第四話 江戸城周辺
時は少し遡る。
久世広周は引差勘十郎との面会の翌日、さらなる対応策を相談するため独りとある場所を訪ねている。
下総関宿藩五万八千石の藩主、堂々たるお殿様である。しかも御老中という要職にある者が供も連れずとは異例中の異例であるが、その理由はこれから会う相手の身分が登城許可を取るのに手続きがいささか面倒だからである。この緊急時に余計な煩雑さを抱え込むくらいならこのほうがよほど楽であった。誰にも見つからなければ、という条件がつくが。
これまで非公認ながら幕府の知恵袋といえば佐久間象山である。だが彼は先年の吉田松陰による密航事件に連座して現在信州松代に謹慎させられており、江戸にはいない。
代わって久世が目を付けたのが村田蔵六である。彼はその語学力を買われて昨年蕃書調所教授方に採用されていた、だが久世は蔵六の本領はその語学力よりも軍事の才能にあるのではないかと睨んでいる。ただこの時の蔵六は同時に外様である宇和島藩の藩士でもあった、これは幕府の機密を共に謀るには不都合すぎた。
村田蔵六は麹町に鳩居堂という蘭学塾を開いている。江戸城からは目と鼻の先、駕籠に乗る手間すら惜しい距離である。
塾生の案内を受け久世は蔵六の部屋に通された。
ことのあらましは昨日のうちに書面で伝えてあった。
「心法寺の件でありますな」
茶のひとつも出すわけではなかった。
別に偉そうにしたいわけではなかったが、御老中がお忍びで訪ねてきたとなればもう少し恐縮しても罰はあたらぬと思う。だがこの塾の主はそのようなこと意にも介さない。そのことが逆に久世には新鮮でもある。
「連中の向かった場所はやはり京であるか」
「そのようでありますな」
「やはり奴ら自身が言った通り陛下に拝謁して勅許を得るつもりか」
その質問に対して蔵六にしては珍しくやや答えにくそうなそぶりを見せた。
「私が懸念しているのは彼らが陛下を亡き者にしようとしているのではないかということであります」
「馬鹿な! そのようなことをして何になる」
「同じことなのであります」
どう同じなのだ、と問い返す機先を制して蔵六が続けた。
「陛下が乞師を承諾されるとお思いでありますか?」
「軽々にはされぬであろうが、ないとも言いきれぬ」
今上陛下が西洋人を夷狄として嫌い抜いているのは公然の事実である。彼らに唆されれば、中華と連携すれば攘夷がなる、と信じ込むおそれがあった。そこまではなくとも興味を覚えられるであろうことは間違いない。
「ではもし陛下が清国への援軍を承知したら幕府としては如何するでありますか」
「それは時間稼ぎでもして誤魔化すしかあるまい」
「でありますな、結局は彼らにとって何の益もないことであります。その程度のことは彼らも読むであります」
天下の兵権は当然のことながら幕府にある、朝廷がいかに強く要請しようと幕府が許さなければ一兵たりとも動くことはない。あとは清国での兵火が治まるのを待てばいいだけのことである。
「では万が一陛下が彼らに弑された場合はどうでありますか」
本来ならば考えることすら不敬なことである。が、久世はそうなった場合を想像して慄然とした。
「そ、そのようなことになれば」
まず幕府の体面は丸つぶれである。それだけならまだいいとしよう、だが放っておけばどうなる。現在でも開国問題に関連して朝幕の間には軋轢がある、その上でそのような失態を許したとなれば神州統治の資格なしと朝廷、外様大名、こぞって幕府を非難しよう、水戸家を筆頭として御三家、親藩でも例外ではないかもしれない。そしてそれは朝廷を中心とした反幕連合となるであろう。それに反論できる名分は幕府側にはなにもない。
「幕府は終わりじゃ」
「であれば幕府としては膺懲の軍を起こすしかないのであります」
すべてを納得させる行動を起こさねばならない。それはやはり清国に攻め入り何らかの清算を要求すること以外にはありえない、それも文句の言えぬ速さで。
「だがそれでは目的は真逆ではないか、奴らは援軍を求めて来ておるのだぞ、わざわざ敵を増やしてどうなるというのだ」
自ら口にしておきながら久世はその言葉の寒々しさに気づいた。
そうなのだ、清国は我が国の援軍に一体どれほどの価値を認めているのだろう。我が国が長らく戦を経験していないことは百も承知であろう、ならばせいぜいが敵の標的を分散する盾にでもなれば、程度にしか考えていないのではないか。
逆の場合、清国からすればこの先このままイギリス・フランスとの間に戦端が開かれた場合もとより勝ち目はない。そこに敵として我が国が加わったところで結果は同じである。敵の敵は味方と言う言葉もあるが、無能な敵もまた味方である。イギリス・フランス両国からしてみれば練度の低い我が国の軍勢は助勢などではなく単なる邪魔者でしかありえない。この戦いで獲得するであろう権益を我々と分け合おうなど露も思わないだろう。下手をすれば我が国に対する攻撃の口実を作ることになるかもしれない。
「お気づきになられたようでありますな、彼らはすでにいかに負けるか、ということしか考えておらんのであります。我が国を巻き込むことができればそれだけで将来の捲土重来の布石となるのであります」
「ならばなぜ彼らは江戸まで来たのだ、狙いが陛下の玉体にあるのであれば長崎から直接京へ向かえば良かったではないか」
「それでは単に狂人の仕業となるであります、清国の責任を問うような事態にはならないのであります。彼らがわざわざこちらまで来た理由は宣伝と、御公儀の失態とするためであります。清国から密使が来たこと、それが騒ぎを起こして逃げたこと、秘密にされているようですが既に知れ渡っておるのであります」
蔵六の言う通り、幕府としては彼らを一応は正式の使節として遇してしまっている、いまだ幕府の管轄下にあれば偽物として処罰もできたであろうが、逃亡を許した今となってはそれもできぬ。
詰んでいる、あとは最後の一手、暗殺の達成を残すのみではないか。
知らぬうちにすでに外堀は埋まってしまっていた。たかだか七名の人間に幕府の威信がここまで揺らがせられることになろうとは想像の埒外であった。
こうなれば一刻も早く連中を討ち取る以外の方法はない。そしてそれは七名の人間を討ち取る、という言葉よりははるかに難しいことなのだろう。
彼奴らは本邦の情勢を極めて正確に把握し、分析している。そして最小の労力で援軍を引き出すための手立てを打ったのだ。海の向こうに一体どれほどの知恵者がいるというのか。その知恵者がそれを達成できると踏んだ刺客はどれほどの力を持っているのか。
「あ、あくまで可能性の話であろう」
久世は言葉を絞り出したがその言葉に自信が持てない。このようなものは自分が安心させて欲しいだけの意味しかない。
「そうであります、可能性に過ぎないのであります、自分の言葉を証明する方法はないのであります」
だがやはり蔵六は安心させてはくれない。
「す、済まぬ、これにて失礼いたす」
もはや悠長にしている時間はない、急ぎ戻って善後策を整えねばならぬ、直ちに討伐隊を増員し、京都所司代に早馬を飛ばして事態の重大性を周知させねばならない。
「待つのであります」
蔵六は慌てもせずそれを止めた。
「ひとつ策をお渡しするであります、それを持ち帰っていただきたいのであります。」
「策、策と! 一体どのような」
「それは口では申せぬであります、ですがこの村田を信じていただければありがたいのであります」
溺れる久世に掴むべき藁の存在を示し、蔵六は隣室に入っていった。
やがて墨をすり、筆を走らせる音が聞こえてきた。それを待つ時間はひどく長いもののように思えた。
実際はそれほど長い時間ではなかったのであろう、蔵六が書き上げたばかりの書簡を持って戻ってくる。それには厳重に封がされていたが宛名も署名もなかった。
「阿部様だけにお見せするであります、決して中を見ませぬよう、私の名前も絶対に出されぬようお願いするのであります」
のちに火吹き達磨と渾名されるぎょろりとした眼が久世を見つめた。
無言で頷くことしかできなかった。
久世があたふたと蔵六の元を辞し、次に向かったのは江戸の三大道場のひとつ、神道無念流の練兵館である。鳩居堂からはさほどの距離ではない。
こちらにも昨日のうちに手紙を届け、追加の捕縛隊の編成を依頼していた。引差勘十郎の捕縛隊と区別するため、こちらは討伐隊と呼んでいる。
昨日の段階ではこれは念のための措置でしかなかった、昨日の手紙には、可能であれば、との文言も含まれている。だが蔵六との話を経てその重要性は格段に増していた、もはや可能であればどころの話ではなく、断固として行ってもらわねばならない。
だが練兵館館長、斎藤弥九郎の返事はにべもない。
「大変申し訳ございませぬが、この儀につきましてはお断り申し上げます」
無人の道場で二人は向かい合っている。
そこで神棚を背にし、斎藤は慇懃に頭を下げた。斎藤は幕府とは縁が深い、正式にではないが軍事顧問のようなこともしている、頭から断られるのは久世の予想外であった。
「な、なぜだ」
久世は斎藤に対してさらなる説明を加えた。
連中の目的が推測された今となっては討伐隊の編成、さらには増員が全く叶わぬというわけにはいかない。
だが斎藤の答えも変わらなかった。
「拙者の方でも調べさせていただきました。事件当日の警備にわが道場の門弟もおりましてな、その者よりどのようなことがあったのか、下手人どもの様子と併せて聞いております」
「それが、断る理由になるというのか」
「門弟には荷が重すぎます、あたら有為の若者をむざむざと死地に送るわけには参りませぬ」
「だがそのようなことを言っておるわけにはいかぬのだ、この国の命運がかかっておる」
「おそらくはこの斎藤弥九郎よりも強いかと」
馬鹿な、と久世は思った。斎藤弥九郎と言えば当代有数の使い手である、その彼よりも強いというのは剣術の苦手な自分には想像できなかった。
「なぜそのようなことがわかる」
「拙者には鉄の棒で石灯籠を斬るなどという芸当はでき申さぬ」
確かにそのような報告があった、だがあまりにありえぬことだと顧慮してはいなかった。しかし斎藤道場の門弟が見ていたとあれば眉唾でもないのだろうか。
「あとはひとことで申せば場数の違い、でしょうな。拙者でも真剣での勝負は数える程度しか経験がありませぬ、ですがおそらく彼らは実戦の中でこれ以上ないほどに鍛えられております。であるから番士の面々もその気を呑まれざるを得なかったのでしょう。うちの道場剣法しか知らぬ門弟でも同じこと、虎の檻に兎を投げ入れるようなもの、どれほどの人数を揃えたとて問題にはなりませぬ。」
それに生き延びることができれば兎も虎になりましょうが、と斎藤は付け加えた。
「ですから、この斎藤が参りましょう」
「今、斎藤殿でも勝てぬと仰られたではないか」
「強い、と申し上げただけです、勝てぬとは申しておりません」
ややあって斎藤が言いなおした。
「いや、勝つこともできませぬな、倒せるだけです」
「勝つ、と倒せるとはどう違うのだ」
剣術の機微は久世にはよくわからない。斎藤が説明を加える。
「斬られぬように斬ろうと思うから斬れぬのです、どれほど強い相手だろうと斬られることを問題にしなければ斬るのは簡単です」
「それは相討ち覚悟、ということか?」
「そう言われれば身も蓋もありませぬな、死中に活、ということにいたしましょうか」
はっはっは、と斎藤は笑った。なぜ笑えるのか久世にはわからない、この男は今から死にに行くと言っているのだ、事もなげに。
「賊は七名と言いましたな」
斎藤は指折り数えた。
「拙者、息子の新太郎、桃井春蔵、千葉定吉、重太郎、男谷精一郎、といったところですかな、島田虎之助が生きておれば良かったのですが」
面識はないが名前だけは知っている、いずれも一流の道場主である。斎藤が推薦するのであればその力量もまた一流なのであろう。
「はじめから死ぬと決めてかかれば案外死なぬこともあるものです。また向こうも全員が全員強敵ということもありますまい。まあ六人もいれば誰かが生き残りましょう、それが残った一人を片付けるということで」
「か、彼らが承諾するのか?」
「するでしょう、道場主とはみなそのようなもの、師匠の都合で弟子に死んで来いとは言えませぬ。また弟子の命が自らの命で都合がつくならそれも嫌とは言いますまい。ただ今回ばかりはどうも相手が悪い、それなりの者でなければ仕事は務まりませぬ」
「それが先ほどの面々だと」
「そうですな。いや技術としてはそう難しいことではないのです、わが道場の中伝程度の腕前があれば宮本武蔵が相手でも相討ちなら倒せましょう。ただおのれの身を虚しゅうするところまで精神を練ること、また相手にそれを悟らせぬことは奥義に等しい」
いや、いやいやいや、久世は頭の中で打ち消した。このような提案を受け入れてはならない。彼らが一斉にいなくなるようなことがあれば江戸の剣術の火が消える、それはこれからの若者を導くものがなくなるということだ。
「困る、いや困ります、斎藤先生にはまだまだしていただかなくてはならぬことが多すぎます」
何卒、何卒、と久世は道場の床に這いつくばって何度も頭を下げた。
これには斎藤が驚いた。村田蔵六とは違い、斎藤は相手の立場を慮る。これはご老中様ともあろう方が一介の道場主に過ぎぬ者にとる態度ではない。
「おやめ下され、久世様がそのようなことをしてはなりませぬ」
「ご承知くださいませ、先生に死なれるわけにはいきませぬ」
久世の言葉遣いも平素とは違うものになっている。
この人は後進のためにおのれが死ぬ、との決意を固められたのだ、それをさせたのは自分である、この度の事態を甘く見た自分の迂闊さである。そんなことのためにこの人を死なせてはならない。
「討伐隊編成の儀、何卒お聞き届けくださいませ」
「……困りましたな」
結局、久世が斎藤を押し切る形となった。
斎藤としては苦渋の決断であったが、禁裏の危機と言われては承知するより他になかった。
この時代の常識として勤皇精神は大小の差はあれ全ての武士が持ち合わせている。それは何よりも優先しなければならない公であった。
その前には斎藤が弟子を思う気持ちもまた私事にしか過ぎないのである。
討伐隊の結成は約束された。
「せめて訓示のひとつでも垂れさせていただきましょう」
生き残る確率を少しでも高めること、それぐらいはまだ斎藤にできるかもしれなかった。