第8話:偽善者の美学
謙遜と献身。優しさと思い遣り。
かつての俺は、自分なりにそういった態度で相手に接していれば、同じように相手も答えてくれると信じてやまなかった。
ドラマや小説にあるような甘酸っぱい恋愛物語はいつだってそうだ。仮定があり、それに対する理不尽はなく、誰かに優しさを向ければ、同じだけの思いやりが返ってくる、そんな単純な話だった。
難解で、理不尽なストーリーラインを読者は求めてなどいないからだ。
だけど現実はそんなに思い通りにならない。
裏切りや失望に貶められることがほとんどだ。
俺が初めて好きになった人とは、高校の頃に通っていた塾で出会った。
今時の女子高生という感じで、特筆して個性のある子ではなかったが、話す機会が多く、彼女の趣味趣向を知っていく過程で、彼女のことが好きになっていった。
そしてとある日、彼女の方から告白してくれた。
もちろん俺は大喜びでその告白を受け入れた。
最初のデートの時であっただろうか。
彼女は食事の席で、色々なことを打ち明けてくれた。まず初めに、彼女にはすでに、恋人がいた。
彼女はその恋人のことを、日常的に暴力を振るうのだと俺に話してくれた。そのうち、彼女は俺こそが理想的な相手だと囁いた。俺が恋人であればよかったのにと、涙を流しながら言及した。
ちょっとおかしな状況のただなかにいることは、うすうす気づいていた。最初は、なんで恋人がいるのに俺に告白なんてしたんだよ、と理不尽に感じたものだ。
だけど惚れいたのは確かで、俺は彼女を精神的に支えようと尽力することにした。
いずれ俺を本当の恋人にしてくれるのだと、そんな期待を抱きながら、彼女との接点を維持し続けたのだった。
結末はそれほどいいものではなかった。
精神的に彼女が持ち直した時、それでも彼女が選んだのは俺ではなかった。
高校を卒業すると、彼女は俺との連絡を絶った。
風の噂で、彼女が妊娠し、あのDV彼氏と婚約を結んだと聞いた。
さて、俺はそれを知ってどう思っただろう。
自分を傷つけていた男と婚姻するなんて、馬鹿な女だと揶揄しただろうか。俺を選べばよかったのに、と女を哀れんだだろうか。
そうだな。失恋のショックなのか、元々の性根の悪さなのか、俺は確かに、そんなことを一時考えていた。
だから俺も気づいた。そんな程度の謙遜や献身を見抜かれたから、彼女も俺を捨てたのだろうと。
俺の本質は、程度の低い人間だ。
ドラマの主人公のように、俺を傷つけた相手に寛容などではいられないし、自分の手から零れ落ちてしまった好きな人の幸福を心から祈ることなんてできない。
俺は偽善者であり、愚かであり、最低な人間なのだ。
本心で彼女の幸せを願えるようなメンタルなら、ああ俺という人間は心底潔白でお人よしだと、少なからず自分で自分を慰めることができたかもしれない。
だけど結局、俺はその程度の男なのだ。
献身の裏で、俺は相手の見返りを執拗に求めるような醜い有象無象の一人なのだ。だれが、DV彼氏のことを馬鹿にできるものか。
だったらせめてそんな本心をひた隠し、良い人間であろうと思った。
せめてドラマのような恋ができるように、主人公を演じよう。
演出が無ければ、物語は始まらないからだ。
傷ついている人がいれば手を差し伸べよう。頼られれば、良い顔をして応じよう。
裏切られても、表面上は相手の幸福を願おう。
そして、相手に期待するのはやめよう。
いつか、それでも俺のそばにいてくれる誰かと出会うまで、そんな風に生きてやろうと、そう思った。
それが俺という人間の生き方だ。
王宮の回廊を早足で進みながら、今の状況について考えていた。
ダリウスのアリスに対する悪意は思ったよりも苛烈で、下手に触れれば軽い火傷ではすまないかもしれない。
そもそも俺は、つい最近まで政治や王位継承などにはまったく興味などなかった。
ダリウスのような上昇志向の人間が企てる陰謀を、俺程度が出し抜けるのか、はなはだ疑問ではある。
やはりアリスのことはあきらめるしかないのか……。
答えのない問いが、何度も頭の中を駆け巡る。そんな折――
視界の端にちらりと影がよぎる。反応が遅れ、俺は誰かとぶつかりそうになった。
「っと、すまない……」
考え事に囚われすぎて、周囲への注意が散漫になっていた。
謝罪しながら顔を上げると、そこには見覚えのある女性が立っていた。
「あら、ゼッペル様」
「君は……」
視線の先に立つ女は、余裕たっぷりの微笑を浮かべたまま、優雅に一礼した。
つい最近、彼女とは顔を合わせたことがある。
たしか、アリスに強引に引っ張られてダリウスのもとに連れていかれたとき――ダリウスの隣にいた女だ。
艶やかなダークブラウンの髪を緩やかに揺らしながら、女は、慇懃に俺の元へと歩み寄る。
「ご挨拶は初めてですね。カタリナ・ヴァルツァーレです。社交界では何度かお会いする機会がございましたね」
――カタリナ・ヴァルツァーレ。
その声音は、まるで舞台の上で演じられる貴族の典型的な挨拶のようだった。
優雅さと礼節を兼ね備えながらも、どこか相手を値踏みする冷静な目が印象的だ。
「ああ……先日は、兄上と一緒にいたな」
彼女の振る舞いを見ながら、無意識に言葉を探った。
この女は、おそらく今のダリウスの本命である令嬢だろう。しかし、その出生まで気にしたことは今までなかった。
「ええ! 今後はもっとゼッペルさまとお顔を合わせる機会が多くなるでしょう! よしなに、お願いしますね」
軽やかに微笑むカタリナ。その物言いは柔らかいが、まるで既成事実を突きつけるような圧がある。
「機会が多くなるって、なぜだ?」
率直に問いかけると、彼女は待っていたかのようにくすりと笑う。
「それは、だって……いずれはわたくしがダリウス様の――」
続きは聞かなくてもわかる。
彼女が言いかけた瞬間、俺は思い出した。
「君、ヴァルツァーレと言ったな」
空気がぴんと張り詰める。
ヴァルツァーレ公爵家──
「王国の防衛と軍事戦略を担う、歴戦の名門貴族。歴代当主は王国の将軍職を務め、数多の戦場を指揮してきた。彼らの軍事組織「ヴァルツァーレ師団」は王国随一の精鋭であり、その名は他国にまで轟いている。
なぜ政治に疎い俺がこんなことを知っているかと言うと、一番上の兄上と戯れに話をしていた時にその名が出てきたからだ。
──第一皇子アーヴィングが、警戒していた家系。
そんな公爵家の令嬢が、なぜダリウスと――?
「ゼッペル様? 何か?」
「……君はダリウスとこの前親し気にしていたね?」
「ええ、懇意にしていただいています」
「彼のことをどう思ってるんだ?」
カタリナは艶然と微笑む。
「素敵な殿方ですわ。一途に私のことを想っていらっしゃってくれます。その地位も、申し分ないものと思っていますの」
一途、だと? この子もアリス並みに節穴なようだ。
俺は思わず内心で笑いそうになった。
「でも、彼の婚約者は別にいるよな」
若干の敵意を込めてカタリナに尋ねると、彼女は優雅に肩をすくめた。
「あの幼稚なアリス・アシュレイのことですの? 彼女の存在はダリウス様もほとほと困り果てているみたいでしたわ。近く婚約は破棄するからと、わたくし、彼にアプローチをいただいていますの」
なんの問題もない、と言わんばかりの態度。
「兄上の気の多さは君も知ってるだろう」
カタリナは、ふっと笑う。
「あら、でもわたくしは特別ですわ。すでにわたくしのお父様とお母様にもご挨拶を済ませていますもの」
それの何が特別なのか一瞬わからなかった。アリスの両親とも、ダリウスは挨拶を済ませているものではなかっただろうか。
それとも、すでに一族公認ということを強調したいのか。
「いや、“特別”なんて言葉は、結局のところ主観に過ぎない。
俺だって以前はそう思っていたじゃないか。俺が理想の相手だというかつて出会った女性の言葉を鵜呑みにして、自分が特別だと疑わなかった。
自嘲気味に笑いそうになる――
「そうか。まあそういうことなら……俺からは特にいうことは無いよ。結局決めるのは兄上だろうしな」
「ええ、お心づかい感謝いたしますわ」
そしてカタリナは最後まで笑みを絶やすことはなかった。