キンモクセイ
「わたし、キンモクセイの香りって子供のころ大嫌いだったんだ」
離陸まで後三十分というところで、彼女は不意に呟いた。視線の先には、彼女を運ぶであろう鉄のかたまりが堂々と鎮座していた。
「なんかのりみたいな匂いで。小学校の校門近くに植えられていたんだけど、キンモクセイの季節はいつも嫌だったなあ」
懐かしむように続ける彼女に、思わず僕は頷いた。
「でも、大人になったら好きになった。むしろ、キンモクセイの季節が来たなあって」
人の性格とは、根本的に変わらないらしい。どんなに矯正したところで、結局は元の自分が姿を現すらしい。でも、好き嫌いは年を重ねるごとに変わっていく。子供のころ苦手だったものが得意になったり、あるいはその逆だったり。
「地元のキンモクセイ、綺麗に咲いてるのかな?」
「実家に帰ってない雪代くんにはわからないだろうけど、本当に綺麗だしいい香りだよ」
「だったらよかった」
「たまには実家に帰ったほうがいいよ。おばさん心配してた」
「その時期が来たらね」
「そっか」
むしろ帰る理由は一つ減っていくというのに、目の前の彼女はそれに気づかずに、静かに相槌を打った。
それきり、会話が途切れた。聞こえるのは、鉄のかたまりが人をどこに運んでいくのかという案内だけだった。やがて、
「雪代くん」
彼女は僕の名前を呼んだ。
「雪代くんには、変わらないもの、ある?」
「僕は、あるよ」
今ここでは言えないこと。言ってはいけないこと。
「春香は?」
逆に訊き返すと、春香は少し考え込むしぐさをしたあと、
「わたしも、あったよ」
「そっか」
答える彼女の顔は、勘違いでなければ笑っていた。でも安心した。彼女が今そこで笑っていられるのならば、俺はそれでいい。
それ以上にやり取りは続かず、春香はじゃあね、と胸の前で振って、スカートを翻すようにくるりと回って、俺とは逆の方向へと歩を進めていく。はずだったんだけど。
「どうしたの?」
いきなり足を止めて虚空を見上げた彼女は、僕の方を向かないまま、ぽつりと言葉をこぼした。
「君には、変わらないでいてほしいな」
今度こそ保安検査場へと足を進める彼女の表情はわからない。
けれど、遠ざかってもなお煌めく彼女の薬指の輝きを見るにして、それを約束することは今の自分にはできなかった。
終
~あとがき~
まともな短編小説を書くのは何年ぶりでしょうか。少なくとも大学時代(未成年)から覚えがありません。ということは10年ぶりくらいであってもおかしくないと(年がばれる)。
「先輩と後輩」はなんというか擬人もの(?)なので、純粋に人間の登場人物が出てくる短編小説を書くのは本当に久しぶりです。自分には長編をたらたら書いているのが似合っているので、いきなりお題を出されて短編を書け、と言われても即応できないところがありまして(よくあるじゃないですか、3つくらいお題出されてそれで短編を書けってやつ)、この小説はある意味新鮮な気持ちで書きましたとさ。でも、こういう練習は大事だと思うので今後とも続けていくつもりではございます。というわけで、湯西川川治でした。また書きます。
了