独白
"私"の話をしよう。
別に、聞いてもらわなくても結構。
私はただ、私の中に芽生えた、この不可解で奇妙な感情の謎を解きたいだけなのだ。
その謎を解くために、私はここに筆跡を残した。
ただ、それだけなのだ。
多くの者が、この感情を愛だの恋だの言う。
それは、あながち間違っていないのだろう。
好意を寄せている者とともにあることは、とても喜ばしいことだ。
同時に、その相手に好意を抱かれていればとも願う。
私の感情を受け取り、相手も同じ思いを抱いてくれるのが、たまらなく嬉しいのだ。
それは、相互に理解できていると感じるからなのだろうか。
ただ、時折わからなくなる。
相手は私と違う、一個の人間であり、完全に理解しあうことはできないからだ。
つまるところ、私の世界は私だけのものであり、私が相手が感じていると考える感情も、私の中にしかないということだ。
私は、この世界で生きているが、同時に私の世界の中でしか生きていないということだろう。
私が見ている世界と他人が見ている世界は同一ではない。もちろん、私の思いと同じ思いを抱く者とも違う世界なのだろう。
それは、まるで夢のようなもの。
共有することはできない。一部の情報を交換し合い、想像したとしてもそれは全く同じものではありえないのだろう。
だからこそ、私は考える。
私が考えていることは、いったい何なのだろうかと。
苦しんでいる者を見て助けたいと思う。手を差し伸べたいと思う。
それは、どうしてなのだろうか?
それは、私が優しい人間であるからというわけではないのだろう。
むしろ、私は、私が善良な人間であるために、それをしているのではないのだろうか。
私は、私を善良な人間であると思い込むために、それをしているのではないのだろうか。
果たして、そんな思いでやった行為が、本当に相手のためになるのだろうか?
むしろ、私は、私自身が善良な人間であると思い込みたいがために、手を差し伸べる相手を探し、作り上げているのではないのだろうか?
かわいそうな人だと勝手に思い込み、そして手前勝手な理由をつけて、手をさし伸ばす。
その手が不要であることも知らずに。
私は、善良な人間であるからと、盲目的に信じて。
そんな人間は、果たして善良な人間なのだろうか。
そんな考えが、目の前で困っていると思われる人を見るたびによぎる。
まして、その相手が好意を抱いている人物であればあるほどに。
相手の役に立ちたいという、私の勝手な願いが、相手を勝手に被害者にしているのではないのだろうか。
そして、それは相手にとって喜ばしいことなのだろうかと。
私は甚だ疑問である。
ならば、この感情は、本当に好意なのだろうか。
愛だの恋だの、美しい感情などではなく、もっと得体のしれないおぞましい感情なのではないのだろうか。
まるで生贄を探すかのような、そんな感情なのではないのだろうか。
それでは、私は。
私が今抱いている感情とは、いったい何なのだろうか。
愛おしいと感じる感情の、正体は何なのだろうか。
助けたいと考える思考の、正体は何なのだろうか。
愛とは。優しさとは。誠実さとは。人の心というのは。思考というのは。
つまるところ、いったい何なのだろうか。
それは、ひどく手前勝手で、自己中心的なものではないのだろうか。
ならば、私は、私という存在は、どこまで行っても、何をしても誰かの役に立つことはなく。
ただただ、結果的に誰かの支えや助けになったというだけで。
その行為に、どれほど素晴らしい理由をつけたところで、結局はただの自己満足に過ぎないのではないのだろうか。
ならば、何のために相手を思いやれと言うのだろうか。
自己中心的な考えを否定するのだろうか。
どうして、この国はそれを悪いと言い、誰かのために犠牲になるのを素晴らしと論ずるのか。
人間は、結局のところ己のためにだけ働くというのに。
私のこの奇妙な感情は、結局のところ、己のただの自己満足に過ぎないのだろう。
ならば、私はこの奇妙な感情を、心行くまで味わってみようか。