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第三話 日本乞師


 日本乞師。

 歴史用語としてもあまり馴染みのない言葉であるかもしれない。

 日本はそのまま日本、乞は請い願う、師は軍隊である。

これは十七世紀の半ば、明国が清国によって滅ぼされたのち、その亡命政権が明朝再興のために徳川幕府に対して援軍を求めた行動を指す。国姓爺として有名な鄭成功などが都合十回もの使者を幕府や琉球に対して派遣している。

現在では荒唐無稽なものにも思われるが、当時の政治情勢を考えれば幕府による援軍の派遣は決して実現性のないものではなかった。幕閣内部の意見は賛成、反対、拮抗していたといってよい。

この頃の国内問題で最大のものは浪人の処遇である。戦国の時代を終えていまだ巷には多くの浪人が溢れていた。彼らはそれぞれに仕官すること、叶うことなら戦国の世の再来すら望み、国内治安に多大な悪影響を及ぼしていた。

 事実、乞師の使者が初めて訪れたのが一六四五年、その六年後には浪人の不満が原因とされる由井正雪の乱が起こっている。

 明からの要請に応じて大陸に援軍を送ることは幕府にとっては不穏分子の厄介払い、浪人たちにとっては新天地での立身出世、双方にとって益するものと思われた。

 明国が衰亡したことは豊臣秀吉の唐入りにも原因がある。明国征服が計画された理由をのちに徳川幕府が喧伝した通り秀吉の誇大妄想と矮小化させるのはいささか浅薄である。戦国の世が終わり、日本国内の統一が完成したところで諸大名の戦力が消えてなくなるわけではない。彼らは戦うことによって自らの生存と利益を勝ち得てきた存在である。これに戦をやめろというのは今以上の栄達を諦めろというのと同義であり、いかに天下人とはいえ簡単にできることではなかった。

だがこれをそのまま保存するのは火のついた爆弾を抱えていることと変わりがない、何か他の目的を見つけ、なんとか消費してしまわなければならない。唐入りはそのための手段でもあった。

その状況は江戸時代初期の図式とそう変わることではない。

かつては自らを苦しめた日本の侍、そして今はそれに頼らねばならない、明国の立場からすれば実に皮肉なことであったに違いない。

 だがこの話は結局鄭成功の父、鄭芝龍が南明を離反して清国に降ったこと、鎖国政策が進められていたことなどの影響により実現することはなかった。


 そして一八五七年のいま、再び同じ事態が出来していた。


 事の発端はアロー号事件と呼ばれる。

 一八五六年一〇月、清国の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号を海賊の容疑で拿捕した。これに対してイギリスの広州領事パークスは清側の担当者である葉名琛にその行動は不当であると主張し、特にその際、清の官憲によってアロー号よりイギリス国旗が引きずりおろされたことはイギリスに対しての侮辱であると激しく抗議した。

 葉名琛はイギリス国旗が当初掲げられていなかったと主張したが、パークスは受け入れず、交渉は決裂に終わった。

その後アロー号の船籍登録は事件の発生時には期限を過ぎており、同時にイギリス国旗を掲げる権利はなく、清国の行動はまったく合法であることが明らかになった。

 だがイギリスは実力行使を開始した。実のところ武力行使自体ははるか以前よりの既定路線であった。蘇州や杭州などの開港などを目的にその準備は整えられていた。やはりアロー号事件自体は口実に過ぎなかったのである。香港のイギリス海軍が広州の砲台を占拠し、たちまち広東城は陥落した。これはイギリス本国の支持が直ちには得られなかったため、少数の兵力での占領維持は困難として広東城はすぐに放棄された。

 しかし一八五七年の春、イギリス議会にて対清強硬策が可決され、遠征軍が派遣されることになった。これに自国の宣教師が逮捕、斬首された事件の賠償を口実にフランスが呼応し、イギリスとの共同戦線が張られることになる。

 一方広州でも民衆の反英仏機運が高まり、居留地が焼き払われるなどの事件が続発している。清英、清仏関係は修復不可能にまで悪化していた。

 ――もはや武力衝突は避けられぬ。

 葉名琛は覚悟を決めざるを得なかった。

 葉名琛、この時の年齢は五〇歳、科挙に登台して以降数々の顕職を歴任し、現在の役職は両広総督・欽差大臣。両広とは広東省・広西省を差し、両広総督はこの地域の軍事、民政の全てを統括する役職である。欽差大臣とは諸外国との交渉を担当する全権大使のことである。

 文官であるが軍事にも精通している。一八五二年、両広総督に着任してすぐ凌十八の乱を鎮圧し、その二年後には広州を包囲した天地会の蜂起軍を撃退している。いずれも民衆反乱に過ぎないが、一八五一年に起こった同じく民衆蜂起である太平天国の乱が現在もなお広がりながら継続中であることを考えればその手腕を疑いようはない。

 そして彼の頭の中では、今度またこのまま英仏両国との間に戦端が開かれたとき、一七年前の阿片戦争の二の舞になるだろうと冷静に判断されていた。

 ――ならば打てる手は全て打つしかない。

 いくつかの決断が彼の中で成った。


 長崎奉行を通じて清国皇帝より幕府に対し、使者を派遣する旨の親書が届けられたのが四月の頭、その親書の真偽を確認する間もなく月末には密使を名乗る使節七名が長崎に上陸していた。

 本来ならば確認がとれるまで長崎に留め置かれるはずであった。だが彼らが江戸に着いたのは五月の二十日を何日か過ぎたころである。いかなる手管を使ったのか、これはほぼ最短の日数といってよい。ペリー来航以来、外交の窓口としての長崎は機能しなくなってきている。長崎奉行はそのどさくさに紛れて対応を幕府に丸投げしたとも思われる。

 この扱いに老中首座、阿部正弘は非常に苦慮している。

 ひとまず宿舎には心法寺が割り当てられた。江戸城から近く、寺の周りには民家も少ないゆえにその存在を知られにくいという判断である。

 これまでにも日本と清国との間に正式な国交はなく、使節の往来もない。その上それが密使ともなればそれが正しく清国の使者なのかそれとも何者かが騙っているだけなのか、この期に及んでもまだ判断がつかなかった。

故実に通じる高家の者にも調べさせてみたが、いかに高家といえども清国の使者がどのようなものかは見たこともない、過去の文献を調べるのが精一杯である。また知る限り唯一比較できるものがあるとするならば朝鮮通信使であろうが、これも直近が一八一一年、しかも対馬までしか来ていない。それより遡れば一七六四年が江戸に来た最後となっている、およそ百年前である。

無理にでもそれに比較するならば、この度の使節は人数が少ないということもあり、持参した調度荷物の類は多くない。だがこまごまとした所持品はさすが大清国の使者と思わせるものばかりであり、時代が違うとはいえ朝鮮通信使が持参したとされる物よりははるかに高級に見えた。結局のところ高家の者にもこの使者が偽物であるとの確証は掴めなかった。面会も行われたが、一行の正使、副使を名乗る二名の、その堂々として媚びることなく、また礼に適いながらも優美なふるまいには溜息さえ覚えたという。

――本物として扱うしかあるまい。

阿部はそう結論付けた。

本物として扱った場合、たとえそれが偽物であり、なにがしかの損害を被ったとしても、騙されたのだと一時の恥で済むだろう。

だが偽物として扱って万が一本物であった場合、これは大いに非礼とされよう。清国との関係悪化は避けられぬ、それは将来の禍根となるかもしれない。

 それに真贋いずれにせよ彼らには清国の中枢のどこかが関わっている、そうとしか思えなかった。

 清国からすれば我が国は小国である。儒教道徳に照らして考えれば何らかの返礼でもないのに大国から小国に使者を送るということは恥である。どのような事情があるにせよ、可能ならばとりたくなかった手段であろう。であれば高官が勝手にこれを行った、あるいは清国の総意ではあるものの誰かが独断で行ったという体裁にして何かあった場合の保険をかけておくというのも充分にありうる話だった。


 彼らの引見は江戸城ではなく福山藩の丸山屋敷で行われ、その目的が英仏に対抗するための援軍の要請であることがここで初めて明らかとなった。

 これは幕府の予想を大きく超えた。

 何らかの誼を通じ、将来的に連合して西洋と対抗しようというのであれば、これも中華思想的には考えられぬことではあるが、まだ理解はできた。それを一足も二足も飛び越えていきなりの援軍要請とは到底頷ける話ではなかった。

 二百年前の日本乞師とは事情が全く違う、こちら側に利益になる要素がなにひとつない。

 さらに何度かの会見が持たれ、当然のことながら使節側は将軍との会見を強硬に主張し、さらには天皇陛下への奏上を行わせるようにとまで要求した。

 使節の言い分は尤もである、だがこちらとしても将軍との会見となれば互いの体面上何らかの譲歩をせねばならない、しかしその落としどころがない。ましてや朝廷との接触など許せるわけがない。

 折しも日本では西洋各国との通商条約締結に向けて準備が大わらわで進められている。

 この件で清国に何らかの便宜を測ればそれは直ちに日英、日仏間の火種となる、またその他の国のつけいる隙にもなる。

 結局は単なる友好使節として無条件で帰国してもらう以外のことはできなかった。予算不足ではあったがその面目を守るためだけの品々が用意されることになった。

六月七日、阿部は彼らに対し最終回答を行った。

一、正式なる国書の受け取りはこれを拒否する。

二、幕府よりの返書もこれを行わない。

三、朝廷への接触もこれを禁ずる。

 附則として「援軍の派遣については国内にて直ちに協議を進め、時期を見てこれを行う」とあった。しかもこれは幕府、徳川将軍家よりのものではなく、老中連名での回答であった。

 事実上、完全なる拒絶といえた。援軍の派遣については前向きな含みを持たせてあるが、このようなことは空証文に過ぎない、実行などされないことは明白であった。

実のところこの回答は幕府の常套手段でもある。これまでもアメリカ、ロシアなどの使節に対して何度も同様の誠意のない対応をとっている。三年前、ペリーの艦砲外交によって初めてその体制に風穴が開いたが、逆にそのことでこれ以上清国の使者に費やす余裕はなくなっていた。

 清国は依然大国ではあってももはや脅威ではないと甘く見たのもあるだろう。

 無論、使節は激怒した。

 大国としての矜持か、声を荒げるというようなことはなかったが、それでも厳しく阿部に詰め寄った。

だが幕府の回答が覆るわけもなく、この件はこれで終わりとなるはずだった。

そしてその夜、心法寺の事件は起こった。


 心法寺の事件の早朝、勘十郎は組頭への報告を終え、そのまま自宅待機を命ぜられた。

 後悔と恐怖、徹夜の疲れなどもあり、泥のように眠ったあと、夕刻には登城の命令が下り、上司とともに江戸城に向かった。

 御先手組は若年寄支配である、そこにその職にある鳥居忠挙が待っていたのは当然であったが、老中の久世広周まで同席していた。

 ――まずそれほどの大事であろうな。

 それは納得できた、自らの失態に言い訳すべきなにものもない。

 だが覚悟していた切腹の沙汰は下りなかった。

 代わりに逃亡した使者たちの捕縛隊を編成し、指揮をとることを命じられた。先手組の他の組からも人員を配置せよとの言葉もあった。

 厳密に言えば「使者」とは言われなかった、彼らは「不逞の支那人」とされた。

 併せて昨夜の心法寺での出来事はなかったことにされた。捕縛しなければならないのはあくまで出所不明の不逞の者なのだ。それならば町方の仕事となるべきであったが、勘十郎らを含めて組内のものがそれらの者の顔を「たまたま」見知っていたための措置である、ともされた。

 鳥居忠挙はただその場にいただけで、これらのことは全て久世広周の口より語られた。

 ――なるほど、誰も責任を取る気などないのだ。

 確かに清国の使者が来たなどという話は公にはされていない。どこの誰とも知らぬ輩が暴れているだけのこと、と強弁することは可能である。もし自分が腹を切ることになればそれには理由が必要となる。幾分事情は伏せるにせよ明らかにしなければならないこともあろう、であれば上司たちも切腹まではないにせよ処罰は免れぬ、それならばまだ何も起こっていないことにしたほうがよいのか、勘十郎はそう見做した。

 これを卑怯だと非難する資格はもう自分にはない、卑怯なのは自分も同じ、それよりも汚名を雪ぐ機会を与えられたことを喜ぶべきだった。

 刃を交わすまでもなく連中の強さは骨身に染みた、次に捕縛隊として彼らにまみえることがあればおのれの命はないだろう、だが同じ死ぬなら切腹よりもそちらのほうがよほど良かった。それならば少しはあの世で弓衛門に合わせる顔があるだろう。

 久世は昨晩通訳が口上に述べた通り、彼らが朝廷と接触することを案じていた。

「それだけは必ず阻止するように」

 と念を押した。そうなれば全てが露見する。

江戸からは勘十郎が捕縛隊一五〇人を率いて後を追う、京都所司代にはすでに早馬を飛ばして御所の防備を厳重に固めることを命じてある、同時に大坂城代へも挟み撃ちの部隊を出すようにと。江戸市中には町方の役人、江戸の外には別に多くの伊賀者が放たれており、対象の所在を掴み次第捕縛隊に連絡が入るように手配されていた。

 わずか半日でここまでの処置はさすがである。

 阿部正弘の腹心とされるだけのことはあった。


 そして捕縛隊の進発を明日に迎えた九日午後、勘十郎は自宅で参加者名簿の最終確認をしていた。

そこで最も会いたくなかった者の訪問を受けた。

「篠原弓太郎でござる、お忙しい中誠に失礼とは存じましたが、引差様に至急お伺いしたい旨ございましたゆえ参上仕りました」

 組与力の役宅は三〇〇坪ほどの広さがある。その切実な声は奥まった勘十郎の部屋まで充分に聞こえた。

 断るつもりはなかった、会いたくはなかったが会わねばならなかった。

 家人に案内されて篠原弓太郎が部屋に通された。

「篠原弓衛門が一子、篠原弓太郎にござりまする。このたび父の後を受け御先手組の任を賜ることになりましたゆえ、ご挨拶に参りました」

 弓太郎が平伏して挨拶をした。当然知っている、子供の頃から。いや、現在も見た目は凛々しいがいまだ十八の若者に過ぎない、勘十郎からすればまだまだ充分に子供である。

 だがこれは昨日に弓衛門の葬儀を終え、篠原家当主としてなった弓太郎の最初の挨拶でもある、疎かに扱うわけにはいかなかった。

「よう参った。引差勘十郎でござる。お主の父御は立派な武士にござった。父の名を汚されぬようお役目に励まれよ」

 上役であるから平伏はしないが、わずかに頭を下げて丁寧に返す。

 立派な武士、と聞いて平伏する弓太郎の背中が強張った、ややあって彼はその顔を上げた。

「引差様にお尋ねしたき儀がございます」

「許す、申してみよ」

「この度不逞の輩を捕縛せんがための部隊が編成されると聞き及びました、組内一同皆その中に名前がございますというのに、わが名、わが家名だけがその中にないというのは一体どういうことでございましょうか」

 それは勘十郎の予想した通りの質問であった。

 言われたように勘十郎が作成した捕縛隊の名簿には篠原弓太郎の名前はない。勘十郎自身が削った。心法寺で唯一被害にあった篠原弓衛門の嫡子を参加させることはあまりに哀れと上役一同も承知の上である。

 ゆえに弓太郎には捕縛隊の編成自体を伝えてはいない、だがどこかで弓太郎の耳に入るであろうことは仕様のないことであった。できれば進発後のことであってくれたらよかったのだが。

「お主は跡式を継いだばかりではないか、父御の葬儀も終わって間がないというに、そのような者を連れていくわけにはいかん」

「しかし我が家の名誉はどうなりますか、父を殺されて仇も討たぬ腰抜けと罵られては拙者自身のことはともかく、死んだ父が浮かばれませぬ」

「そなたの父は殺されたわけではない、あれは事故だ」

「事故! あの傷が事故だと申されますか! 父の死が事故かそうでないかはその場にいた引差様が一番よくご存じのはずではないのですか!」

「儂は何も見ておらん。しかも御公儀があれは事故だと認めておる。現にお主の家督相続は滞りなく済んでおるではないか」

「ですが皆言っているではありませんか! あれをやったのは清国の密使を名乗る不逞の輩だと!」

 先日の件は緘口令が敷かれている、だが人の口に戸は建てられようもない。

「誰がそのようなことを申しておるのだ。儂が諭してやるゆえその名を申してみい」

 狡い言いようである。その狡さは勘十郎自身よくわかっている。だが目論んだ通りに弓太郎は言葉に詰まった。父の体についた大きな傷がその噂が真実であることを物語っている、しかしそれはやはり噂に過ぎない。確証を見せることなど誰にもできようはずがない。

 ややあってようやく絞り出したのはまた別の正論だった。

「我が父が不甲斐ないばかりに賊を取り逃がし、皆様にご迷惑をかけたにも関わらず、拙者が仇も討たず、咎められもせず、家督を継ぐなどと道理が通りませぬ。誠にありがたき仕儀と存じますがそのようなご厚情受け取るわけには参りませぬ」

 お願い申し上げます、拙者の参加をお許しくださいませ。

 弓太郎はその言葉だけをくりかえしながら何度もその場に伏した。


 違う、違うのだ。

 勘十郎は思った。

篠原弓衛門。奴が不甲斐ないとはとんでもない誤りだ。奴だけがあの時あの場でまさしく武士だったのだ。そなたの父だけがあの恐ろしい連中に敢然と立ち向かったのだ。ふだん武士だ侍だと偉そうなことをほざいても他の者はみなぶるっておったのよ、儂なんぞ与力などと大層な名をいただいておるにもかかわらず、真っ先に立ち向かったそなたの父に続くことができなんだ。足がどうしてもいうことをきかんかった。

篠原弓衛門は我らの誇りだ、たった一人で儂らの名誉を守ってくれたのよ。太平の世をのんべんだらりと貪っておった儂らにその死に様でもって武士たるものかくあるべしと教えてくれたのよ。

お蔭で儂らは武士であることを取り戻せた。あの場にいた連中は皆一様に恥じ入り、その誇りを取り戻すために捕縛隊に参加できることを喜んでおるよ。

お主はその篠原弓衛門の息子だ。それが奴の後を継ぐことに誰が何の文句があろうか。今の態度だけでもお主が弓衛門の息子として立派に薫陶を受けていることはようわかる、あとは儂らに任せておけ。


だがそれを言うわけにはいかなかった。おのれの保身のためなどではない、言えば周囲に迷惑がかかる。

ひとりの真の侍を生贄にして腰抜けどもの体面を守るのか、と問われればそれはその通りと答えざるを得ない。だが腰抜けどもにも命がけで汚名返上の機会は与えられてもよいだろう。

勘十郎は死ぬつもりでいる、遺書はもうしたためてあった、それはこの部屋の文箱の中に隠してある。明日ここを立てばもう江戸に戻ることはないだろう。篠原弓衛門の友として、その死に様に恥じないふるまいをこれからせねばならない。此度の戦、そう戦は勘十郎自身の復讐でもある。

そのようなものに弓太郎を巻き込むわけにはいかなかった。

「お主、何か了見違いをしておるのではないか」

 勘十郎は怒気を強めて見せた。

「武士の本分は忠義である。その忠義を全うし、お家を守ってこそ孝行ではないか。よしんば弓衛門が何者かに殺されたのだとしてもその敵討ちなど私事に過ぎぬ、忠義と比べられるようなものではないわ」

 詭弁に過ぎない。そのことは勘十郎にもわかっている。

 だが弓太郎の言もまた詭弁なのだ。

 孝行などとは建前に過ぎぬ。そんなことよりも無残にも父を殺された無念の遣り場がないのだ。それでもおのれ自身のことならまだ堪えることもできよう、だがあの強く、優しく、立派だった父の名誉が貶められることには我慢ができないのだ。

勘十郎にはそれが痛いほどに、切ないほどによくわかる。親を思う子の気持ちに何度も、いや初めから絆されそうになっている。

しかしそれでも弓太郎を捕縛隊への参加を許すことはできなかった。その理由は他でもない勘十郎自身の過去にあった。

「ですが」

 勘十郎はなおも反論しようとする弓太郎の言葉をそれ以上許さなかった。

「くどい。新参の分際で上司の采配に口出しとは僭越が過ぎる」

 つとめて冷淡に言葉を発した。

「若輩のことゆえ此度のことは大目に見るが、以後慎め」

 弓太郎の目には涙が溢れていた。彼はそれに気づいて自ら拭った。

「弓太郎が無様でございました。皆様のご武運、お祈り申し上げます」

 そう言い残すと弓太郎は決然と勘十郎の前から去った。

――済まぬ。

 勘十郎は弓太郎の背中に詫びた。

――弓衛門の名誉も、お主の命も、儂が必ず守ってやる。


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