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渇き

作者: 木下秋
掲載日:2016/10/16

 ここしばらく心身参っていた僕が「治ったんだ」と気付いたきっかけは、『怒り』の感情が湧いて出たことだった。


 よく晴れた秋の日だった。僕が会社に着いたのはいつも通り、始業時間の二十分前で、メールチェックをしながら朝食にコンビニのおにぎりを食べていた。ストレスから胃腸が弱って吐きがちだったが、辛くとも栄養を摂らなければ身体を壊してしまう。身体を悪くすればもろに心も影響を受けて、それが元で体調はどんどん悪くなってゆく。


 最悪のサイクルだった。僕はそれをここ数ヶ月で体験し、治したいと思っていた。死んでしまおうとは思わない。なぜなら、死にたいと思うほどに辛い体験なんて、今までにもう何度か経験しているからだ。人生、嫌なことばかりだとは思わない。腐った世の中だなんて思わない。……ただ、思い通りにはいかない厳しい現実は確かにあった。それでも、僕は生きたいと強く思っていた。逃げたくはない。社会的地位が低くたって、容姿が美しくなくたって、未来に希望が見えなくたって。せめて、せめて逃げずに、正しく生きたい。それが僕の思う美しさだった。


 食後には言葉だけの挨拶を交わす。そして、友人が融通してくれて手に入れた薬を飲む。白い錠剤を一つ。良く効くと評判らしかった。何の合図もなく始業を迎える。皆パソコンに釘付けになって、機械的にキーボードを叩き、マウスを動かした。後ろの方で電話が鳴る。女性の社員が受話器を取り、決まりきった受け答えをする。僕はその人の名前を知らない。


 その日中に取り掛からなければならない仕事が一覧で載った紙が配られる。感情的でいつも不機嫌そうな顔をしている女上司が一つ一つの案件を読み上げて指示を出す。僕は自分と先輩の名前が印刷された部分をマーカーで色付けて、その日の仕事量を確認する。


 読み上げが終わると、僕は一呼吸置いて右隣の先輩に声をかける。「とても今日終わらせられる量ではないのですが」先輩は言った。「まぁ、とりあえずできるだけやってみてよ」


 彼はパソコンのディスプレイを見つめたまま、「そんなこと言われても」とでも言いたげな笑いを見せた。しかし、そもそもその日の仕事が片付かないようであれば早めに声をかけてほしい、と言ったのは彼自身だったのだ。それなのに、彼は僕に対する当たりを強くし、有無を言わさぬ態度で仕事を押し付け、自分は上司に媚を売って気に入られようとすることに一生懸命だった。彼はその女上司の仕事を代わりに請け負ったり、近所のコンビニに入荷した新作お菓子を配って喜ばれるのが何より幸せのようだった。僕の何が気に入らないのか、何か癇に障るようなことをしてしまったのか。僕を苦しめることが楽しいのか、胡麻をるので忙しいのか。それとも僕が苦しんでいることに全く気が付いていない天然さんなのか。わからない。僕には彼が何を考えているのかわからなかった。何せ、まともに話したこともなかったのだから。


 転職してきて一年、何度か話しかけたことはあったし、飲み会で席を同じくしたことはあった。しかし、彼から話しかけてくるようなことは一度もなく、僕の話にも適当な相槌を返すだけだった。いつも決まりきった人としか話さない。彼はそういう人間だった。


 僕は心を落ち着かせて淡々と仕事をこなした。自分に言い聞かせる。『感情を殺すんだ』『僕は金を稼ぎに来てるんだ』。やがて空は暗くなって、眼は乾いた。時計を見れば定時をとっくに過ぎて、気付けば残業している。


 今日はもう上がってもいいですか、お願いします、ありがとうございます。そんな言葉を吐かなければ帰るタイミングを逃す。しかし、どうして僕はこの、横に座る先輩に、『お願い』をしなければならないんだろう。僕は思った。そもそも僕が悩み、苦しんでいるその元凶はコイツだと言うのに。僕が苦しんでいるのを見て楽しいか。僕にお願いをさせて気持ちいいか。上に媚を売る人間は下にも媚を売ることを強いる。僕は先輩の行為を軽蔑していた。反面教師的に、僕は決してこんな人間にはなるまいと強く思っていた。


 『怒り』がこんこんと湧いて出た。それは僕の心を満たしていった。それは、ここ数ヶ月で感じたことのなかった感情だった。なぜなら、心身共に参っていた僕は弱り切っていたからだ。『勘弁してくれ』『お願いします』と懇願する姿勢だった。久々に思い出した感情に僕は動揺した。そうか、こんな僕も居たんだ。助けてくれたのは誰かでなく、薬だった。僕は怒りを覚えた自分が嬉しかった。先輩を殺してやりたいとふと思った。僕は、『治った』のだと実感した。



     *



 先輩に対する殺意は日に日に増した。いずれ殺してやろう、と心に決めた。それは、自分ではとてもポジティブな感情だと確信していた。僕は自分が幸せに生きるために、死んでしまっても全く困らない、むしろ絶対に死んだほうがいい、この先輩を、殺すのだと。


 僕は学生の頃から思っていたことがあった。例えば学級委員を決めるとき、誰も手を上げない。僕はそんな状況が嫌いだった。どうせ誰かがやらなければならないのに、みんな嫌な事を押し付けあっている。例えば飲み会で会社の悪口を言い合っている。愚痴を言い合ってそれで満足。嫌なことがあるなら、変えていけばいいのに。変える努力をすればいいのに。だから僕は手を挙げる誰かがやらなければならないことがあるならば。僕がやってやる。環境を良くするために。より良くするために。だから僕は、彼を殺さなければならないのだと思った。


 口が乾いた。だから僕は水をがぶがぶ飲んだ。おそらく、薬の副作用だった。僕は毎食後薬を飲んだ。薬を飲むたび、僕は自分が元気になっていくのを感じた。よく笑えるようになった。そして僕は有り余ったエネルギーを発散させるように外を走った。同じコースを何周も何周も走った。寝付けなくなった。僕は興奮していた。元気になった。元気になったのだと。僕は嬉しかった。心が良くなれば身体も良くなる。僕は全快しつつあった。


 あるギャング映画で主人公が言っていた。『誰にも見られないところでやるのさ』僕はある日の夜、先輩の後を尾けた。心臓が高鳴り、顔が熱くなる。ついにやるんだ、その時が来たんだと思った。


 そして殺した。



     *



 深夜、ふと目を覚ました。朦朧とする僕の意識は時間をかけて少しづつ、覚醒していった。


 僕はそれが夢ではない事を確認するように、指を擦った。部屋は真っ暗だった。夢を見ていた……その内容を思い返す。確認する。僕が、先輩を殺してしまう夢だった。


 僕はそのあまりにリアルな夢をはじめから最後まで、何度も何度も思い返した。何度か思い返すとその度、そういえばこんな場面もあった、と新しいシーンが追加されていく。


 後ろから忍び寄り、金槌で頭を叩いたその反動。骨が砕ける音。夜の街の匂い。あまりに生々しい。あまりに生々しいので、僕はそれが間違いなく夢であった自信が持てなかった。


 ベッドに座り込み、両手を見る。掌から伸びた十の指。その輪郭を、暗闇に慣れた目が捉える。これは夢じゃない……その確信がある。


 喉が乾く……水が飲みたかった。しかし、確認するのが怖かった。夢の中で血まみれになった。指の、その爪の間に血の赤が見えたら。ーー強い鉄の匂い。指を鼻に近づけて、その匂いがしたら……。


 僕は泣いた。強い後悔と恐怖からだった。滲んだ視界の中でぼやけた指が見える。電気をつけることができなかった。確認するのが怖かった。しばらく自分の手を見つめていた。それは、だんだんよく見えるようになっていった。


 朝になりつつあった。

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