05
続けてアルツトはセシリアの耳元で秘密を打ち明けるかのごとく声を潜めて囁く。
「もっと上手くやりたいなら次はストールくらい羽織ってこい」
彼の発言の意図がとっさに読めない。目を遣り、表情を確認しようとすれば、アルツトはセシリアの頬に触れるためなのか手を伸ばしてきた。
セシリアの視線も意識も男の手を追って集中する。ところが不意に接触寸前で男の手首が掴まれた。
「そこまでだ」
低い声色に風が凪ぐ。まったく気配に気づかなかった第三者がふたりの間に割って入った。
アルツトに向かってまっすぐ視線を送るルディガーの姿があり、彼がアルツトの行動を遮ったのだ。突然現れた男に対し、アルツトは怯みもせず口の端を上げる。
「驚いた。誰かと思えばアルノー夜警団のアードラーじゃないか。ここで彼女になんの用だ?」
男の返し文句にルディガーはわずかに眼光を鋭くした。驚いたと言うわりにアルツトに動揺は見られない。
アルツトから目をそらさずルディガーは告げる。
「彼女は俺が口説くんだ。悪いけど他を当たってくれ」
「そんなことを言っていいのか? ここの娘はあんたに散々熱を上げているというのに」
手の力を緩めずにいるルディガーにアルツトは挑発めいた言い方をする。ルディガーは涼しい顔で返した。
「だとして? 君には関係ないだろ」
「大ありさ、この状況で後から来た奴におとなしく『はい、そうですか』と譲る人間がいると思うか?」
鼻を鳴らすアルツトに今度はルディガーが笑ってみせた。
「そのセリフ、そっくりそのままお返しするよ」
ここでアルツトは意表を突かれる。ルディガーはアルツトの手を離すと、なにげなくセシリアの肩を抱いた。
「譲るなんてとんでもない。彼女はとっくに俺のものなんだから」
軽やかな口調だった。いつものセシリアならすかさず物申すところだが、このときはぐっと堪える。今の自分の立場を考えれば余計な口を挟むべきではない。
上官の思惑も目の前の男の真意もまだ量りかねる。とくに初めて会ったときからアルツトから向けられる感情はどうも掴み所がなく不透明だ。
しばしの沈黙。扉一枚を隔てただけの賑やかな世界から遠く隔離された闇夜の静寂。
「わかった。ここはおとなしく引こう」
口火を切ったアルツトはおとなしく一歩下がると、ルディガーからセシリアに視線を移す。
「ルチア・リサイト」
一度だけ告げた名を彼ははっきりと口にし、空気を震わせた。
「気になるならお前も本当の姿で俺を見つけて尋ねて来い。少しはお前の欲しい情報を与えてやろう」
「あなたは……」
「言ったはずだ。“私はアルツト”だと」
含みのある言い方をして、アルツトはその場を去る。残されたセシリアは、ルディガーに目を向けた。
どうして彼がここにいるのか。なにかあったのか。それともアルツトが気になったのか。
それらの疑問をまとめて口にしようとする。
「どうされ……」
「言っただろ、口説きにきたんだ」
思わぬ切り返しに目を見張る。困惑するセシリアをよそに、ルディガーは改めてセシリアと正面から向き合った。
続けて仮面に隠れず露わになっているセシリアの白い頬を撫でると、当然の流れと言わんばかりに彼女に口づける。
まさかの行動にセシリアは目を開けたまま硬直した。
「酔ってます?」
唇が離れ、すかさず尋ねる。驚きはしたが、冷静さは保っている。
それは声にも表れ、そんなセシリアの問いにルディガーは抑揚なく答えた。
「ああ、酔ってるよ」
さらにセシリアの頤に手をかけおもむろに顔を近づけた。濃褐色の虹彩が揺れ彼女を捕らえる。
「どうしようもないくらいにね」
下唇を舐め取られたのを皮切りに有無を言わせない甘い口づけが始まる。
セシリアは思わず眉をひそめたが、抵抗もせずにただ受け入れた。
幾度となく触れ方を変え、次第に唇が離れる間隔が短くなる。舌を滑り込まされ、より深く求められると、わずかにくぐもった声が漏れた。
「ふっ……」
観念してぎこちなくもキスに応じる。上官の考えが読めない。すると不意に人の気配を感じた。
条件反射でセシリアは顎を引こうとしたが、ルディガーがすぐさま口を塞ぎ口づけを続行させる。
「ぁ……っ」
いつの間にか腰に腕を回され、逃げ道がなくなっていた。
さすがに戸惑っていると視界の端に赤いドレスが映る。裾が翻り、逃げ出すように遠ざかっていくのが窺えた。
自分よりも敏いルディガーが気づいていないわけがない。
セシリアは顔を背けたのと同時にルディガーの口元に右手を持っていき、物理的に口づけを中断させた。
「どうしたんです? あなたらしくありません」
やや早口に、そして相手にしか聞こえないほどの小声で捲し立てる。ルディガーはセシリアの手首を掴み、そっと自分から離した。
「らしくない?」
「こんな見せつけるやり方は……」
そこで言葉を止める。顔を確認できなかったが、先ほど現れたのはおそらくルディガーを追ってきたディアナだ。
彼女が自分たちを見て、どのような感情を抱いたのか。絶望か悲嘆か。はたまた憤怒か。
ケリをつけるとは言っていたが、いささか乱暴すぎる方法だ。ルディガーの評判だって落としかねない。
そう言おうとしたが、ルディガーが先に続ける。
「別に、もういい加減潮時だって話だったろ。それに今は彼女は関係ない」
ルディガーは掴んでいたセシリアの手首を今度は逆に自分の方に寄せる。次に目を閉じると、掌に音を立て口づけた。
その光景にセシリアは息を呑む。ルディガーは静かに目を開け、セシリアを見据えた。
「全部俺のものなんだろ。髪の毛一本でも他の奴に触らせたくない」
きっぱりと言い放ち、掌に舌を這わせていく。ザラついた生温かい感触に、手を引こうとするも叶わない。
酔っているのは、酔っていくのは、むしろ自分の方だ。
輪郭が融ける闇夜、セシリアは冷たい風を受けて奥底に沈めていた気持ちに必死に蓋をしていた。