7 薬効
しばらく、いや、それはほんの数瞬であったのかもしれない。尊は呼吸さえ止めてその光景を見守る。ピクリともしない獅子、燃え盛る炎はいつの間にか消失していた。
「し…死ん…だ…?」
自分の無意識に発した声に、ハッと我に返る。同時に彼がドサリと倒れたのに気付いて、虎と共に駆け寄った。
「あ…っ」
分かっていたとはいえ、男の容体は素人の尊が見ても最悪だった。もはや意識は失われ、剣を握ったままうつ伏せで倒れ込んでいる。
すぐ傍に座り込み、虎の助けを得て仰向けにすると、既にボロボロのマントを剥ぎ取った。…思わず目を背けたくなるような、酷い爪痕。火球を受けた背中も無事ではあるまい。覆面を取り去った男はひどく端正な顔立ちをしていたが、今その表情は苦痛に歪み、鋼色の髪も汗で輪郭に張りついていた。
いちかばちか、何の変哲もない市販の赤ワインを開栓する。使い慣れたはずのソムリエナイフを何度も取り落としそうになりながら何とかコルクスクリューを捩じ込み、フックを引っ掛けて乱暴にこじ開けた。人命がかかっているときに、コルク屑の混入なぞ気にしていられる訳がなかった。
「お願い…飲んで…!」
顎を持ち上げながら、少しずつワインを口に流し込む。しかし意識のない人間は、うまく液体を飲み込んでくれない。傍らで主人を覗き込む虎も、痛ましげに傷口をフンフンと窺っている。
焦れた尊はええぃままよと豪快にワインを煽った。口に含んだまま男と唇を重ね、救命措置ですから…!と目の前のイケメンに言い訳しつつワインを流し込む。ぴりりと先ほど噛み切った唇が痛んだが、男が飲み込んでくれるまで根気強く続けた。
恐る恐る舌を使って流し込むと、うっすら開けた視界の中で男の瞼がピク、と震える。朦朧としながらも水分を求めているのか、かすかに動く舌が時折触れ合った。その度にこちらも反応しそうになるのを何とか堪えて…それでも赤面してしまうのは止められなかったが…行為を続けた。
(これは救命措置救命措置救命措置…!)
何度か男の喉が上下するのを見届けて一旦離れる。無意識に舐めとったワインは尊の密かなお気に入り、チープながら十分おいしいチリ産のカルメネール・ワイン。ソフトで穏やかな口当たりに…今は少し鉄臭さが混じる。どうやら自分の唇は治っていないようだが…やはり謀られたのだろうか。
「…う……」
「!!」
その時、意識を失っていたはずの男が苦しげな呻き声を上げた。…固唾を飲んで見守る尊の前で、変化が始まる。
シュウウゥ…
不意に立ち上った白煙は、微かに酒精の薫りがする。出所は、彼の無数の傷口だった。
まさか、逆に傷を抉ってしまったんじゃ…?!
慌てて顔を寄せた尊は、驚愕した。
「嘘…塞がってる…!」
彼の傷は、あたかも細胞の再生を早送りで見ているかのように修復されていった。わずか2、3分だろうか。ハンカチで血を拭ってしまえば、古傷と思しき痕跡以外に生々しい傷は見当たらない。ほっと息を吐いたところで、武人らしく筋肉に覆われた逞しい上半身をほとんど露出させてしまっていたことに気付き、何となく気恥ずかしくなって自分のコートを被せた。
念のため再び虎の力を借りて背中も確認する。恐らく火傷していたであろうそこも、綺麗に治癒されていた。ようやくホウ、と息を吐いて全身の力を抜く。
助かった…助かったのだ。
そうして脱力していたところを虎に急かされ、鎧の意味もあるのだろう、腹に巻きつけられた鞄のようなものを取り外してやると、器用に口と尊を使いながら変形させていく。…すさまじく賢い虎である。
本来ならば猛獣だが、不思議と尊に恐怖心は無かった。
「戦友みたいなものだもんね!虎ちゃん!」
鞄のサイズが半分になったところで、ストレッチャーのようなものが出来上がった。達成感に満ち溢れてポン、と虎の背を叩いたが、理知的な瞳で「アホか?」とでも言いたげに一瞥されただけだった。…つ、冷たい…。
再び鞄の残りを腹に巻きつけてやり、促されるまま虎の背に跨る。虎は無造作に男の服に噛みついて持ち上げ、ぺいっとストレッチャーに放り投げると────ちょ、虎ちゃん怪我人怪我人!!────特に固定することもなくその両端の取っ手を咥えて走り出した。
「えええ大丈夫なのそれ?!落ちる!落ちるってば────────!!!!」
慌ててしがみついた尊をまるっと無視して宙に翔け上がった虎は、一路東へ向けて飛び始める。
あわあわと男の様子を窺いながらもようやく落ち着いて虎の背を堪能できることになった尊は、もふもふの毛並をさりげなく撫でつつ背後を振り返った。
目を覚ましたときにはほぼ中天にあった太陽もどきは、もといた世界と同じく傾き、もはやその身の半分以上を大地に沈めんとしている。自分の記憶にある夕暮れよりも少し黄色がかってはいるが、沈むと赤味を増すのは異世界ガルディアでも同様らしい。
(まずは一日…。)
進むしかない。はためく髪を抑えながら、決意を込めて前を向く。
(おじいちゃんを探して、一緒に帰る…!)
生き抜こう。──────共に帰る、その日まで。
尊の決心を知ってか知らずか、虎は咆哮をひとつ、更に速度を上げて奔りはじめた。