第六章 叛逆の四日目 ②
フェリスの瞳が、驚愕に揺れる。
試験前。フェリスは『命令で僕に取り憑いた』と言った。
誰からの命令かと聞いたら、やけに誤魔化された。
知らない人だよ、とでも流せばいいのに、わざわざ『内緒』と言った。
それは、僕の知っている人だから。
……それも、身近な人。当てはまるのは、養護施設の恵理子さんと、ほとんど顔も見ない施設の子供達くらいだろう。
にも関わらず。……フェリスが命じられたのは、一年以上前。
僕が記憶を失う前だ。
つまり。それは、記憶を失う前から僕が関わり続けている人ということになり、該当するのは……僕しかありえない。
今にして思えば、フェリスの言葉の端々には旧知の影が見え隠れしていた。
「あぁ……そうか。今わかったよ」
前の僕が、今の僕にフェリスを取り憑かせた理由。
それは、目の前の少女の頬を伝う悲しい粒を見て、すぐにわかった。
「君は、コレを望んではいなかったんだ」
きっと、フェリスは優しい存在だった。
彼女の本当の姿は、人間の幸せを願うような、健気な少女だったんだ。
だけど。
――天使か悪魔かなんて、人間が決めたことだから、だよ
変えられてしまったんだ。
彼女の『願い』によって。人を陥れる存在となれ、と。
「政治に利用されたか。単なる私怨か。それはわからないけど、きっと君は願われてしまったんだろ?」
フェリスの瞳から、美しいガラス玉が落ちる。
願いによって外側を変えられてもなお、変質しなかった彼女の芯。
きっと、それを取り戻すことが。
「そうだ……それが、前の僕が今の僕に託した願い」
僕は、半ば放心しているフェリスへ、改めて相対する。
意志を突きつけるように。
彼女から、逃げないと見せつけるかのように。
「……三つ目の願い。まだ、言ってなかったね」
声が聞こえるようだった。
頭か。心臓か。どこに宿っているかもわからないけど、確かに僕の中に残る――心から。
――フェリスを、呪いから救ってやってくれ
――もちろんだよ
「僕の目の前にいる存在を……自分の在りたい存在に変えてくれ」
瞬間。
パキッ! と大理石が割れるように、フェリスの顔面に亀裂が走った。
その両翼に。淡く輝く新緑色の髪に。彼女を包み込む空間そのものが砕けるように、空中にまで複雑な裂け目が生じる。三次元を全く無視したヒビから世界が軋む音が響き渡り、
それが全て、光と共に弾け飛んだ。
3D映像かと錯覚する鮮烈な輝きは、その爆心地に一人の少女を産み落とした。
萌芽した新芽のような髪に、エメラルドの瞳。純白の翼。
姿形は変わらずとも、確実に何かが変質した、フェリスという少女を。
『……前の、キミはね』
震えを孕んだ声で、少女は言う。
『同じように、三つの願いをフェリスに告げ……呪いを乗り越えた。その後になって、フェリスの呪縛を知った』
思い出を懐古するような。
それでいて、苦い記憶を引っ張り出したような。
『やめろと言ったのに……キミは聞かなかった。フェリスと出会ってからの記憶が全部抜け落ちると知っても、キミは願いのリセットを実行した』
それら全てを、慈しむような声だった。
『今度こそ、願ってみせるって。フェリスを、助けてみせるって……』
フェリスは、膝から崩れ落ちた。
ぺたんと尻もちをついて、だらしなく鼻からも液体を垂らしながら咽び泣く。
だけど、それは不思議と美しく見えた。
『バカなやつだよ、キミは。フェリスは呪いで、命令した人に関することは何一つ言えない。だから、記憶を失ったあとのキミが想定通りに動く保証なんてないのに……!』
彼女は、天使のような悪魔なのではなく。
『なの、に……さ……』
正真正銘の、天使だったのかもしれない。
『――ありがとう』
フェリスは、ぐちゃぐちゃの顔で、ぎこちなく笑った。
前の僕は、柊をチンピラから救った。
それだけでなく、自分の記憶を消してまでフェリスを救おうとしていたんだ。
記憶が失われた事実すらも、愛しく思えてくる。
だってそれは全部、泣いている女の子を助けるためだったんだから。
「は、はは……」
なんだよ。かっこいいじゃないか。
僕とは大違いで、いけ好かない。
目の前の女の子が困っていたら手を差し伸べて。
それでいて、過酷な運命からきっちり救い切って。
いけ好かないけど……憧れる。
「……フェリス」
僕は、床に座り込む彼女へ手を差し出す。
「こっちこそ、ありがとう」
『……何がだい?』
「おかげで、覚悟が決まったよ。……いや、ちょっと違うか」
腹を括ったんじゃない。
これは、誓いだ。
「僕は、僕の憧れる僕になる。そのために……戦うよ」
理不尽な運命に抗う。
それはどうしようもなく無意味な行動で、その先に答えなんかないかもしれない。
だけど。少なくともそれは、恥ずべきことじゃない。
それはきっと、後ろ指を刺されるようなことじゃないんだ。
「抗うことは、醜くない」
自分自身へ、もう一度言い聞かせるように。
「戦うことは、悪じゃない!」
宣言した僕の手に、小さな手のひらが重ねられた。
『……キミの力を誰よりも信じているのはフェリスだ。……フェリスを一人にしないでくれよ? ミツキ』
瞳が真っ赤に充血している彼女は、それでも勝気に笑った。
そして。
タイミングよく、柊が浴室から出てきた。
「……やはり朝風呂は欠かせないわね。夏は特に、清涼感が違うわ」
頬を赤く上気させ、首に銀色の髪を貼り付かせる少女は、暑そうに頬をぱたぱたと仰ぐ。
寝汗と一緒に魂の濁りまで落としたような、その透き通った笑みが僕を捉え、
見定めるように、瞳が細まった。
「……何があったか知らないけれど」
柊は、共犯者のように笑う。
「いい目ね」
まだ湿り気を帯びた長髪をかきあげ、彼女はカップ麺の山へ手を伸ばした。
「カップ麺食べていないの?」
「……いや、今から食べるところだったんだ」
「そう。今日は忙しくなるわよ」
「わかってるつもり」
柊は満足そうな笑みでカップ麺を投げ渡してくる。
こってり濃厚豚骨と銘打たれた、いわゆる家系ラーメンだった。朝から重いな。
お湯が沸けるまで、一応『リスト』を確認した。
もう所有者は僕達と足利チームしかいないから、脱落者はいないはずだけど――
「……えっ」
「どうしたの?」
柊は怪訝な顔で、僕のスマホを覗き込む。途端に、その表情が曇った。
南ブロック。これまで未登録であった足利信臣の持つ解答のマス目で『済』の赤い文字が輝いていたのだ。
これまで彼は、登録をしないことで他の受験生を騙し、試験を有利に進めてきた。
それを、取りやめた。これは、つまり。
「向こうも、仕掛けてきたわね」
当然、そのマス目をタップした後に出てきたのは、青髪の男――足利信臣の顔と名前。
これが何を意味するのは、まだわからなかった。
だが、何かが動き出した、といううっすらとした予感だけは頭にしっかり刻まれた。




