雨猫
ようやく頼んだデザートが出てきて手をつけようとしたとき、「そういえば」と、突然彼女が言った。
僕は目の前のケーキに突き刺そうとしたフォークを止めて、彼女を見た。
雨の日のファミレスは僕らと同じように行く当てのないカップルたちでごった返していた。むせ返るような湿気の中でいくぶん不愉快になりながら、この後どうするかも決めないまま早くここを出よう、それにしてもデザートが遅いな、と話していた。
「そういえば」と彼女は繰り返してから続けた。「昔、猫を飼っていたの」
「今でも飼っているじゃないか。黒猫のタマ」
「違う猫を飼っていたのよ。どうしたの? ケーキ、食べないの」
僕はやっとケーキにフォークを入れた。アップルタルトがさっくりと切れた。
「今とは違う猫?」
「そう。三毛のオス。珍しいでしょ」
「それは珍しいな。買ったの?」
三毛猫は遺伝子の関係で、ほとんどがメスになる。だからオスの三毛猫は珍しく、ペットショップでもかなり高価だ。
「ううん、迷い猫。最初はすごく汚くてね。どうでもいい雑種だと思ったのよ」
「うん」
「で、しばらくしてから三毛だって分かって、もちろんオスだって言うのは最初にわかってたけど、とにかく珍しい猫だって」
「うん」
「ミケって名前を付けて――」
「安直だね」僕は少し茶々を入れた。
「いいのよ、可愛い名前なんだから。それで、珍しい猫だったせいか、ちょっと変わったところがあったのよ」
「どんな?」
「雨の日が好きだったの」
「――ああ」
僕はようやく彼女がこの話を始めたつながりが分かった。「今日みたいな?」
「そう、今日みたいな日。こんな日には決まって外に出て行っちゃうのよ。それで汚れて帰ってくるの」
「困るね」
「いつも泥だらけになって帰ってくるものだから、雨の日には紐をつけて外に出て行かないようにしたのよ。そうしたらすごく哀しそうな声で鳴くのね。にゃぁあ……にゃぁあ、って」
彼女は哀しそうな猫の鳴きまねをした。
「とうとう根負けして、雨の日に紐をつけるのをやめたの。ミケは雨が降るたび、嬉しそうに外出していったわ」
「それで泥だらけになって帰ってくる」
「そう。でも唯一の救いは、これも珍しいと思うんだけど、雨が好きなだけあって水が平気なのね。だからお風呂もすすんで入ってくれたわ。お風呂場に連れて行くと、ミケのための準備した大き目の洗面器にちょこんと入って、いつでもどうぞ、って言うように私を見上げたのよ」
僕はそれを想像した。「――可愛いな」
「でしょ?」
彼女は嬉しそうに言った。
「そんな感じでずいぶん一緒に暮らしてたの。でね、うちって山のほうじゃない。海がないのよ」
「うん」そう、彼女は海に接していない県に住んでいる。
「こんなに水が好きな猫なら、一度海を見せてやろうって話になってね、夏に海水浴の時、一緒に連れて行こうかって話になったの。今までは近くの親戚に預けてたんだけど、来年は一緒に連れて行こうって」
「ああ、それは良いな」
「でもね……」
ちょっと沈んだ声を出して、彼女は黙り込んだ。手をつけていなかったミルクレープからひとかけらを切り出してフォークに刺し、そのままフォークを置いた。
「ミケ、海を見られなかったのよ」
「…………」
「週末、海に行こうって決めた日、いつものようにミケは雨の中遊びに行って、それから……酷い怪我をして帰ってきたの。車に撥ねられたのかもしれない、本当にもう体を引きずるようにして帰ってきて、私がミケを見つけて『ミケ!』って呼んだら弱弱しい声で一声だけ鳴いて、安心したようにぐったりとしちゃったの」
「うん」
「私ももう慌てちゃって、急いでお母さんを呼んで、すぐに病院に連れて行った。ミケをタオルにくるんで、背中をさすりながらずうっとミケ、ミケって。それでお医者さんに見せたんだけど、その時にはもう、ミケの体は冷たくなり始めてた……」
思い出してしまったのか、彼女は口をつぐんだ。
僕もかける言葉がなくて、黙ってケーキをつついた。
「うん……ごめんね、沈んだ話しちゃって」彼女がようやく顔を上げた。「でも、もうちょっと続きがあるの。聞いてくれる?」
「もちろん」
「それで、最初は家の庭に埋めてあげようと思ったんだけど、どうせなら、海が見えるところのほうが良いんじゃないかってことになったの。海の見えるお墓を調べて、住職さんに掛け合って、そこに小さな猫のお墓を作ってもらったわ」
「いままで縁もゆかりもないお寺?」
「そう。和尚さんも、今までそんなことを言ってきた人はいなかったって。でも、ほんの少しお寺の片隅を貸してもらって、そこにミケを埋めた。やっぱり小雨が降る日で、私たちは傘を差しながら手を合わせたの。『ごめんねミケ、海を見せてあげることが出来なくて。でもここからなら海がよく見えるよ』……」
「…………」
「だいぶ長い間、手を合わせていたと思う。それから顔を上げたら、いつの間にか雨がやんでて――虹が出てた」
「虹……」
「そう。遠くの海のほうに。私なんだか、ああ、ミケは天国へいけたのかなあって、ちょっと安心した」
彼女が微笑んだ。
「そっか。うん、そうだろうな」
僕も少し安心して、食べかけだったアップルタルトにもう一度フォークを刺した。それからふと思い立って、彼女に聞いた。
「なあ、近いのか?」
「え?」
「お墓。ここから近いの?」
「えーっと、そんなに近くはないけど、車なら一時間もあれば行けるわ」
「じゃあ、行こう」
「え、今から?」
「ああ。せっかく雨だし、こんな日にお参りするほうが良いんじゃないかな」
「……そうね。うん。じゃあ、急いで食べようか」
「ああ」
僕らは紅茶を飲んで、冷めちゃったねと顔を見合わせて小さく笑った。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。