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第五話 上野浄満寺


 篠原弓太郎は上野浄満寺への道を急いでいた。

 引差勘十郎に捕縛隊への参加を断られた次の日のことである。

 父の復仇を諦めきれず伝手を辿っていたところ、新たに御先手組より編成される捕縛隊とは別の追討隊が募集されているということを聞きつけたためである、それが浄満寺にて受付されている。

 この追討隊は練兵館ら江戸市中のいくつかの剣術道場の斡旋で旗本、御家人の子弟を中心に選抜されているらしい。これに手柄を立てれば報奨金のみならず新規召し抱えもあると噂されていた。これは部屋住みで養子の口を探している武士の次男坊、三男坊には絶好の餌であろう。

 だがこれはすでに家督を継いだ弓太郎には関係のない話である。問題はもはや歴とした旗本であるところの自分の参加が許されるかということである。

――構うものか、父上の仇もとれぬうちにどの面さげて御旗本などと言えるか。

 どのように偽ってでも参加するつもりでいた。

 浄満寺が近づくにつれ、道沿いに若い武士たちの姿が増えてきた、浪人らしき姿もある。彼らもまた討伐隊への参加希望者なのだろう。

その瞳は一様に希望に燃えている。今の世に新たな仕官の口などないといってよい、これは降ってわいた好機である。

だが同時に殺伐とした気も放っている。彼らと同じく浄満寺に向かう面々は同じ目的があろうとも戦友などではない、ただの競争相手である、誰が強敵か、あるいは利用できるか、値踏みするような視線が飛び交っている。

ここでは自分だけが異端なのだろう。自らの力で禄を得んとする彼らからすれば、家禄を継いだ身で父の仇を報じたいなどとは贅沢な望みに見えるのだろうか。

「ふざけるな!」

 間もなく浄満寺、といったところで人が遠巻きに輪を作ったあたりから怒気を孕んだ声が聞こえた。

 喧嘩だろうか、と弓太郎ははたと足を止めた。野次馬とは武士として恥ずべきふるまいだが、周囲のぴりぴりとした空気の激発であろうかと何とはなしに気になってしまった。

 人垣の奥には旗本の子弟と思えるような身なりの良い、自分と似た年恰好の者たちが三人、気弱そうな中年の男に詰め寄っているのが見えた。男の方は浪人のようにも、町人のようにも思えた。

 三人の中でもっとも体の大きな男が激昂し、あとの二人は下卑た顔でにやにやと成り行きを見守っている。

 こういう光景はこれまでに何度か見たことがある。何があったかなどはもはや興味がない。若党たちが衆を恃んで中年男の些細な振る舞いに因縁をつけているだけだった。

武家の嫡子たる者はたとえ大身の旗本であろうともほしいままの傍若無人は許されない、喧嘩揉め事以ての他、家名第一と行いを慎むことを余儀なくされる。

だがそうでない旗本の次男坊、三男坊の身分は家名に準ずる扱いであるが、それは家が偉いだけで彼ら自身は実のところ何者でもない、嫡子に何かあればその代わりとなるだけで、それがなければ一生を日陰物で終える厄介者にすぎないと承知している。そんな気持ちは彼らを卑屈にするか、殊更に居丈高になって弱い者いじめをさせるかのどちらかである。

「貴様! どういうつもりだ!」

「お、お許しください」

「いや、許さぬ」

 若者が自らの腰に手をかけ、ずい、と男ににじり寄った。

許すことなどなにもない、若者ははじめから男を弄るつもりなのだ。討伐隊参加の景気づけのつもりでもあるのかもしれない。

 人垣の中には仲裁を買って出るような者はいない、このような小事に下手に関わればお咎めを受けるかも知れぬ。誰もがこの後に重要な用を抱えている、それを不意にするようなことは避けたかった。

 ――止めねば。

 弓太郎は思った。父がこのような場面に遭遇すれば黙って見ていたはずはない、おのれがその跡を継がんとするならばやはり父と同じようにしなければならない。

 割って入ろうとした、だが人が邪魔になった。周囲に頭を下げて割り込もうとしたがすでに遅かった。

「抜け!」

「ひいっ」

 若者の剣幕におされて男は反射的に太刀を抜いてしまった。一方若者の手は腰に当てられていたがその刀は刺さったまま鯉口も切られていない。

 ――いけない。

 いかなる事情があったにせよ、先に刀を抜いた以上非は男の方にある。若者はやむなくそれに応戦しただけ、とされてしまう。

 この後血を見ることになったとしてももはや弁護はできない、これは士道不覚悟である。

 若者の口が残忍な笑みをたたえた。こちらは悠々と自らの刀を抜き放った。

 巻き添えを食らってはかなわぬとその取り巻きたちが距離をとり、決闘、いや一方的な嬲り殺しのお膳立てを整える。

「覚悟はできておろうな」

 そう言いながら上段に構えをとる。これまで鍛えてきたのだろう、その姿は達人、名人などには到底及ばぬが恵まれた体格も相まって充分な熟達を感じさせる。対するはこれは中段の構えとも呼べぬへっぴり腰、心中の動揺そのままに切っ先はふらふらと震えている。

「おうりゃぁ!」

躊躇も見せず若者は男に向けて刀を振るった。

 それは斬りつけたつもりでもなく、まずは小手調べと自らの実力を誇って見せたのだろう、それは男の構えた刀に当たった。

 その体格に見合った膂力、手元も覚束ぬ男の刀はただ一撃で弾き飛ばされた。

 しかしこれで勝負あり、とはならなかった。

 嗜虐心に火が点いたか若者は刃を向けたままさらに男ににじり寄った。

「お許しくだされ、お許しくだされ」

 詫びの言葉に耳を貸すようなそぶりはない。懇願する男をここからどう料理してくれようと思案しているようでもある。さすがに丸腰になった相手を斬るわけにはいかないが、土下座を強要するかそれとも草履でも舐めさせるか。

「うわぁ」

 そこで窮した男がやにわに刀を持つ若者の手を掴んだ。

「貴様っ」

 ここで押し合いになった。

 力では若者に分がある。だが男はその貧弱な肉体の力の限り若者の両手を押さえ、迫る刃から身を躱そうと左右に体をねじる。若者はなんとか男の体を正面に捕え、へし斬るように刃を向ける。

 真剣ではあるがどこか滑稽な力比べが続いた。

 やがて男は若者の握りを支点に体を翻し、若者とその刀との間に潜り込んだ。背中を向けて若者の腕に跨る体勢となったのだ。

「何をするか!」

「ひいぃ」

 若者は男を振り落とそうとした、男は必死で振り落とされまいと抵抗する。

 くるくると体勢が入れかわり、弓太郎の場所からは若者の背中に隠れて男の姿が見えなくなった。男がもぞもぞとして何か抵抗しているようだが、何をしているかまではわからない。

 そのうちにぽとぽとと何かが地面に落ちるのが見えた。

「があっ!」

 若者が何かを叫んだ。

 さらにまた何かが続けざまに落ちた。

 そして若者は握っていた太刀を取り落した。

 そこで男は若者から離れた、この時に初めて脇差を手にしていたことがわかった。ぎこちない所作で脇差を腰に戻し、転がっていた自らの太刀を拾うとそのまま浄満寺の山門の方へ逃げ去ってゆく。

 残された若者は泣き叫びながら地面をのたうちまわっていた。その両手には親指以外のほとんどの指が失われていた。

――無残な。

 何があったかは明白である。あの男は若者の腕に跨りながら脇差でその指を切り落としたのだ。握る指がなくなれば太刀を持つことはできない、あまりに当然のことである。

 若者にとっては自業自得である、とは弓太郎には思えない。勿論男が斬られるべきであったとも思わないが、その結果は若気の至り、浅慮の代償と言うにはあまりに大きすぎた。彼が喪ったのは指だけではない、自らの強さも、将来の希望も、武士としての名誉も、今後その手で握ることは叶わないのだ。

同時に得体の知れない恐怖が弓太郎の背中を駆け上がって来ていた。

騒ぎはいまだざわざわと収まってはいないが、これ以上この場にとどまる気にはなれず、逃げるように人垣に背を向けた。

 ――何だったのだ、あれは。

 かの者が実力を隠していた、とは思えない。見たままがあの中年男の強さの全てであったと思う。だが男は窮地を脱し、若者は地に呻くことになった。

 ――実戦とはあのようなものかもしれない。

 弓太郎はそう思った。さっきのことが実戦と言えるのかどうかは定かではない、若者にとっては遊びであり、男にとってはただの災難であっただろう。それでも刃は交わされ、取り返しのつかぬ結果が生まれた。そこにあったのは弓太郎がそうと信じていた剣術のやりとりなどではなかった、それは人としての鬩ぎあいなのではなかったか。

懸けるのは力ではない、自らの全てを懸けるのだ。それは無様なふるまいではあったが、結局は男の持つ何かが若者に勝ったのだろう。

これまでは父が斬られたこと、その復仇を果たすことしか頭になかった。自らが実際に敵と対峙することを現実のものとして考えてはこなかった。

 ――父はおのれの全てを懸けて、そして敗れたのだ。

 それが戦うということなのだろう、そのことを今はじめて理解した。

引差勘十郎宅で涙を見せた自分のなんと浅はかであったことか、あれでは指を千切られた若者と何も変わることがない。

――覚悟がなかった。

今の自分の全てが父の全てに勝るものだとは思えない。

 それでも引き返そうとは思わなかった。

 弓太郎は浄満寺の山門をくぐり、この先の戦いへと身を投じた。


 討伐隊参加への手続きに懸念したほどの何事もなかった。

 面接は二言三言、係りの者に心法寺での一件が伝わっていないのか、このようなものに歴とした禄を受ける旗本が参加するなど思いもよらぬことなのか、弓太郎はごく普通に旗本篠原弓衛門の一子としてその中に名前を連ねることができた。武芸も流派を聞かれただけで、その腕前を試されることもなかった。

「この人数ではそのようなこともままならんわ、あとは実地にてその勇を示せばよい」

 係りの者はそう言った。

 確かに多い、ざっと見たところ参加者は二百名前後だろうか、寺の講堂は広いがそのなかには入りきらぬ人数である。

 江戸進発は明後日であるが、中には気も早く鎧甲冑に身を包んだものさえいる。

 弓太郎の後には馬を曳き、大弓を背負った者が続いた。これはさすがにやりすぎだろうと思った。

「普賢大友流馬弓術、大友凌河でござる」

 よく通る声でそう名乗った。なかなか立派な佇まいである。

 普賢大友流など聞いたことはないが、馬弓術、その大時代的な言葉に弓太郎は心惹かれた。

 武士の道は弓馬の道、とも言うが、この時代、弓術も馬術もその命脈を細々と保っているだけに過ぎない。弓術ならばその初歩程度は心得のある武士も少ないとは言えないが、馬術に至っては三千石以上の旗本か大名でもないと馬を持つことすら困難である。

 しかもこの国では弓騎兵の伝統は鎌倉時代に廃れてしまっている。戦国以降、弓兵は徒歩というのが常識である。

「気になってござるか」

 弓太郎の視線に気づいた大友凌河が参加の手続きを終えて話しかけてきた。

「非礼でござった、お許しあれ」

「何、構わんでござる、この泰平の世の中に馬弓術とはあまり聞かぬゆえ見られるのには慣れてござる」

 凌河はそう言って笑った。歳は弓太郎より五つ六つ上であろうか、だがその笑顔は邪気を感じさせない爽やかなものである。

 聞けば凌河は近在の郷士であるらしかった。

 郷士の意味合いは藩によってまちまちであるが、この場合は武士の身分を持つ農民、ということになるだろうか。

「家伝ゆえ幼少より修練を積んで参ったが、これまで披露の機会などありはせなんだ。じゃがようよう日の目を見るときが巡って来申した、せいぜい武勲でも立てて大いに家名を上げたいものですな」

 これが大小差はあれどこの討伐隊に参加する者の大方の偽らざる気持ちであろう。

この二〇〇年あまり日本全国津々浦々、浪人、郷士、部屋住みというものは、みな仕官することに一縷の望みをかけてそれぞれに腕を磨いてきていた、そしてそのほとんどの者が自らの腕前を発揮することもせぬまま朽ちていったのだ、それを思えばたった一度きりでもその機会を持てたことは僥倖に違いなかった。

大友凌河の意気込みを嗤うことなど誰にもできないだろう。


 やがて討伐隊員となった弓太郎らは境内の庭に整列させられた。

 ずらりと並んだ隊員たちの前でさまざまの諸注意が通達された。

 やはり新規召し抱えは事実であったらしく、十両二人扶持、との具体的な待遇が告げられると

「おおっ」

との深いどよめきがあがった。けして高給ではない、年に十両の俸給と二人が食べられるだけの米が与えられるだけである、それでもここにいる多くの者にとってはどうしても得たい侍の身分であった。

最後に斎藤弥九郎が寺の縁側を壇上に見立て前に立った。

「練兵館の斎藤弥九郎である。」

 有名人である。剣術を学ぶものであれば知らないものはいないだろう生ける伝説でもある。何を言うのかと弓太郎の胸にも期待と緊張が走った。

「此度の討伐隊に多くの若者が集まったこと、剣の先達として大いに嬉しく思う。諸君らがそれぞれに精進をかさねた武勇を発揮し、名誉ある功を立てることができたならばこれに勝る喜びはない」

 しかしここで斎藤は居並ぶ面々にいきなり冷や水を浴びせた。

「だが思いあがってはならぬ、この任務で死ぬことは堅く禁ずる。敵に相対して敵わぬと思えば早々に逃げるがよい、お主らごときの若輩が逃げたとて大勢に不都合などない、幕府には他にもつわものが多くいるゆえ、別の誰かが必ずそやつらを討ち取ってくれよう、不名誉とはならぬゆえ安心して背を向けるがよい」

 さすがにこれは追討隊への侮辱と捉えられた。我らの腕を軽んじるか、と聴衆たちにいささか怒気を含んだざわつきが湧く。

 だがそのようなことは意にも介さず斎藤はさらに訴えた。

「これを最後の機会と思うな。癸丑(一八五三年 ペリー来航)以来、天下は俄かに騒がしくなってきておる、諸君らの研鑽した武勇を披露する機会はこの先いくらでもあるだろう。此度のことはその予行演習とでも思うがよい、くりかえすがいくら逃げても御咎めなしじゃ、武士としての不覚でもない、かの東照大権現様ですら生涯に負けたことも逃げたことも何度もある、それでも見事天下人となられたのじゃ、諸君らが逃げたところでけして恥ではないぞ、のちの大業も命あってのことじゃ」

 さらにざわつきが増す、ややもすればこれは大いに問題発言とされるかも知れない。悪意のある取り方をすればこれは幕政批判であり、この討伐隊の実施に対する批判であり、神君家康公への不敬である、さらには不吉ですらあった。

「もはや逃げられぬ、となって初めて命を捨てよ。命を捨てて一個の剣となれ。さすれば活路はある」

 斎藤の訓示はさほど長くもなかった。

「生きて、戻れ」

 斎藤がその場から姿を消しても未だに周囲はざわついている。

 だが弓太郎はそれらに同調することもなく、奇妙に得心がいった。

 門前での喧嘩のこと、大友凌河のこと、引差邸でのこと、そして父のこと。

 戦うということを甘く思っていた、仇討と言う言葉に酔っていた。実戦を知らぬ者の自負に一体どれほどの意味があるというのだ、斎藤先生のような者から見れば我らは皆危ういのだ。

 弓太郎自身は父と同じく新陰流を学んでいる、だが斎藤の言った通り生きて戻ったならば練兵館の門を叩いてみるのもいいだろう、そう思った。


 六月一二日、討伐隊五組二〇四名は予定通り江戸の町を発った。


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