6 討伐
「戻って!…お願い、戻ってよ…っ!」
緑の森を眼下に見下ろして虎は駆けるように飛翔を続けている。その背に跨り、ぽたぽたともはや自分でも止められない涙を零しながら懇願するも、グルルと唸り声が返ってくるばかりだった。
あまりバサバサと翼を動かすこともなく、なぜこの巨体が宙に浮くというのか。そんなことを疑問に思う余裕もない。首元に縋り付いて必死に喚いても、非力な腕で叩いてみても、虎に言うことを聞く気はないようだった。
「あなたの主人でしょう…!あのままじゃ…死んでしまう…っ」
叫びながら、頭のどこかで分かっていた。この虎はきっと理解している。彼が私を無事に逃がすため、囮になったこと。そしてあれが、主人との今生の別れになったのだということを。…彼は恐らく、あの傷では帝国とやらまでもたないと判断したのだろう。
(置いていけない…!でも私に…)
──────なにができるの。
ギリ、と噛みしめた口唇から鮮血が伝う。顔を伏せた拍子に、ふと目に入ったのは…
ロキの寄越した、祖父のキーチャームだった。
胸元のそれを握りしめながら、尊は思い出せ、と自分に言い聞かせる。ロキは、何と言った?
この世界において、赤ワインは生命の水…その名の通りの薬効を持つ、と彼は言ったではないか!
あれだけの状況においても、トートを手放さなかった自分に感謝する。赤ワインは…よし、無事だ。そしてついでに、武器になりそうなものが…これなら、あるいは。
確認して、ぐいっとずりさがるトートの紐を掛けなおし、決意も新たに虎の耳へ顔を寄せる。
「虎ちゃん!戻って!あなたの主人を助けるの…!」
胡散臭いが、ロキが超常の力を持つ存在であることは間違いない。…賭けるしか、ない。
少し血の味が滲む唾をゴクリと飲んで、更に強い口調で命じる。不思議と目頭が熱くなり、それは全身へと広がってきた。披露困憊の体に、意志が力を与えているかのようだ。
尊の纏う気迫に反応したのか、虎の耳がピクリと動いた。…できるはずだ。私には…
命じる力があるはずだ!
「今すぐ戻りなさい、とら!!私が…カンナギ ミコトが命じる!!!」
なぜそんなことを思ったのか、なぜそんな言い方をしようと思ったのか、尊は覚えていない。ただ、この生き物を従える力が自分にはある、と無意識に悟ったのである。
無意識であったからか、必死であったがゆえか、尊は当たり前のように受け止めていた。
あれほど頑なだった虎が、翼をばさりと翻して方向を変えたことも。
自分の命に従って、元いた場所を一路目指して宙を駆け始めたことも。
不思議に思う余裕はなかった───────ずっと後に思い出すまで。
虎も主人を置いていくのは本意でなかったのだろう、戻るスピードは明らかに増していた。…うまくいくかも分からない。なにより彼の犠牲を無駄にして、皆でそろって躯を晒すことになるかもしれない…。冷静に考えればそうなのだが、今の尊の中にあるのは焦燥だけだった。
速く早く疾く────────────!
恐らく先刻とほとんど同じ場所で火柱や閃光が煌めいている。足止めしているのだ…あの体で。
ぐっとこみあげてきた痛いまでの想いをどうにか飲み込み、周囲の風音に負けぬよう声を張り上げる。
「虎ちゃん!近くまで行ったら気づかれないように降りて、あの化け物の後ろに回り込める?!」
言いながら、トートから取り出したソレを固く握りしめた。
返事はなかったが、了承したのかガクンと高度が下がる。着地し、姿勢を落とした虎の背から転がるように降りると、一人と一匹は焦土と化した戦闘区域へと近づいて行った。
どれだけ賢いのだろうか、繁みから覗くと、指示通りそこはぴったり獅子の背後に位置していた。あれから何度も斬り結んだのだろう、両者とも満身創痍の様相を呈している。獅子は後ろ足の腱を斬られたのか引きずっているし、息の上がった彼も…マントがぐっしょりと紅に染まっていた。特に恐らく初めに切られた傷のせいで、左手はだらりと下がったままだ。
はっきり言って、炎を纏っているような化け物にこんな子供だましが通用するとは思えない。だが、尊にできるのはコレしかないのだ。
傍らでいつでも飛び出せるよう伏せている虎の首を叩いて労わる。そのままおもむろに立ち上がって一声。
「…虎ちゃん、ありがとう。あなたはびっくりしないように、ねっ!!!!」
獅子目掛けて投げつけたのは、たまたま持ち歩いていた整髪剤のスプレーだった。火気厳禁、ガスの詰まったそれは、過たず獅子にぶつかって──────
─────────ボンっ!!!!
尊にとっては幸運にも、異物の気配に振り向いた獅子の顔面で勢いよく爆ぜた。身体的ダメージはほとんど与えられずとも、むしろ爆発音に驚いたと思しき獅子はグァっ!!と悲鳴を上げて仰け反った。その隙を逃すはずもなく、彼が獅子の腹下に入り込んで一閃…さらにすかさず飛び出してきた虎が喉笛を噛み千切って────────とうとうズシン、とその巨体は地に沈んだ。