第5話:哀れな姫はよく食べる
今にも息絶えそうな子猫が道端に転がっていたら、どうするだろうか。
ほとんどの人は、せいぜい餌を与える程度のことはするかもしれない。だが、それを保護し、死ぬまで面倒を見る者はごく少数だ。
中には、鼻から興味もなく、ただ通行の邪魔だからと道の隅に寄せるような者もいるかもしれない。
俺は――餌ぐらいはやるタイプに該当するのだろうな。
「ダリウス様はきっと、嫌なことがあったのよ」
アリスはそう言いながら、焼き菓子をまるまる一つ、口の中に放り込んだ。
「……んもぐ、だからイライラして、ついあんな冷たい態度を――」
(おめでたい奴だな……)
つい先ほどまで意気消沈していたはずの彼女が、今はなぜか俺の部屋で焼き菓子を頬張っている。
リスのように大きな焼き菓子を口いっぱいに含み、もごもごと動かしている姿は、小動物的な愛らしさがある……のかもしれないが、俺の好みではない。
「じゃあ、きみはまだ兄上とは婚約しているつもりでいるのか?」
「当然よ!」
アリスは勢いよく拳を振り上げたが、そのまま、しゅんと力をなくし、だらりと下ろしてしまった。
「私は……ダリウス様の婚約者なんだから……」
俺はここまでで、彼女の所作を観察してみた。
伯爵家の令嬢というには、お世辞にも教養があるとは言えない言動。食事のマナーも微妙だ。
それでも、ダリウスへの好意だけは本物なのだろう。彼の行動を盲目的に肯定し、許容し続ける様子は、ある意味けなげだが――現実を見据えない愚か者とも取れる。
(最初は、そんな部分が兄上の自尊心を満たしていたのかもしれないな……)
目元は泣きはらして真っ赤になっているが、菓子を食べるスピードだけは一丁前である。
今は夜だから、そんなに食べていると太るぞ?
まったく……存外図太い性格をしている。
「なぁ、アリス嬢」
俺は何気なく口を開いた。
「君、本当に兄上のことが好きなのか?」
「え?」
突然の質問に、アリスは焼き菓子を咀嚼する手を止めた。
「そんなの、当然でしょう? だって私は彼の婚約者で……」
「いや、そうじゃなくて」
俺はゆっくりと首を振る。
「本当に好きなら、なんでそんなに菓子を食ってるんだ?」
「……っ!」
彼女の手がピタリと止まり、瞳が揺れる。
「愛する人に嫌われたのなら、まともに菓子が喉を通るだろうか? いや、無理だな」
俺だったら食欲が失せる。
昔フラれた恋人のことを思うと、今でも胃がキリキリと痛むぐらいだ。
「でも、お前――君は今、健常者のように目の前の焼き菓子を食べている。ただ自棄になってるだけだろ」
俺の言葉に、アリスはまるで叱られた子供のように、ふるふると肩を震わせた。
「そ、そんなことないわ……!」
震える声でそう否定するが、言葉に力がない。
「……私は……」
それ以上言葉が続かないのを見て、俺は肩をすくめる。
「ま、いいさ。何にせよ、君がまだ泣きながら菓子を食う程度には元気なことは分かったしな」
つまり、それぐらいにはまだ心は折れてはいないってことか。
「元気じゃないわ……もぐ」
追加で菓子を食いながら言うことじゃないだろ。
まあ反省して心を入れ替えるような奴だったら読者からヘイトを買って、ざまぁな展開にはならんよな。
というか真面目な話、こういう婚約破棄のスキャンダルって、破棄された方はどうなるんだろう。
姉のエリシアは国外に逃亡したようだが、こいつが今の生活を捨てるとは思えない。この先、貴族社会に残ったこいつの末路を予想してみる。
皇子の婚約者だったにも関わらず破棄されたとなれば、「問題のある人物」と見なされるだろう。
社交界での立場がなくなり、誰も彼女と関わりたがらなくなる。
結果、今後の縁談もすべて破談される。
貴族女性の価値は、家柄+名誉+処女性などが問われるのだろうが、こいつには今どれが残ってるんだ……? いや、そんなプライベートなことまで聞きたくはないな……。
なんにしても高位貴族との再婚は不可能、せいぜい地方の下級貴族か裕福な商人が相手になるのかもしれない。
アリスを本当の意味で助けるつもりなら、やはりあのダリウスとよりを戻すのが一番のように思えるが――
俺はテーブルの上にあったカップを手に取ると、それを彼女の前に差し出した。
「甘いもんばっか食ってると眠れなくなるぞ。ほら、これでも飲んで」
とりあえずこれ以上の過食は控えさせよう。
この性格で、ぶくぶく太って見た目まで醜悪になれば目も当てられない。
「え……」
アリスは戸惑いながらも、おそるおそるカップを受け取る。
「これは?」
「ただのハーブティーだ。飲めばリラックスできるらしいぞ?」
「……」
アリスはじっとカップの中を見つめていたが、やがて、ふっと息を吐き、小さく微笑んだ。
「ありがとう……」
なにやら感謝された。
しかし素直に礼が言えるぐらいには常識はあるのか……。
「でもあなたの言葉遣い、ちょっと変よ。なんか気持ち悪い」
前言撤回。やっぱりこいつは品性のかけらもないノンデリお嬢様だ。