「ところでアリス様、今日は兄上とご一緒ではないのですね」
「私も探してるところなのよ。あっ、しゃべりかけないでといったでしょ!」
ずいぶん嫌われたものだな。
まあ、その方が色々と都合もいいだろう。
「ダリウス様……今日はとても楽しい催しがあると聞いていたのだけど、どこへ行ったのかしら……?」
そんな甘言でアリスを誘い込んだのか。
十中八九、楽しい催しになるはずのないイベントを前に、アリスの表情には期待と不安が入り混じっている。
「まあ、そうはならないようにせめてフォローしてやるよ」
俺の言葉に、アリスは小首をかしげて「何を言ってるの?」と目で答えるだけだった。
広間に人が集まりはじめ、ほどなくして主賓であるダリウスが姿を現す。
取り巻きも今日はかなりの人数が彼の周囲に集っている。
多くの人間の前でアリスを貶めようという魂胆なのだろう。
「ダリウス様!」
明るい声が室内に響いた。
見れば、アリスがダリウスに向かって駆け出したところだった。
周囲の人間がその光景に目を向けて、クスクスと笑っていた。
見ていて、気持ちのいいものじゃない。
「おおアリス! 今日はよく来てくれたな!」
「当然です! だって私はダリウス様の婚約者ですから」
馬鹿の奴だ、とでも言いたげに歯を見せて笑うダリウス。その反応に、アリスははにかむような笑みを浮かべた。自分が微笑みかけられたとしか思っていないのだ。
「ああそうだな。そういえばそんなこともあったな」
そのとき、大広間に響き渡る歓声が、熱気とともに空気を震わせた。
その視線の先にいるのは、この国の最上層に君臨する者たち――第一皇子アーヴィング、王妃マグノリア、そして国王グレゴリー・レジンス三世。
俺の立場じゃまったく頭の上がらない三人だ。
俺は王族としての作法に従い、深く頭を垂れた。
ちらりと視線を上げると、アーヴィングは俺に一瞬だけ目をやり、すぐに無表情の仮面を被る。
――どうやら、事前に送った手紙の内容は、すでに彼らの脳裏に刻まれているようだ。
だが、肝心のダリウスは、彼らの登場を一瞥しただけで、まるで取るに足らないことのように口角を吊り上げた。
そしてそのまま、彼はおもむろに舞台の中央へと歩みを進める。
その姿を見た瞬間、これから始まるであろう寸劇の内容を予感していた。
「諸君! 本日はこのような華やかな場にお集まりいただき、誠に光栄に思う!」
ダリウスは堂々と広間の中央に立ち、朗々と声を響かせた。
彼の周囲にいた貴族たちは興味深げに耳を傾け、囁き声が場内を満たす。
その中心にいたアリスは、期待に満ちた瞳でダリウスを見つめていた。
まるで、今この瞬間が何よりも幸せだと信じているかのように。
――そのまま、夢を見続けられたら良かったのにな。
ダリウスは不敵な笑みを浮かべながら、手を広げた。
「さて、本日は特別な報告があるのだ!」
瞬間、ざわめきが広がる。
「アリス!」
突然、ダリウスがアリスの名を呼びつける。
「はい! ダリウス様!」
呼ばれたアリスは頬を染め、すぐに彼の元へと駆け寄った。
まるで、憧れの王子に呼ばれた姫君のように――。
しかし、次の瞬間。
ダリウスは――彼女の腕を掴み、そのまま突き飛ばした。
「――っ!? え……?」
アリスの小さな体がバランスを崩し、床に膝をつく。
広間に驚愕のどよめきが響く。
「な、なにを……」
アリスは呆然としながらダリウスを見上げた。
彼女の瞳には混乱しか浮かんでいない。
しかし、ダリウスの瞳にあるのは――嘲笑と、冷徹な軽蔑だけだった。
「やめてください、ダリウス様……! どうして――」
アリスの声は震えていた。
何が起こっているのか、理解できないのだろう。
「どうして?」
ダリウスは愉快そうに笑った。
「アリス・アシュレイ――お前との婚約を破棄する!」
一瞬、時が止まったかのように広間は静まり返った。
そして、次の瞬間。
爆発するようなどよめきが場内を満たした。
「……え?」
アリスの唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「な、何を仰って……? わたくしは、ダリウス様の婚約者ですわ!」
彼女は必死に笑顔を取り繕おうとするが、その笑みはもはや引きつっていた。
そんな彼女を見て、ダリウスは嘲るように肩をすくめる。
「聞いてくれ皆の者、この主張は極めて正当なものだ。皆も知っている通り、俺の婚約者である人物は元はこの女の姉であるエリシア・アシュレイであった。しかし、この女の不当な根回しによってエリシアは屋敷を追い出されてしまったのだ」
うむ、それは正確ではないぞ兄上。
エリシア――彼女は、手ずから自分を陥れたお前や、アリスにあきれ果ててこの国を出て行ってしまったのだ。
「お前は正当な婚約者などではないのだ、アリス。勘違いを続けていたのなら、これは悪かったな。だが、親族を陥れるような女などもとよりこちらから願い下げなのだ。そんな女と俺が夫婦になるなど、考えただけで虫唾が走る」
その言葉に、アリスの顔からわかりやすく血の気が引いていった。
「……そんな……あれは、ダリウス様がそうすればと……」
「はっ! 本性を現したな? よもや俺にまで罪を着せようとは見上げた奴だよお前は」
その言葉に、広間の一角から忍び笑いが聞こえた。
それはまるで、アリスの存在を嘲笑うかのような軽蔑の笑い。
アリスは、そんな周囲の反応に愕然としたように肩を震わせる。
「嘘よ! ……ダリウス様から、私を選んでくださって……!」
「その勘違いが、もう見ていて痛々しいんだよ。」
ダリウスは冷淡に言い放った。
アリスの瞳が大きく揺らぎ、声が詰まる。
「そんな……嘘よ……」
彼女は、必死に助けを求めるように広間を見回す。
しかし――
どこにも、彼女の味方はなかった。
先ほどまで微笑みかけていた貴族令嬢たちは、あからさまに顔を背ける。
紳士たちは、この場が面白い見世物だとでも言うように、ワインを嗜みながら静観している。
「これでわかったか? アリス・アシュレイ、お前は俺の人生には必要ないのだ」
ダリウスは吐き捨てるように言い、ゆっくりとアリスに背を向けた。
「待って……待ってください、ダリウス様……!」
あっ、と俺も思わず声を出しそうになった。ドレスを踏んだ拍子に、アリスが前のめりに倒れたのだ。
顔を派手に打ちつけ、呻き声を上げる。
しかしそんなアリスにダリウスは目もくれなかった。
そして、広間にただ一人、膝をつき震えるアリス。その場の誰もが、彼女に手を差し伸べることはなかった。
ここに一人の悪役令嬢の断罪が完了した――ということになるのだろうか。
断罪と言うには少しやりすぎな演出のように思う。
「ふむ、ずいぶんと身勝手な話だな」
その静寂を破る声が響いた。
場内の視線が、一斉に声の主へと向く。
王の前に立ち、第一皇子アーヴィングが冷笑を浮かべながらダリウスを見下ろしていた。
「なんだ兄上? この婚約破棄は正当なものだぞ? 俺はこの女に騙されていたのだからな」
「ダリウス、お前は何かを勘違いしていないか?」
その瞬間、ダリウスの顔が初めて強張った。
場内が水を打ったように静まり返る。
そして――
この宴は、一転することになる。