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第一話 江戸心法寺

 一八五七年(安政三年)六月五日。

 麹町常栄山心法寺。


 寺の厨で準備された夕餉を食らい、篠原弓衛門は再び見回りの仕事に戻った。

 日はとっくに暮れ落ちたが、境内の内外に篝火が明々と焚かれ見回るのに不自由はない。


 十日ほど前より弓衛門の任務は此処の警護となっている。

 異例の任務であった。

 警固番自体はこれまでもよくあることであった、弓衛門の所属する御先手組の仕事としては通常のことである。

 御先手組とは幕府の職制のひとつで戦時には先鋒足軽隊を務め、平時は各門の守備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持を担う役職である。とはいえ、長年の天下泰平の世の中で刀槍を振るう機会などはほとんどなかった。

 それが一八五四年のペリー来航以来、このような臨時の警固番役の機会が増えてきている。異国人の警護を仰せつかることも出てきている。

 このたびが異例なのはどこの誰を警護しているのか全く知らされていないことである。護衛の対象者は七名、内訳は男性が五名の女性が二名、いずれも異国風の衣装を着ている。しかし今回の場合、異国人とはいってもそれは西洋人ではなかった。これまで支那人を見たことはないが、それは支那風のもののように思える。

しかも護衛の人数がかなり多かった。

 先手組は一組が三十人から五十人程度の人数で編成されている。そこから任務に応じて人員が派遣されるのだが、今回は弓衛門の組は全員が駆り出され、別にもう一組が割り当てられている。都合百名弱でこの寺の内外を固めていることになる。

 一体誰が彼らを狙うというのか。

 一番に考えられるのは攘夷志士である。全国で外国人排斥の機運が高まる中、先年には水戸藩士による駐日領事ハリス暗殺未遂事件が起こっている。

 だが今はそれも考えにくい、今回の護衛対象は異国人とはいえ西洋人ではない。可能性がないとは言えないが、護衛対象がもし見た通りに支那人であったならば攘夷志士にとっては味方ではないが、同じ西洋に対する被害者ともいえるだろう。

 それとも別に何かが起こるというのか。

 弓衛門は心中不穏なものを感じている。いや、誰にも告げてはいないが何かが起こることをほぼ確信していた。

 強いのだ、強すぎるのだ。

 その護衛されるべき者たちが、である。

 彼らは一様に行儀よくしている、高位高官、または貴人の風すらある。ときに居丈高であることもあるがまず常識的な範囲であり、乱暴狼藉をはたらくようなことはない。だがそれでも彼らはそれぞれに尋常ならざる気を放っていた。

 その風貌から察するに同輩たちがあれは清国の使者だというのはあながち的外れでもないのだろう、だが連中の纏う気はそのようなものではない。

 自分にそのような経験はもちろんない、だが彼らがもし本当に清国の使者で、国家の大事を懸けた命がけの交渉のために来たとなればそのような強い気を発することがあるのかも知れない、しかしそれにしてはあまりにも血なまぐさすぎる。実際に血の匂いがするわけではないが、殺気に近いものが溢れ出ている。

 おそらくそれぞれに名のある武人なのはないか。

 弓衛門は清国の事情に詳しくはないが、今より一五年ほど前に清国と英国の間で阿片戦争なる戦いがあったことぐらいは知っている。彼らの年恰好からしてそれに参加したことがあるだろうと思われる者は少ないが、それ以降も年々治安が悪化し、内乱や一揆のようなものも多発しているらしい。彼らの持つ血なまぐささはそれらの中で身についたものではないか。

 同僚たちはそれに気づかないのであろうか、と弓衛門は思う。

 それとも生まれてこの方三十八年、物心ついて以来武芸には人一倍励んできた自分だからそれに気づいたのであろうか。

 彼らは使者であること以上の何かをしようとしている。そしてそれはきっと力ずくの何かである。

 では何のために、と問われればそれはさすがにわからない。

 確かに彼らが何らかの騒ぎを起こしたとしてもその目的まではとんと見当がつかない。どれほど豪勇だとしても所詮は人間である、たかだか七人ではできることは知れている。


 ――ならば外よりの援軍でもあるのか?

 弓衛門は一人で思案するのも埒が開かぬと、結局組与力の引差勘十郎に相談することにした。勘十郎は上役とはいえ同年で幼少より昵懇の間柄である、相談するだけなら気安い。

 寺の境内は広い。その庭の片隅に幔幕が張られ、臨時の詰所となっている、幸いなことに勘十郎はその中に一人でいた。

「引差様、ご相談があるのですが」

 弓衛門は中に入って話しかけた。

「おう弓衛門か、どういたした」

「彼らの様子は如何でござるか」

「本日は阿部様の邸宅にて何やら会見がござったようだが、そこでどのような話し合いが持たれたか皆目見当もつかぬ、今は戻って休んでおるよ。どうやら明日の昼にはここを出るらしい、我らも品川の港まで警護を務めれば此度の仕事は終わりじゃな」

 阿部様、とは老中首座、阿部正弘のことである。この時の最高権力者であり、この度の件の最高責任者でもある。

「何か気になることでもあるのか」

「警護の空気が緩んでいるのがいささか」

「気にしすぎではないのか」

「それではこの人数はなんと説明いたします、わずか七人の護衛にこの人数とはあまりにものものしいゆえ、なにかあるのかと疑ってしまいます。変事の起こる虞がありましたら心構えのためお話いただければと思った次第」

「ふむ、そのようなことか。これは内密じゃが、皆が予想しておるように彼らはまさしく清国よりの使者、であるらしい。その目的までは聞かされておらぬが。御公儀は彼らがここを密かに抜け出して朝廷と接触を持とうとしておるのではないかと懸念されておる。攘夷浪人の中にその手引きをするものがおるやも知れん、とな」

 そのようなことが! と弓衛門は思った。やはり勘十郎に相談して正解だった。

「ならばその懸念、当たりではないかと」

「彼らが本当にここから抜け出すと」

「ここから、というのは断言できませぬ。今の話を聞けば品川に行くまでの間にかもわかりませぬ。ですがどこかで抜け出すという目算は高うございます」

「この百人の警護の目をすり抜けてか?」

「その程度、腕ずくでできるようには見えまする」

 勘十郎は弓衛門の腕前はよく知っている、その眼力も。

「ではどうすればよい」

「幸いなことに彼らは素手、武器を持っているようには見えませぬ。たとえ彼らがその気であったとしても手ぶらでは抜け出すことも困難、であれば外部よりの援軍、または武器を調達しようと接触する者のために警戒を強化し、あとは彼ら自身がどこかに武器を隠し持っていないかを調べればよいのではないかと」

 む、と勘十郎は即答しかねた。

 外部警備の強化はいい、それは勘十郎の職掌の範囲内だ。だが使者の身体検査までは越権行為になるのではないか、のちのち問題となるかも知れない。ことは外交であり、ひとつの失態が大きな禍根ともなる、それは勘十郎が背負うにはあまりに大きい。

弓衛門には勘十郎が何に悩んでいるかが分かった、だがひとつ心当たりがある。

「彼らの荷物に五尺ほどの長い箱と縦横三尺ほどの大きな箱がありましたな、あれだけでも何とか調べられませぬか」

 使者たちがここに逗留を始めるときに運び入れられた荷物がいくつかあった、武器を隠すことができるのはそれぐらいしかなかったように思える。ほかのこまごまとしたものに隠すことができるのは短刀がせいぜいであろう。

 しばし熟考の時間があり、やがて勘十郎は

「わかった」

 と答えた。

「弓衛門、お主も同行せい、気づいたことがあれば教えてくれ」


 二人は連れ立って使者たちの滞在する部屋に向かった。それは寺の正門より広い庭を横切り、本堂に正対して左側にあった。詰所の幔幕からはちょうど対角線の位置にある。

 部屋の前で怖々訪問のお伺いを立てる。

 弓衛門の禄は百二十石、これは御家人とさほど変わらぬ微禄である。勘十郎も与力とはいえその禄高はたかだが三百石、微禄ではないが大身でもない、だが清国の使者ともなれば一体どのような高位高官になるのであろう。大国の体面を守るためあえて低い身分の者を使者として送ることは充分に考えられる、しかしこれまでを見たところその容儀は決してそのようなものではないだろう、およそ自分たちと比べられるようなものではない。我が国に例えてみればさて万石取りだろうか、それとも五位以上の殿上人にもなるのだろうか。

 二人が緊張するのも当然であった。

 だがその心配をよそに中からの返事は快いものだった、二人は揃って部屋に招き入れられた。

 十五畳ほどの部屋の中にいたのは四名、一同の代表と思われる者、いまは無腰であるが護衛と思われる者、身の回りの世話をする女官、そして通訳の男である。他の者は食事ということらしく不在であった。

「正使は退屈しておられた、宜しければ話し相手となってもらいたい」

 通訳の男はにこやかにそう言った。年若い、二十の半ばぐらいだろうか、よほどの俊英なのだろう、こちらの言葉にもまったく不自由がない。

「但し失礼のなきようお願いいたします」

 二人は座布団ではなく椅子を勧められた。部屋の中はごく普通の畳敷きであるが、その中には机、椅子と衝立などが用意されている。

 ――わざわざこのようなもの、清国より持って参ったのか。

 弓衛門は感嘆した、いずれもがっしりとした重厚な造りである。幕府でも西洋人たちの為に西洋風の調度品を用意してあるのだろうが、この部屋に並んでいるものの意匠は支那風のものに思えた。

 ――体面を守るというのもご苦労なことだ。

 二人が下座に並んで座ると、大使とされる男がその正面に座った。

 こちらも通訳ほどではないが若く見える。三十を超えたあたりだろうか、引きしまった印象は与えるが背格好自体に特筆すべきところはない、だがその貫録は十ほども年上の二人の到底及ぶところではない。

 続いて女官から茶が供された。一口飲んでみるとそれは二人が飲んだことのない中国茶である。

「それでどのようなご用向きでありましょう」

 正使の意をくんで通訳が話しかけた。対応するのは主に勘十郎になる。

「出立は明日と伺い申した、ご準備もあるかと存じますゆえ、何かお手伝いすることはないかと来た次第にございます」

「それはまことにありがたいお申し出、ですが荷物も多くございません、ご心配いただくには及びませぬ」

 弓衛門は周囲を丹念に見回した。果たして気になっていた二つの箱はこの部屋にあった。

 その視線に正使が気づいたようで、通訳に何やら耳打ちをした。

「何か気になるものでもありましたか」

「相済みませぬ、実は拙者、異国の物にいささか興味がございまして、不躾な真似をいたしましたことお詫び申し上げます」

 方便である、だがその答えは意外にも正使を喜ばせたようだ。直ちに通訳に何かを命じた。

「左様でございましたか。で、ございましたら、中をご覧になりますか」

 その言葉に二人は顔を見合わせた。まさかこれほど簡単に話が進むとは。

「実はそれらの品々は貴国の将軍様へ献上しようと持参したもの、残念ながらお目通りが叶わずその機会が得られませんでした。ならばご老中様へと申し上げましたがこちらも断られ、どうしようかと困っておったのです。よろしければお二人にご進呈いたしますが」

「めめ、滅相もない」

 弓衛門は驚いた、そのような高価な物が受け取れるはずがない。もちろん勘十郎も断る。

「そうですか、それは残念でございます」

 通訳は意外そうに言った。清国の常識では役人というものはこのようなもの我勝ちに受け取ろうとするのが当然である。この国では老中という高官がこれを受け取らず、一介の役人に過ぎない二人がまた即座に断ったことが信じられないのだろう。

「ですが後学のため見せていただければありがたく存じます」

 もはや武器を隠しているという疑念は極めて低くなった、だが確認するに越したことはない。

「ではこちらへ」

 通訳が二人を箱の前に誘った。

「お見せできぬものもございますゆえご理解くださいませ」

 女官がひとつの箱の蓋を開け一つ一つ中身を見せ、通訳が説明をする。

 それらは絹布であり書画であり陶器であった。弓衛門にも勘十郎にもしかと価値はわからないがいずれもかなりの値打ちものであろうことだけははっきりとわかった。

 続けて通訳が女官に別の箱を開くよう命じた。

「こちらは我々が国に持ち帰るため買い集めたもの、よろしければ価値をご検分いただけますでしょうか。騙されたとは思いたくないですが、やんごとなき方々に万が一にも恥ずかしい物を献上するわけにもいきませぬゆえ」

「我らもそれほど詳しくはございませぬが」

 二人の前に並べられたのは骨董や茶器、西洋の書物を翻訳したものなどであった。彼らの目利きは確かなようで、一見して安物や贋作だと思えるようなものはひとつもない。

中には浮世絵や春画の類まであった。

「これらは到底値打ちものとは言えませぬが」

「それは構いませぬ、存じておりますゆえ」

 はっはっは、と通訳、そして大使も笑った。

 続いて見せられたもので二人は固まった。

 刀である。一振の日本刀であった。まさしく懸念していた武器が出てきたのである。

 ――まさか!

 弓衛門は驚いた。

「こちらはどれほどの価値がありますか。私どもでは詳細がわかりかねますが、武家の方でございましたら何かおわかりになるのではと」

 通訳が差し出し、弓衛門がそれを受け取って答えた。

「来国光、本邦で五百年前より伝わる名品でございます、どのようなご身分の方の腰にあったとてけして恥ずかしいものではございませぬ」

 弓衛門は一応鞘を払って見せたが、抜く前から中身はわかっていた。なぜならこれは二十年前、分不相応にも自らの佩刀であったものだからである。やむなき事情で手放すこととなり、以後その行方は知れなかったがこのような偶然で再会することとなろうとは。

 来国光、と聞いて勘十郎も思い出した。弓衛門がそれを手放した事情もよく知っている。

「なんと、それほどのものでありましたか、わが国では宋代のものになりますな」

 嬉々とする通訳に弓衛門は刀を返した。名残惜しそうなそぶりは見せなかった。

 武器を持っていないかと探しに来たとはいえ、このように堂々と見せられてはさすがに取り上げるというわけにはいかなかった。これが別の名刀であったなら何かそれらしい理由を考えたのかもしれない、だが

 ――これはもはやとうに自分のものではないのだ。

 という気持ちがそれをする気持ちを失わせた。

 その後たわいないやり取りがあるも決定的な何かはついぞ窺えぬまま、二人は使者の部屋を辞した。

 その後、念のために他の部屋、不在の寝所などを見廻ったが、これといって怪しいものは何もなかった。


「あれは」

 詰所に戻る途中で勘十郎が何かを言いかけた。

「言うな」

 それは上役への物言いではなかった。友に対する言葉であった。

「言っても詮なきこと、一目再会できただけで果報よ。それよりも――」

 そうなのだ、何より彼らに対する疑いが晴れたわけではない。

 終始和やかな雰囲気であったが、それは消せなかった。

 たかだか刀一本を持っていたことが怪しい、というわけではない、やはり彼らの持つ気配自体が不気味だった。

「やはり疑念が消せぬ、むしろ強くなった。」

「左様か、儂にはわからぬ、だがお主がそう言うのならば疑うまい。間違いならばそれでよし、念には念を入れるに越したことはない、好きなようにせよ」

「有難い、ではもう少し広く外を見廻りたい、許可をいただけるか」

「わかった、お主の気の済むまで見てくるとよい。確証のないことゆえ他の者に周知徹底とまではいかぬが、こちらでも注意するよう取り計らっておく」

 ――やはり外部からの接触があるのだろうか。

 寺の外、篝火に照らされて明るいのはその周辺だけである。少し歩けばすぐに暗闇、周囲に民家も少なく人の往来は既にない、田畑に伏せるか草むらに隠れるか、何者かが近くに潜むのは簡単であった。

 だがそれらしき気配は感じられない。

――何か見落としがあるのではないか。

 弓衛門は自問したが答えはない。

 寺の玄関口で提灯を用意すると、迷いながらも闇の中へその歩みを進めた。

 ――そして来国光。

 その再会に何か因縁めいたものを感じていた。


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