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第1話:エリシア・アシュレイ



 私――エリシア・アシュレイは、アシュレイ伯爵家の長女として生まれた。しかし私に与えられた人生は、その立場には到底そぐわないものだった。


 アシュレイ伯爵家の屋敷には、いつも華やかな雰囲気が漂っていた。貴族の子息や令嬢たちが集まり、贅を尽くした宴が開かれ、使用人たちが忙しなく働いている。しかし、その賑やかさとは対照的に、私はいつも一人で事務仕事に追われていた。


 書類を整え、税収の管理をし、伯爵家に関わる細かな雑務を一手に引き受ける。それが私の役割だった。父と母はそんな私に関心を向けることはなく、私が仕上げた仕事の成果を称えることもない。代わりに、彼らの愛情はすべて妹のアリスに注がれていた。それは、彼女が母の実子であり、父が本当に愛した女性との間に生まれた娘だったからだ。私の母は政略結婚の末に伯爵家に嫁ぎ、私を産んですぐに亡くなった。一方、母は父が愛した女性として迎えられ、望まれて生まれたのがアリスだった。父にとってアリスは待ち望んだ娘であり、母にとっては自分の存在を肯定する象徴でもあった。


「エリシアさん、あなたはもっと身なりには気を遣ったら。書類ばかり見ていつも眉間にしわを寄せて、そんな醜い顔じゃいい縁談にはめぐり合えないわよ?」


 エレオノーラ・アシュレイ――私の継母であり、今の伯爵夫人の冷ややかな声が響く。私がどれほど伯爵家のために尽くしても、この家ではアリスの方が大事だった。


「ええ、お母さま」


 何を言っても、何をしても、ここでは無意味だった。私は、父の前妻の娘にすぎない。母にとって、私は彼女の愛する夫が過去に結んだ忌々しい縁の名残にすぎなかった。


「お母様、私可愛いお洋服が欲しいわ」


 とある日、アリスが贅沢なドレスをねだった。母はすぐに仕立て屋を呼び、最高級の布を用意させた。しかし、翌日、使用人が私の部屋を訪れ、「新しい書類棚を購入する予定でしたが、予算がなくなりました」と告げた。どうやら、その資金はアリスの新しいドレスに充てられたらしい。


 私の執務室の棚は、もう何年も使い古され、ひび割れたままだった。


「エリシアのものなんて、あとでいいじゃない?」


 アリスは悪びれることなくそう言った。母もそれに頷き、まるで当然のことのように扱った。


「姉さん、姉ならそれくらい我慢するものよ」


 そう言われては、私は何も言えなかった。抗議することが無意味だと知っていたから。


 そんな日々の中で、ある日、私の未来を決定づける話が持ち上がった。


「エリシア、お前に縁談の話が来ている」


 父、ギルバート・アシュレイ伯爵がそう告げたとき、私は驚きもしなかった。遠からず覚悟していたことだ。


 この家にいる限り、私が家のために利用されることなど当然のことだったのだから。


「喜べ、相手はあの第二皇子、ダリウス殿下だ。身に余る光栄だろう」


 ダリウス──その名を聞いた瞬間、私は思わず手に持っていた羽ペンを落とした。


 第二皇子、ダリウス。貴族社会では彼の名前はよく知られている。だが、それは尊敬の対象としてではなく、『享楽主義者』としての評判によるものだった。


「……断ることは許されませんね?」


「当然だ。お前は伯爵家の長女として、家のために尽くすべきだ」


 伯爵家の長女としての責務。それが私の唯一の存在理由なのだと、あらためて突きつけられた気がした。





 婚約が決まって数日後、私は王宮へと招かれた。正式な婚約の取り決めを交わすためだ。

 そこで、私は久しぶりに彼と再会することになった。


「やあ、エリシア。相変わらず真面目そうな顔をしているな」


 王宮の一角で私に声をかけたのは、第三皇子、ゼッペルだった。


 彼とは幼少の頃から社交界で顔を合わせることがあり、他の貴族の子息とは違い、飾らない態度で話ができる数少ない相手だった。一時は彼に惹かれていたこともあったが、今の私は伯爵家の長女としての役割を全うすることしか考えていなかった。


「ゼッペル様。お久しぶりです」


「お久しぶり、か。君が第二皇子と婚約したと聞いたが……まあ、色々大変そうだな」


 ゼッペルは肩をすくめ、どこか呆れたような笑みを浮かべた。


「いえ、殿下を導いていけるよう、妻の役目を務めさせていただきます」

「そうか……。まあでも、お前なら安心してあいつを任せられる。年を重ねれば、あいつの悪い部分も軟化していくだろう」


「はい」


 しかし、ゼッペルの口にした通りにはならなかった。


 ダリウスは大衆の場で、私に執拗に体の関係を迫った。私は人前でところかまわず異性と触れ合うような趣向は持ち合わせていなかった。貴族としての品位を守りたかったし、何よりも彼の軽薄な態度に強い嫌悪を抱いていた。そんな私の拒絶が、彼のプライドを傷つけたのだろう。


「……生意気な女だな」


 ダリウスの瞳に冷たい光が宿る。


「お前の妹の方が、よっぽど可愛いやつだったぞ」


 すでに過去形だった。

 今思えばこの言葉が、私の運命を決定づけたように思えた。



 アリスとダリウスが蜜月の関係となっていたことは、すぐに私の耳にも入った。

 だが彼も曲がりなりにも国の重要人物の一人だ。

 いつまでも色恋沙汰にうつつを抜かすような、そんな人物とは思わなかった。

 いや……今にして思えば、それは私の願望のようなものだったのだろう。


 しばらくして、ダリウスは私に一方的に婚約破棄を言い渡した。




 久しぶりに顔を合わせたダリウスの隣には、妹のアリスがいた。

 彼女は勝ち誇ったように微笑みながら、ダリウスの腕に甘えていた。


「姉様、ごめんなさいね。でも、あなたより私の方が殿下にふさわしいみたいなの」


 私はまだこの時点では説得を試みた。ダリウスの気まぐれな判断が、この国と伯爵家をどれほど危険に晒すか分かっていたからだ。


「ダリウス殿下、どうかお考え直しを。貴方の妃として、私は──」


「お前は黙れ」


 ダリウスは私を一蹴し、アリスを抱き寄せた。そして、吐き捨てるように言った。


「なんだ、俺に未練があるのか? そうだな、であれば愛人になら迎えてやってもいいぞ?」


 その瞬間、何かが弾けた。


 私は伯爵家の未来のために、この婚約を受け入れた。しかし、ここにあるのはただの愚か者と、それに媚びる妹。

 私は静かにその場を去った。





 婚約破棄の知らせが屋敷に届くと、両親は激高した。


「聞いたぞ、よもや婚約破棄とは、アシュレイ家の面汚しめ」


「……」


「ふん、まあいい、代わりにアリスが皇族に気に入られたのだし、お前は用済みだな」


 私はもうどうでもいいと感じた。この家に未練はない。私は静かに自室へ向かい、最低限の荷物をまとめ始めた。


 しかし、私の行動に気づいた両親は、すぐに制止しようとした。


「ふざけるな! お前が出ていくなど、許されることではないぞ!」

「そうよ! あなたの役割を放棄するき!? 無責任だわ!」


 私は静かに父と母を見つめた。彼らの言葉に怒りすら湧かない。ただ、もう関わることはないのだと、ひどく冷めた気持ちになった。


「お前はこの屋敷にいればいいのだ。今さらどこに行くつもりだ?」

「私はこの家の道具じゃない!」


 私は自分の長い髪を一房掴み、それを短く切り落とすと、両親の前に投げつけた。


「これで、私は伯爵家の娘ではなくなりました」


 背を向け、私は屋敷を飛び出した。

 この時、まだ私は知らなかった。数年後、この決断が、思わぬ運命を引き寄せることになるとは──。



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