うしなわれるもの、のこされるもの
毎日、それなりに楽しい人生を送っていた。
高校を卒業して専門学校に入り、資格を取って就職。
それまでも、特に大きな失敗も苦労もなく、平和で、平坦な人生を歩いて来た。
高校時代から付き合っている彼女もいた。
周りの友達から羨ましがられる程に綺麗で、それでいて可愛らしい、自慢の彼女だった。
そんな感じで、日々の生活もまぁまぁ充実していたと思う。
ある日、彼女と些細な事で喧嘩になった。
本当に些細な事。
ほんの少しの意見の食い違い。
長く付き合って来た中で、何度も何度も経験したような小さな喧嘩。
自分が交通事故に遭ったのは、彼女と喧嘩をした翌日の事だった。
その日は、仲直りをしようとデートに誘い、前々から用意してあったプレゼントを持って、待ち合わせ場所に向かっていた。
梅雨が明け、からっと晴れた青空と、青々と茂った木々が目に映る。
持ち合わせの場所までは歩いて20分程度。
途中、交差点の赤信号で立ち止まる。
今日はどこに行こうか。
そう言えば、観たい映画があると言ってたな。
そんな事をぼんやり考えながら、信号が青に変わるのを待っていると、不意に周りが騒がしくなった気がした。
不思議に思い振り返ると、歩道に乗り上げた乗用車が、目の前まで迫って来ていた。
どれくらいの間、眠っていたのだろうか。
目が覚めた時、視界に映ったのは、見覚えのない白い天井だった。
「……っ!?よかった。 目が覚めたのね。今お医者様を呼んで来るわ!」
そう言って、慌ただしく走り去って行く女性。
彼女の発した言葉から察するに、どうやら自分は病院に居るらしい。
しばらくして、さっきの女性と一緒に、白衣を来た初老の男性がやって来た。
恐らくこの男性が医者なんだろう。
「どこに触れられているか、判りますか?」
彼は、俺の肩や手などを触りながら、尋ねてくる。
「……ええ。 大丈夫です。 判ります」
「では、コレはどうですか?」
そう言って、今度は腕に触れているらしい。
「はい。……腕、ですよね?」
「………………そうですね」
彼は、こちらの返答に、一瞬何かを考えるような素振りを見せたが、すぐに小さく頷いた。
だが、その表情は険しく、すぐさま持って来ていたノートに何かを書き込んでいく。
そして、小さく嘆息した後、静かに告げた。
「……結論から言いましょう。あなたは首から下――全身が麻痺状態のようです」
――――――と。
「……え?それって……?」
「上半身の触覚は多少残っているようですが、下半身と、あとは上半身に関しても、痛覚などは麻痺状態にあるようです……」
そこまで言われて、自分でも手足を動かしてみる――いや、動かそうとしてみた。
……だが、どれだけ力を入れても、体が動きを見せることはなかった。
事故から5年。
俺の身体には、多種多様な薬と、栄養を補給するために、点滴の管が何本も繋がれていた。
状態も、改善するわけではなく、むしろ、口からの栄養摂取ができず、体が痩せた分、悪化して来ているとすら感じる。
以前は、毎日のように見舞いに来てくれていた友人達も、今ではすっかり顔を見なくなった。
“日常”を暮らす彼等にとって、俺の存在は“非日常”の象徴の様に感じるのだろう。
だが、今でも――
「今日も来てくれたわよ」
両親と――
「こんにちは、おばさん。恭介、体調はどう?」
――彼女だけは、毎日顔を見せに来てくれていた。
「優依……体調は、いつも通り、かな」
「そっか。 前はずっと寝てた事もあったから……安心した。あ、今日はリンゴ持ってきたんだよ~」
貰い物だけどね、とイタズラっぽく笑い、優依は俺が寝ているベッドの横に置かれた椅子に腰掛ける。
「……悪いな、毎日さ……」
「ん? なんて?」
動かす事ができない体の中で、唯一自由が利く首を回して、優依の方に顔を向ける。
「いや、あれから、もうずいぶん経つのに、こうやって毎日来てくれてさ……」
「好きで来てるんだから、気にしないでよ。 ほらっ!私、恭介の彼女だしさ♪あっ、リンゴ切ってあげるね」
そう言って"にしし"と笑う優依。
今までも、彼女の、この笑顔に何度も救われて来たと思う。
――仕事に行き詰まった時も。
――友人と喧嘩した時も。
そして――
――体の自由を失って絶望に沈んだ時も……。
いつだって優依は、こうやって、隣で笑っていてくれた。
それがどんなに救いだったか。
何度も、何度も、彼女に伝えようとしたが、そのたびに優依は――
「恭介が元気になったら、まとめて聞いてあげる。」
――そう言って俺の口を人差し指で塞いでしまう。
その時だけは、とても悲しそうな笑顔を浮かべる優依。
その顔を見ると、言いかけていた言葉が出て来なくなってしまうのだ。
俺の容態が急変したのは、優依がリンゴを持って来てくれた数日後だった。
いつもの様に、見舞いに来てくれていた母と優依。
二人と話していた俺は、突然のめまいと、酷い吐き気に襲われていた。
母がすぐに医者を呼びに行き、優依は俺の隣で胸の辺りをさすってくれていた。
しばらくして、白衣を着た医者が、幾つかの機械を押した数人の看護士を連れて早足に病室へとやって来た。
そして俺の様子を確認すると、持ってきていた機械を次々と俺の体に繋いでいく。
全ての機械がつなぎ終え、医者の指示で機械のスイッチが入れられると、“ピッ、ピッ、ピッ”と一定の間隔で鳴る電子音が聞こえ始め、同時に、あれだけ酷かった吐き気が少し楽になる。
「……恭……介、大丈夫?」
「…………………………」
まだ吐き気が収まっていないため、声は出せなかったが、心配そうに声をかけてくる優依に応えるように、ゆっくりと頷いて見せる。
「先生、うちの子は……恭介は……」
「……今は機械から酸素などを送り込んでいるので多少落ち着きましたが、危険な状態に変わりはありません」
「そんな……!?」
「持ち直せるかは、本人の気力次第です……」
母親と医者が小さな声でそんな事を話していた。
危険な状態…………か。
自分の事なのに、どこか他人事のように感じている自分がいた。
でも、一つだけ。
もし、このまま死ぬとしても、一つだけは……。
優依に伝えないといけない事が……。
『なぁ、優依』
「――!?何……恭介?」
呼吸器を付けられ、少しくぐもった声になった俺に返事をしながら、優依は自分の手を、そっと俺の右手に添えてくれる。
『……前から、さ。ずっと伝えたかった……事、が――』
「……うん、元気になったらいくらでも聞いてあげるから!」
『……あ、はは……今で、ないと、いつ言えるか……』
「何言ってんの! 明日起きたら元気になってるって!」
そう言って、泣きそうな笑顔を浮かべる優依。
『……優依、長い間……ありがとな。優依は……俺の、自慢の彼女、だったよ……』
「……ちょっ、恭介! 彼女"だった"って何よ! これからもずっと彼女だよ!」
『……俺が事故に遭ってから……もう、5年……だっけ? そんな長い間、ずっと俺みたいな奴の、側にいてくれて、ありがと。……それと、ごめんな。』
「……謝らないでよ……私が好きで一緒に……いただけなのに……うぅ……」
そこまで言った所で、優依の目から涙がこぼれ落ちる。
――それと、ほぼ同時だろうか……病室に飛び込んで来た人影が目に入った。
「恭介!!」
『……父……さん、仕事は?』
「……こんな時に、仕事なんて――」
俺の様子を見て、状況を悟ったらしい。
父さんは、ハッと息を呑みながら言葉を紡いだ。
『……ダメだよ……ちゃんと母さんを支えて、あげないと』
「それは、そろそろお前に譲る予定だ……」
『……あは、ははは……それは、責任重大だなぁ。 ……あ、あれ? なんか……目……霞んできた……。 寝不足、かなぁ?』
除々に視界が白く塗りつぶされていき、それに倣うように意識が遠のいていく。
耳元で響いている電子音。
そのすぐ向こうでは。
父さんが。
母さんが。
そして、優依が。
何かを叫んでいるような――――泣いているような、気がした。
もっと色々と、伝えたい事があるのに。
沢山の管が繋がった体は、もう簡単に声を出すこともできないらしい……。
ふと、遠のいていく意識の中で、ハッキリと……自分の手をぎゅっと握りしめる暖かい感触があるのを感じた。
その手を握り返したいのに、自分の手には、やはり力が入らない。
霞みゆく目を凝らし、喉の奥から、必死に声を絞り出す……。
『……死にたくない……まだ、死にたく……ないよ……』
もっと他に言いたい事が……伝えたいことがあるのに。
それだけしか、言葉にできなかった……。
それから数年――
「優依~、何ぼーっとしてんの?」
「……あ、うん、ごめん……ちょっとね」
そう言いながら、私は手に持ったペンダントを首に提げる。
「そのペンダント、かなり前から持ってるよね? あ、もしかして何かの思い出の品とか?」
「……まあ、そんなとこかな。 大切な人との、大切な思い出が詰まってるの」
「ほぅほぅ……もしかして、彼氏~?」
「……ひみつ」
「えぇ〜、いいじゃん、教えてよ~!」
「だ~め!秘密なの!」
――そう。
これは、私と恭介の……二人だけの秘密。
恭介の死後、彼の両親から渡された、小さなダイヤル式の鍵が付いた飾り箱。
それと一緒に渡された手紙には、恭介が事故に遭ったあの日、私と仲直りするために用意してくれていたプレゼントだったこと等が、恭介らしい、汚い字で書かれていた。
鍵のナンバーは、私と恭介が付き合い始めた日。
箱の中身は、スライドさせると、中に言葉が刻まれたペンダント。
スライドの中の言葉は――
“ありがとう”
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