懐かしき想いで
大正の終わり頃に
私は 士館理乙に 入学した
入学して 医学の勉強もしていたが
趣味であった 油絵を描きに 阿久根に行き
絵を描いたり ハガキの裏に油絵を描き
学内で 先生らにも配り すごく褒めらた
思い出がある。
昭和三年
九大農学部に 入学したが
中退し 医科大へ転学した
東京で 児島善三郎画伯に 油絵の指導をして貰った
この時に 那須に出掛け 描いた絵を
医科大にて教授になった自分の室に飾っていたのだが
あの日の一瞬の閃光の中に 消え去ってしまった
悲しい思い出がある。
昭和八年には 医科大を卒業し
その後の 昭和十一年には 様々な研究や治療にて
医学博士を授与された。
昭和十二年に
日本脳炎、セントルイス、カリニナ株を
自分の身体に接種し 不顕性感染を発表
十三年には 文部省視察官として
中南支、上海、蘇州、南京、杭州を訪ねた
十五年に 混血児研究の為に 北支へ出張
十八年 デング熱ウィルスの脳骨髄液移行を発表
と 私の経歴には 記されていた
医学の研究発展の為に 日本のみならず
海外へも 出張し
戦後 三十五年頃には ヨーロッパへ
医学の視察へと 他の医師先生方と 出掛けた
私は ルクセンブルク公園のベンチにこしをかけて
スケッチをしていたら
私の疲れもあったので
うとうと 眠りに入り
誰かが声をかけるので 目をさまして見たところ
年増の女性が紙札を出して
見ると腰かけ料 20フラン要求されたりもしました
今となると楽しい思い出でした。
私の当時の小説に上げた写真一枚から
エッセイを描きあげる 私の一族は
上にある事情を知り さぞかし驚いたことでしょう
戦後 医師として研究の為に海外へも行き
施設への視察 研究の合間 時間を見つけては
エッセイとして纏めたり 油絵を描いていました
その油絵は 故郷にて 個別に分けた建物にて
現在も 飾っています。