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第七話 宣炸裾


 村一番の勇者だった。

 子供の頃より膂力に優れ、武術を学んだ。大人並の体格となってからは村には自分に敵うものはいなくなった。

 天下一の勇者だ、そう思いあがっていたわけではない。

 この村以外に世界があることなど考えたこともなかったのだ。

 北京の北、満州族が多く暮らすこの田舎の小さな村で、自分は畑を耕し、馬を飼い、妻を娶って子をなしていくのだろうと、子供心に漠然とそう思っていた。

 それは村一番の美少女だった。

 二歳年下の幼馴染は餓鬼大将の自分の後ろ、従えた子分どものさらに後ろからちょこちょことついてくるのが常だった。

 好意、だったのだろうと思う。気恥ずかしさもあってか子供の頃はそれを少し疎ましくも感じていたが、表に出すことまではなかった。子供心にも拒絶によってその顔が曇るのがなんとなく嫌だった。乱暴にすれば壊れてしまうと思えるほどにその姿は華奢だった。

 彼女はそれをいいことにいつまでも自分の後ろをついてきていた。

 子供の年齢を過ぎ、まだ大人でもない頃、自分は餓鬼大将ではなくなった。

 父母が死んだからである、流行り病だった。貧しい家庭にはどうすることもできなかった。残されたものは小さな畑とわずかな家財道具。母より少し後に死んだ父の埋葬を終えたとき、これからはたった一人で生計を営んでいかなくてはならないことを知った。

体は頑健だったから生きていくことはそう問題ではなかった。畑を耕すことも、馬匹を手伝って駄賃を貰うことにも慣れた、それで乗馬の腕はすぐに上達した。自分の力を恐れてか子供と侮って騙そうとするような者もあまりいなかった。

孤独だけがどうしようもなかった、それを一人で癒せるほどには大人ではなかった。

 だが彼女だけが時折、子供の頃と同じように心配そうに自分の後ろをついてきていた。

 困ったように、悲しそうに、そして慈しむように微笑むその顔が、ただただ美しいものであることに気づいたときが青年期の始まりだったのかも知れない。

 自分はいつかこの娘を妻にするのだろう。

 蘭児。

 それが一生をかけて自分が守らねばならない大切なものの名前だった。


 蘭児の父は国の役人だった。それがどれほどのお役目なのかは気にも止めたことがない。自分たちの住むような田舎の小さな村に長く駐在しているということはいずれ大した身分ではなかったのだろう。

 彼女が十六歳になったとき、北京にある紫禁城で選秀女が行われた。

「選秀女」とは広く皇妃を選抜する面接試験である。自ら望んだのか、周囲の圧力があったのかはわからない、が蘭児の父は娘にそれを受けさせた。

 そして彼女は見事に皇妃候補として選ばれた。担当であった面接の宦官には大いに喜ばれたらしい、自分が推薦した皇妃候補が皇帝の後宮で出世することは彼にとっても大きな手柄となることだったからだ。

 辞退などできようはずもない、いや、辞退することなど誰の頭にもなかったに違いない、これは名誉なことであり、一族郎党の富貴が約束されるのだ。

 一度村に帰った彼女は数日滞在しただけで再び北京に戻っていった。

 最後に別れを惜しむ機会が少しでも与えられたのは幸運だったのだろう。

「わたし、皇帝陛下のお嫁さんになるんだ。」

 結局一度も触れることのなかった唇から別れの言葉が紡がれた。

 その時、初めて自分は蘭児を抱きしめようとした、だが弱弱しく拒絶された。

 その顔はいつか見た、困ったような、悲しそうな、慈しむような笑顔だった。あのときと違うのはその表情にこれまで見たことのないような気品がすでに漂っていたことである。その瞳の中で、自分のことはもう過去のものになっていた。彼女の少女時代もまた、その時には終わっていたのだろう。


 彼女は村一番の美少女などではなかった。

 そして自分はまだ村一番の勇者でしかなかった。


 蘭児が故郷を出てから程なくして、自分も故郷を離れることにした。故郷にはもう何も残っていないと思った。向かったのは蘭児と同じく皇都北京である。

 そこで宣炸裾は軍人となった。

 目的があったわけではない、ただ天下一の美少女に相応しいのは天下一の勇者であろう、単純にそう考えただけである。

 そのためには軍人が近道であるかと思われた。また他の選択肢を選ぶような知恵もなかった。

 天下一の勇者となって皇帝陛下より蘭児を取り戻す、何度か夢想はしたがそこまでの気概は持てなかった。宣炸裾にとって権力というものは天災と同じである。疫病によって父母を喪ったように何か抗いようもない強い力によって蘭児を失った、悲しくはあるが、許せないほどの理不尽とまでは思えない。

 それは宣炸裾にとっては永遠に失われたものではあるが、蘭児はまだこの国のどこかで生きてはいる。ならば国を守ることは蘭児を守ることと同義であろうと信じた。生きてさえいればまた会えることもあるだろう。


 軍人として出世するのは難しくなかった。

「よい鉄は釘にはならない」という諺があるが、このあとには「いい人は兵にはならない」と続く。文を重んじ武を軽んじる中華の伝統は女真族の統治するこの時代でも変わらない。馬術に特に優れ、その勇猛さで大陸全土を震え上がらせた満洲八旗の末裔は時を経て次第に堕落し、今の清国軍も歴代王朝のそれと変わることなく上は腐敗の温床であり、下は半端者のふきだまりである。

 その中にあれば宣炸裾の武勇は群を抜いていた。

 時を同じくして清国では太平天国の乱が起こっている。武勲を立てる機会には事欠かなかった。一足飛びではないがただの一兵卒から順調に出世を重ね、一昨年にはモンゴル人の猛将、センゲリンチンの配下で騎兵部隊を率い、太平天国の北伐軍を全滅させる功を挙げた。

 その後幾度か軍組織の再編がなされ、宣炸裾の現在の役職は欽左大臣葉名琛のもと、広州の騎兵総監ということになっていた。いかに乱世とはいえ、二十五歳でのこれは異例の抜擢といってよい。

 蘭児が男子を生んだことを知ったのは昨年のことである。時の皇帝、咸豊帝の世子ということになる。咸豊帝に他の男児はいない、その子が無事に成長すれば蘭児は国母ということになる。

 その時もまた新たな寂しさを覚えた。

 天下一にはまだまだ遠く及ばないまでも、己を鍛え、職務に精励し、自分なりに精一杯のことをして少しはそれに近づいていると思っていた、だが蘭児は自分の歩みなど及びもつかない速さで天下一の美女としての地歩を固めていた。

 蘭児にはもはや自分のことなど必要としていない、そのことはわかっているつもりだった。彼女は待ち望まれていたお世継ぎを産んだのだ、自分が何をせずともその身は母子ともども国が総力を挙げて守ることになる、これ以上の安泰は求めようもない。だが陰ながら力になる、という自己満足に浸ることすら許されないというのはあまりに自分を虚しくさせた。

アロー号の事件が起こったのはそのすぐ後である。これによって国の安全が脅かされる事態が到来したというのは宣炸裾の無意識にとってはむしろ幸運といえた。強大な敵と対峙することは国を、ひいては蘭児を守る軍人としてのおのれの存在意義を明らかにしてくれる。

 英仏軍と直接干戈を交える前に日本行きを命じられたが、このことにも特に不満はない。

 葉名琛は広州軍のみならず、使えるだけの伝手を頼って国全体からこの任務に耐えうる人材を選抜した、自分がその中に選ばれたのは名誉なことだと思った。

 ただひとつ残念なのは、この度の乞師使節の面々の中では非戦闘員の一人を除いておそらく自分が一番弱いのかもしれないということだった。

 正使の林少穆、これはもう自分とは人間の格が違った。自分よりは五つ六つ年上のこの男は何もかもが自分より勝っていた。あと五年、彼の年齢になるまで研鑽を積んだならば武芸ぐらいは並ぶことができるかもしれない、だがそれ以外の見識や学問、それに人徳などは到底及びようがない。

 そもそも軍人になるまで学問をしようなどと考えたことはなかったし、今でも初歩の読み書きができるだけである。軍人になってからも人徳などというものは自分にあるのかないのか、必要なのかそうでないのかということすら考えたことがなかった。センゲリンチンや葉名琛といった尊敬できる上司に出会ってはじめてその概念を知り、だからといってそれを獲得するための何かはしてこなかった、できるとも思わなかった。それは自分には縁のないことだと諦めていた。それが林少穆との決定的な差なのかもしれない。


 副使の丘範、この男はまさに怪物だった。広州軍に来たのはつい最近である、もともとは清国軍の中核をなす緑営に所属していたらしい、これは宣炸裾も同様であるが、その時には面識はない。自分は早くに緑営を離れ、地方軍の所属を転々としている。

丘範の年齢は四十を少し超えたあたり、手足は丸太のように太く、身長は自分よりゆうに頭一つ分は高い。無論自分が小さいわけではない、宣炸裾自身も世間的には長身の範疇に入る、丘範が大きすぎるのだ。そしてその強さは宣炸裾が想像する天下一、天下無双を体現していた。

 丘範に初めて出会ったのは三年ほど前、やはり太平天国の乱の戦場であった。火砲の連射をものともせず僅かの手勢で敵陣に攻め込み、人を紙屑のように蹴散らしなぎ倒すその姿に宣炸裾は憧れ、そしてそれを目指した。

 その後何度も味方として同じ戦場に立つことがあったが、やがてその力量が自分とは全く異なる次元であることを思い知らされた。自分がいくら全力で敵を斬ったところで、人は人としてしか倒れない、幾人をもまとめて紙屑のようになぎ倒すことなど不可能であった。自分だけでなく他の誰もそのようにできるのを見たことがない、もはや生物として自分たちとは違う存在なのだと考えるしかなかった。

 丘範の様であらねば天下一の勇者ではないのだ、そう思ってさらに鍛錬を重ねた。そうして現在、自分はさらに強くなった、しかしその力の差は縮まっているようには思えなかった。丘範は出会った時と何も変わらない、強くも弱くもなっていない、ならば差は縮まっているはずである、それがそのように思えないのはもともとの差が大海のようなものであるからなのだろう。

 月か星に向かって歩いているようなものだ、とはこの数年間何度も思った、今も思う。しかしその歩みを止めようと思ったことは一度もない、止め方も知らなかった。


 通訳の燕黒権、彼もまた自分からすれば信じられないような天才だった。自分よりひとつ下のこの同僚にできないことは何もないように思えた。葉名琛より日本行きを命じられたとき、彼はたちまちどこからか招いた日本人の男を自宅に住まわせ、僅か一月あまりでこれまで学んだこともない日本語を完璧に習得した。その後日本に渡ってからも、あらゆる場面で行き届いた配慮を見せ、彼のお蔭で旅に困ることは全くなかった。

 その能力からわかるように本質的には文官である、科挙を受けようとしているが葉名琛の麾下にいましばらく留まるよう懇願されているという話も聞いたことがある。それでいて武芸の腕も自分と遜色ない、一見軽薄そうにも思えるその外見は細身ではあるが服の下には鍛えられて鋼のようになった筋肉が隠されていた。部隊を率いれば自分に一日の長があるだろう、だがもし一対一で戦うとなれば勝敗はわからない。いや、最初の何回かは自分が勝てるような気がする、しかし一度負けるとそのあとはもう二度と勝てなくなるような、そんな恐ろしさがあった。


 そして同じ護衛士の曹済、彼については得体が知れない、年齢は五十の手前といったところ、一行の中ではおそらく最年長であろう。この者は葉名琛がいつの間にか自分たち一行の中に交えていた。

 総髪であるが、初めて会った時は僧形をしていた、であるからには僧侶なのだろうかとも思う、だがこの男は肉も魚も自分たちと同じように食べた。そう思えば時折瞑想をしたり流暢に何らかの経文を唱えたりしている。

 思い切ってその素性を尋ねたこともある。その時は

「すべて御仏のお心のまま」

 と、要領を得ない回答が返ってきただけだった。

 一応は僧侶なのだろう、それにしては剣も槍も驚くほど上手に使う、心法寺脱出の際はその手に鈎鎌槍(槍の穂先の根元に手前に向けて鎌がつけられたもの)を携えていた。

 だがこの男の本当の技は徒手拳法だという。ならば音に聞く少林寺の僧ということなのだろうか、自分の狭い見聞ではそうと想像するのが精々だった。


 いずれの者も宣炸裾にはないものを持っていた。

 天下一の勇者にはまだなれてはいない。この旅が終わればそれにいくらかは近づけるのだろうか。


 このような場所は郷里にはない、それはあまりにも豊かな景色であった。ここがいずこかその名は知る由もないが、街道沿いの青々とした田畑はたっぷりと水を湛えたまま四方の山々の麓まで続き、それが夕映えを反射してきらきらと光っている。

 痩せた大地に生まれ、その後は荒れた戦場を転々としてきただけの宣炸裾がそれを眩しいと感じたのは光の加減ばかりではない。

「この国は美しいな」

 思わずそのような感想が口から洩れた。清国を発っておよそ二月、思い返せばこの国はどこもそれぞれに美しかった。壮大さであれば紫禁城のほうが江戸の町よりいくらかは上であろう、だがそれは地方から豊かさをかき集め、それを積み上げて造り上げたもののようにも思える。この国はその隅々までが豊かなのではないだろうか。

「何だい、羨ましくなったかい」

 自分の独白にはしみじみとした実感がこもっていたのだろう、それに応える者がいた。心法寺以来たった一人の同行者、侍従女官の凌霜々である。日本語のできない自分のために林少穆がつけてくれていた。女官の体をしていたときは寡黙であったためとっつきにくい印象を持っていたが、江戸を出てからは本来の蓮っ葉な地が顔を出してその距離感が宣炸裾にとって心地いい。

「羨ましいわけでは、いや、羨ましいのかも知れんな」

「あはは、正直で結構。うちの国もこんな風なら良かったんだろうけどねえ」

 その通りだった。もし清国全土がこのように豊かであったならば農民反乱が頻発するようなこともなく、そうであれば西洋諸国に挙国一致の一枚岩となって当たることもできた。現在のような窮状はなかったに違いない。

 ――何が違うのだろう。

 宣炸裾は考えた。

それは水だろうか、この国の水は澄み渡り、見渡す一面の水田を一杯にしてなお余裕がある。驚くべきことにその辺りを流れる小川の水ですらそのまま飲めた。

それは太陽だろうか、日中に降り注ぐ陽光はその水と相まっていったいどれほどの恵みをその大地に与えているのか。清国の太陽は時折くすんだようにもなる、南方ではそうでもないが、北京や自分の生まれた場所に近いところではその頻度は多い。この国に来てからそのような太陽は一度も見たことがない。

「この国をうちの揉め事に巻き込むのは気が引けるんだけど」

「言っても詮なきこと」

 いかに美しい国であってもここは宣炸裾の守るべきものではなかったし、その美しさも蘭児との思い出に比べれば小さなものに過ぎなかった。

「まあもう始まっちまったもんは仕方がないんだけどね」

 凌霜々はそう言いながら腰の双剣を抜いた。

「待ち構えられていたか」

 宣炸裾もすでに来国光を構えている。

 前方の農家と思われる建物から一人の武士が抜身のまま行く手を遮るように現れると、それに十名ほどの人数が続き、半円を描くように宣炸裾たちを取り囲んだ。

 飛び道具を手にしたものがいないのだけは幸いだった。


 二人が捕縛隊の包囲を受けたのは六月一七日、中山道は安中藩上州松井田のあたりである。

 心法寺の時の様にはいかない。

 二人は瞬時にそのことを察している。

 あのときは自分たちが完全に相手の気を呑んだ、初手から反抗の意図を挫いていたためそれは争闘にはならず、混乱にしかならなかった。

 今回はそうはいかない、包囲の者の目にはそれぞれ覚悟が宿っている。何人かの顔には見覚えがあった、あの時何もできなかった者が今度こそはと雪辱に燃えているのかも知れなかった。

 道幅は広い、これでは一人が同時に複数人を相手にしなければならない、しかもご丁寧に逆光になる位置を選んでいる。

捕縛隊がここを捕り物の舞台に選んだのは偶然ではない。宣炸裾らの所在は伊賀者の手によって今朝には捕縛隊の知るところとなっていた。引差勘十郎は先手の者に回り道を急がせ、自らは後詰を伴って気取られぬよう距離を保って後方を追いかけていた。

「そちらの身を守ってやる余裕はないぞ」

「あんたこそ自分の身は自分で守りな」

 二人は同時に道の左右にはじけた。

広いといってもそれほどの道幅でもない。道の両端には水路が流れ、そのすぐ向こうは田圃になっている、ここに足を踏み入れてはならなかった。入ればその時点で泥濘に足を取られて動けなくなる。敵のうちの何人かはもうすでに自ら田の中に入り自分たちを待ち受けている。

 相当の力量差がなければ百戦して百敗する死地に違いない。

 無論警戒がなかったわけではないが、遠い異国のこと、地の利が向こう側にあるのは仕方がなかった。

「シャア!」

 宣炸裾は気合とともに右端の侍に斬りかかった。

 肩口を狙った初撃は受け止められたが、それを横に滑らせるようにしてさらに頭を狙う。

 頭蓋を断ち割るようにはいかなかったがその剣先は侍の頭に一寸ほど食い込んで片目を奪った。

 本来ならばその者はそれで終わりのはずだった、清国兵なら間違いなくそうだ。

 だが彼は失った片目を手で押さえ、なおも片手で刀を構えていた。残った眼で自分を睨みつけて闘志は衰えていない。

「何なのだこいつは!」

 片手持ちの太刀など怖くはない、二撃目でその刀を腕ごと斬り飛ばす。しかしその男はそれでも終わらなかった。無手のまま体勢を低くし、長さの異なってしまった両手で宣炸裾の腰にしがみつこうとしてくる。それは宣炸裾の知らない兵士の姿であった。これほどの重傷を負ってなお戦意を失わないとは清国の常識にはありえない。これは巷間の物語にある死者の兵というものではないのか、そうも思った。

 心中は動揺を隠せないが、身体は勝手に動いた。地を蹴り、背中を踏み台にしてその手を逃れる、乗り越えざまに延髄を斬った、それでようやくその男は動かなくなった。

 その間に前後を挟まれていた、その者たちもたった今味方が命を失ったというのに怯む様子はない。

 前後が同時に斬りかかってきたので地を滑るように体を躱し、前方の一人の脛を払った。片足を喪った男は体勢を崩し、後方より斬りかかってきた者と絡み合って足が止まった。そこを背中から二人まとめて突き刺し、下方に向かって切り裂く。いくつかの臓物がこぼれ落ち、足元に血だまりを作った。

 その二人はさすがにそこまでだった、もつれ合うようにしてその場に倒れた。それでも最期まで身をよじり何とか反撃しようとしていたのは見て取れた。

「何なのだこいつらは!」

 宣炸裾は恐怖を覚えた。彼我の力量差には未だ大きく隔たりがある、この程度の相手に身の危険を覚えるほどではない、だが自分が感じているものは間違いなく恐怖の感情だった。

 見れば凌霜々も苦戦していた、いや、苦戦でもないのだろう、手傷も負わず呼吸も荒げぬまま自分と同じように三名を倒している。だがその表情には自分と同じ恐怖が滲んでいた。

 戦場では敵兵を殺すよりも負傷させる方が効率がいい。死者の損害は一名だが、負傷させればそれを救護するのにさらに一名以上の離脱者を必要とするからだ。その常識がここでは全く通用しない。

 残り五名、位置関係はすでに入れ替わっていて今度はこちらが夕日を後ろにする格好である。田に入って待ち構えていた者たちも味方の不利を悟って街道に戻ってきていた。

 自分たちが来た方向からは遠くに砂煙が上がっている、おそらく敵の援軍が到着したのだろう、ぐずぐずしている暇はなかった。

 凌霜々とわずかに目を合わせ、同時に斬り込んだ。


 殺しはしないが戦力は奪う、その目的は達成させるまでそう時間はかからなかった、呼吸にして二度三度、そのあたりだろうか。

 包囲網の半分は息絶え、生きている半分も地に伏せて呻いている。

 この状況で押し寄せる援軍がどう動くかはわからない、さすがに負傷者の救護にあたるとも思われるし、それを差し置いてなおも自分たちを追いかけようとするかもしれなかった。

 それでも宣炸裾は凌霜々とともに逃走を選択した。

「弱いくせにめちゃくちゃな相手だったねえ、逃げて正解だよ」

 凌霜々の感想には同感だった、あのような連中をいつまでも相手にするといつか必ずこちらの精魂が尽きる、それは意外と早い段階で訪れるかも知れなかった。

 初夏の長い夕刻もそろそろ終わりを告げようとしている、このまましばらく走れば夜陰に紛れられるはずだ。

自分たちの闘争をよそに街道沿いの田畑は相変わらず豊かに深い緑を茂らせていた。すでに薄暗くはあるがその緑はいまだ瞳に鮮烈だった。

 ――我が国との違いは水でも太陽でもなく、人なのかも知れない。

 走りながらふとそのようなことを考えた。

 この豊かさは先程戦った者たちのように死に物狂いで築き上げてきたものなのだろうか、それが答えなら充分に納得ができた。

 しかしそうであればこの道行きに待ち受けているものもまたそのようなものなのだろう、あるいはさらに想像を絶するものなのかもしれない。

 目的の場所へはまだまだ遠かった。


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