03
「……どこかでお会いしましたか?」
「いいや。間接的にだからお前が俺を知らないのは無理もないさ。名前を聞いてこちらは初めて確信を得たんだ。夜会でお前が名乗った偽名|ルチア・リサイト《Lucia Recite》は|セシリア・トロイ《Cecilia Treu》のアナグラムだからな。諜報名の基本だ」
セシリアは男に対して感心するのと共に用心さを増幅させる。やはりジェイドは思ったよりも頭が切れる。名前に関してすぐに気づいたのは、ルディガーに続き二人目だ。
「あなたの目的はなんでしょう?」
ジェイドはセシリアから目線を逸らし、再びカップを口まで運ぶ。そして世間話でもするかのような口調で続けた。
「試したんだ、お前らアルノー夜警団をな。王家のお飾りとして剣だけが達者な無能な連中と思っていたが、なかなか使える奴もいるらしい」
挑発的な言い方だが、セシリアの感情も表情も揺れはしない。ジェイドはセシリアに視線を戻し語りだした。
「二週間前にドゥンケルの森の入口付近で、若い女性の遺体が見つかっただろ」
唐突な話題に、セシリアは訝しがりながらも素直に答える。たしか報告が上がっていたはずだ。
「ええ。しかし目立った外傷もなく、彼女には心臓に持病もあったと聞いています。その発作を起こしたと結論づけ処理したのですが……」
「彼女はな、うちの患者だったんだ」
「え?」
抑揚なく口を挟んだジェイドにセシリアは目を丸くする。
「たしかに彼女は生まれつき体も弱かった。しかし心臓を酷使しなければ、すぐにどうこうなるものでもない」
「……彼女の身に、なにかあったということでしょうか?」
セシリアは慎重に問いかける。つまりジェイドは彼女の死に不信感を募らせているわけだ。ジェイドはカップを机に置くと、やや間を空けてから言葉を発した。
「はっきりとはわからない。ただ彼女は周りにしきりに聞いていたそうだ。アスモデウスには、どうすれば会えるのかと」
“アスモデウス”の単語にセシリアも反応する。ジェイドの眉間に皺が寄り、目の色に鋭さが増す。
「今、流行っているアスモデウスの噂は完全な与太話にすぎない。とはいえ偶然だとは思えないんだ。アスモデウスに会えるのもドゥンケルの森の入口付近だろ?」
『アスモデウスにどこで会えるか知ってる?』
『それがね、噂ではドゥンケルの森の入口付近で会えるんですって』
ふとホフマン卿の夜会で飛び交っていた噂話を思い出す。セシリアはここでようやくジェイドの狙いが見えてきた。
「アスモデウスについて探るために、夜会へ?」
「まぁな。自分の患者だったんだ。個人的にあれこれ調べているんだが、俺ひとりじゃ限界がある。アルノー夜警団なら情報も入ってくるだろうし、その力でもっと深くあれこれ調べられるだろ」
ジェイドもセシリアと同じ目的であの場にいたわけだ。自分に接触してきた理由も納得できた。ジェイドがセシリアの正体に気づいていたなら尚更だ。
「それで、私を?」
「ああ、そうだ。最初に会ったときはアスモデウスに興味のあるただの貴族の娘かと思ったが、お前の名前を聞き、体つきを見て察しはついた。とはいえ夜警団が無能な連中なら手を組むだけ馬鹿だ。……しかしどうやらそうでもないらしい」
「なるほど。自分の元を訪ねて来いと言ったのは、あなたなりのテストだったわけですか」
的を射られて、逆にジェイドは満足そうだ。セシリアの頭の回転の速さは彼の思った以上だった。
「ホフマン卿の娘がアードラーに熱を上げているのは知っていたからな。最初はアードラー本人にでも接触しようと思ったんだが、その必要はなかったらしい……これで納得したか?」
セシリアはなにも答えずに机に置かれたカップに視線を落とす。黒い水面にかすかに自分の姿を捉えた。
「どうした? 珈琲は嫌いか?」
一切カップに手をつけないセシリアにジェイドが問いかけた。この国では珈琲をあまり飲む習慣はない。どちらかといえば、薬用的に摂取する印象だ。
医師のジェイドが好むのも理解できる。けれどセシリアがカップに口をつけないのは嗜好の問題ではない。
「……まだ、あなたがどこで私を知ったのか話していただいていませんから」
セシリアの返答に、やはりジェイドは笑った。
「なかなか警戒心が強いな。だが、いい心構えだ」
そこで珈琲を啜ったジェイドが、答えではなく逆にセシリアに尋ねる。
「セドリックは元気か?」
その名を耳にしたとき、セシリアの感情が今日初めて振れた。大きく目を見開き、アイスブルーの瞳でジェイドを見つめる。
「俺はお前を直接は知らないが、お前の兄貴からお前の話を聞いていたんだ。もうかれこれ十年前になるがな。さすが兄妹だ。目元がよく似ている」
セシリアはぐっと唇を噛みしめてジェイドを見つめる。ジェイドはソファから腰を浮かし隣の診察スペースに足を向けると、棚の奥から古い紙の束を取り出した。それを持って戻ってくる。
「信じられないって顔をしてるな。ほらっ」
セシリアの前に置かれた紙の束は、かなりの年月を経て色もくすみ文字もかすんでいる。けれどそこに見慣れた文字を見つけた。
『“|Cedric Treu”』
間違いない、忘れもしない。セシリアにとっては懐かしい、几帳面さがよく表れている兄の筆跡だ。セシリアはジェイドに視線を戻す。
「あなたは……」
「俺はな、親父から医学を受け継いだんだが、その際に少しだけあいつも一緒だったんだ。親父のところに頼み込んできたらしい。物好きにも程があるが自分は将来、支える側の人間になるから医学の知識が必要なんだってな」
『支える側の人間になる』
よく兄が口にしていた台詞にセシリアは胸が温かくなるのと同時に痛みも覚えた。だから言葉にするのを少しだけ躊躇った。