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酒神の祝福  作者: 椎名みゆき
第一章 最後の錬成師
32/34

20

 ミコトがその場に足を踏み入れた時、室内の全ての視線はようやくアルザスから逸らされた。

 誰もを釘付けにしていた美しくも恐ろしい絶対の君主は、自ら階段を降りてミコトを招く。


 なんて恐ろしい先触れかと内心戦々恐々としながらも、ミコトはそれを押し隠しつつ平静を装った。面の皮が厚くなるのはバーテンダーとして必然である。神殿から帰ってそのままの装いは旅人のように薄汚れているが、それを整えている暇は無かった。


 この場の誰しもが、恭しく皇帝に導かれる女を凝視していた。

 薄汚れた灰色の外套にすっぽりと全身を包み、漆黒の髪以外にはとりたてて特徴もない、異国の女。

 これまで希望的に、不穏的に、懐疑的に、あくまで噂として囁かれた『救世の使徒』の存在は、ようやく衆目の前に晒されることとなった。





 外套越しに胸元のチャームを握りしめ、深く息をする。アルザスは緊張で冷たく固まったミコトの手を取り、玉座の足下まで共に登った。痛いほどの視線を感じるが、怯まず前を見据える。…ここが正念場だ。


 ミコトが落ち着くのを待って、アルザスの目配せを受けたラグナートが口を開く。


 「使徒殿のお話を伺う前に、事の経緯をご説明させていただきましょう。この世界(ガルディア)に於いて、近年錬成師の失踪という怪異が起こっていることは、無論ご存知のことと思います。この異変に際して、教皇イシュト様よりガルド神の託宣が下されたのがおよそ一月前のことでした──」



 『叡知の大陸(アトラスフィア)に救世の使徒あり』


 そう中央神殿(セントルレグリス)より騎士の要請があったのは、乾季の始めのことであった。教皇イシュトの元へ下された託宣は抽象的なものであったが、彼女は『世界の中心に希望が現れる』と正しく理解し、すぐさま手を打ったのだ。

 神殿との内密なやり取りの結果、アルザスはあくまで内々に騎士を─ローワンを遣わした。その存在の重要性と危険性とを、彼らは十分に理解していたからである。



 「無論、使徒殿のことは猊下も偽りなきを認めておられますが、同時に皆へその証を示すことがすぐには難しいことを我々も懸念しておりました。──此度の騒動についても、教皇倪下は大変心を痛めていらっしゃる」



 何気なさを装って溢された一言に、ゴーム卿の表情は一層凍り付いた。全てのガルディア教徒を統べる、この世界の現人神(あらひとがみ)。彼女の権威は、各国元首とも一線を画している。大した信仰心を持たぬ彼にとっても、教皇の存在は大きすぎる脅威であった。破門でもされようものなら、少なくとも貴族ではいられない。



 「ここまで秘密裏に事を運んだのも、真に使徒殿のお力を示していただくには時間が必要と判断してのこと。…浅慮などなたかが騒ぎ立てて下さらなければ、もっと望ましい形でご紹介することもできたでしょうが」


 そう至極冷淡に吐き捨てつつも、ラグナートはミコトに向かって優雅に膝をついた。


 「ご紹介が遅れまして。──僭越ながら、使徒殿よりお言葉を賜りたく存じます」


 こくっ、と喉を鳴らして頷き、ようやくミコトは口を開いた。


 「─私は、カンナギ・ミコトと申します。ガルド神の招きによって、異界より渡って参りました」


 (立派な誘拐だったけどね…!)


 若干脳内で逃避的思考を展開しつつも、この二週間考え続けた口上が自然と溢れる。


 「ただし宰相様の仰る通り、私が『救世の使徒』であることを皆さんに示すのは非常に難しいことだと思います。少なくとも、生命の水(アクアビテ)の復活でも果たさなければ認められないでしょう」


 ただ、それにも時間がかかる。

 別に救世の使徒だなどと認めてもらう必要はミコトには無いのだが、祖父の捜索と日本への帰還という目的がその先にあるのだから仕方がない。


 「ですから私は、何もこの場で自分の使徒たる証を示せるとは思っていません。でも──」



 「これだけは断言します。今回のことは、ガルド神の神罰などではありえません」



 力強く言い切ったミコトに、周囲は騒然とした。当然ながら、その根拠を求める声が上がる。

 あちこちで小声の議論が始まるのをしばらく静観していると、不意に皇帝の間の入り口が開かれ、数人の騎士によって巨大な酒樽が運ばれてきた。


 その先頭に立つローワンと視線を交わし、ミコトは颯爽と階段を下りる。──震えはいつのまにか止まっていた。


 「ご存じの通り、作物には稀に灰色のカビを生ずるものがあります。白ワインデュラルムに用いられるようなブドウ品種が完熟した状態でこのカビ…ボトリティス・シネレア菌が付くと、果皮のワックス成分が溶かされ、防水性を失った果実からは水分が蒸発していきます。その結果エキスが濃縮され、搾ると糖分が40%をも超える濃厚な果汁が得られるのです」


 酒樽の傍に立ったミコトは、完全にバーテンダーとしての自分を取り戻していた。

 ぽかんと─アルザスたちでさえ─その内容に聞き入る聴衆へ、ミコトはにっこりと笑った。


 「これをじっくりと発酵させると、驚くほど甘美な甘口ワイン──貴腐ワインとなります」


 「貴腐…」


 初めに反応したのはさすがというべきか、ラグナートであった。好奇心に輝く瞳で、一心に酒樽を見つめている。


 「はい。一歩間違えば、このカビは作物に悪影響しかもたらしません。限られた品種、湿度の高い朝と乾燥した日照のある午後という稀有な自然条件、そしてタイミング…全てが奇跡的に合致して初めて生まれることから、『高貴なる腐敗』と名付けられています。…はっきり申し上げると、自分が使徒だという自覚や資質を私自身もまだ見出せていないんです。けれどバーテンダー…グラースを扱う者として今申し上げられるのは、もしあなた方の主張するように、この稀有な天候をもたらしたのがガルド神だったとするならば──」


 「それは間違いなく、罰ではなく『祝福』なのだろうと思います」


 少なくとも、それはミコトの中の確信であった。あの馬鹿(ガルド)の仕業だと思うと怒りさえ込み上げてきそうだが、彼ならば悪気なくやってのけるだろう。なぜすぐ思い付かなかったのか情けない気もするが、ここへ来て本来の自分を見失っていたのだと気づかせてくれるきっかけにはなった。



 「…さて、そう仰るからには、その中身を飲まないでは済まされないであろうな」


 凛と言い放つミコトにしばし釘付けになっていた皆の意識が、いつのまにか近づいていたアルザスに向いた。茶目っ気たっぷりに笑った皇帝に、ミコトも思わず苦笑した。──背後のラグナートが縋るような眼差しでこちらを見ているが、アルザスは相変わらず華麗に見て見ぬふりをしている。


 もはや茫然自失の体を晒していたゴームが、喘ぐように「あかしを…!証を…!」と足掻くさまに辟易して幕引きを望んだことも大きいが、何より未知の物への好奇心が勝ったのだった。


 結局、アルザスは「お毒見を!」と騒ぐ貴族たちを一睨みで黙らせて、自ら試飲を申し出た。

 ミコトが持ち込んだワイングラスに、酒樽からできたばかりの貴腐ワインを注ぎ、軽く香りと異物のチェックを行ってアルザスへと手渡す。ローワン同様、まずはグラスの造形に感心しつつ、アルザスはゆっくりと一口目を味わった。


 と、その瞬間。


 さわりと清涼な風が己の頬を撫でて吹き去ったのを、アルザスは確かに感じた。


 「これは…!」


 その感触に驚くと同時、口内に広がった未知の甘美に思わず陶酔する。

 慌てて確かめるように含んだ二口目をじっくりと舌で転がすと、その陶酔は一層深いものとなった。


 「この深い琥珀色、段違いの甘味…まるで花の蜜のような味わいだ…」


 「糖度はかなり高いはずですが、後味はさっぱりとしていますね。口当たりも、まるで蜂蜜のような濃厚な甘味も申し分ないバランスだと思います。間違いなく、最高ランクの貴腐ワインです」


 かの有名なフランスはエリゼ宮の宮中晩餐会。そこで供されるという世界最高の貴腐ワインを、ミコトはかつて一度だけ口にしたことがあった。…このワインは、それに勝るとも劣らない。神殿ワイナリーで初めてテイスティングしたときには、驚愕のあまり大声を上げてしまったものだ。


 

 ──結局、この日貴腐ワインを口にした全ての貴族は、あの不思議な優しい風とあまりの甘美に今回の騒動が『神の祝福』であると認めない訳にはいかなかった。こうしてガルド神の(はた迷惑な)きまぐれによって、皮肉にも想定より早く『救世の使徒』はその立場を固めることになったのだった。









 「──ゴーム卿以下、紛い物の密輸に関わっていたと思しき貴族と商人は早急に拘束した。全てはミーコ殿のお陰だ。心から礼を言う」


 「えーと、お役に立てたなら良かったです…」


 波乱の会議を終えて、ミコトたちは執務室へと戻っていた。マクシミリアンとローワンは相変わらず直立したまま扉近くに控え、ラグナートはと言えば、ようやく新種と言う名の玩具を与えられて自分の世界に没入している。


 「随分と手回しがお早いですが…部下をかなりこきつかって下さったそうで」


 執務室の重厚なソファに悠々と腰掛け、大変お気に召したらしい貴腐ワイン──自ら『高貴なるワインノーブルデュラルム』と名付けた──に舌鼓を打つ上機嫌のアルザスに、珍しくマクシミリアンが嫌味を投げかけた。ただでさえ少数精鋭の暗部衆をこれでもかと使いまわしてくれたのだから、これぐらいは当然である。しかし当の本人にはまったく堪えていないらしく、その当然ながら尊大な態度には堅物のローワンも苦笑を禁じ得ない。憮然としたマクシミリアンとの対比がおかしくて、ミコトもローワンと視線を合わせて笑ってしまった。


 「抜かりなかったろう?むしろ有能な主上だと褒め称えろ。…いやはや、ミーコ殿が酒樽を率いて現れたときにはどうなることかと思ったが」


 「本当はこんなに早くどうにかできるはずじゃなかったんです。原理は省きますけど、糖度の高い貴腐ワインは醸造に長い時間がかかるので…」


 これを解決してくれたのは、またしても神殿長リーシュだった。醸造が酵母…つまり生物の働きによるものであることをミコトが説明すると、『緑の人』の力を以ってその活性を高めてくれたのである。


 (そもそもガルド神あいつがそんな力をリーシュさんに与えたのも、そういう事をさせるためだったんじゃないかな…)


 割と自分勝手な神の所業に思いを馳せつつ、ミコトは懸命にも口には出さなかった。


 「それにやっぱり、一番の功労者は子供たちだと思います。あの貴腐果をひとつひとつ、根気強く集めてくれたのはあの子たちですから。ただ、どうしても通常より生産量は減少してしまうことになるんですが…」


 「あぁ、それは問題ない。そもそも今回の損失は国庫で補填するつもりだったからな。国で買い上げる形で、今年の分は全て国内で消費することにしよう──さぁ、それでは祝杯を」


 アルザスは満足げに微笑んで乾杯を促し、一同は改めて神の祝福を心いくまで味わおうとグラスをとる。

 勝利の美酒といえばシャンパンだと相場が決まっているが、今回ばかりは違うらしいと、ミコトも穏やかな気持ちで杯を掲げるのだった。







 その年、神の祝福を受けたという『高貴なるワインノーブルデュラルム』は、使徒の来訪という正式な知らせと共に、首都で暮らす全ての人へ振舞われることになった。

 誰もが薬としてしか認識してこなかったグラースの美味さと、口にした瞬間吹き抜ける優しい風の神秘に人々は驚嘆し、それをもたらしたという使徒をまさしく『最後の錬成師』と讃えた。

 そして幸運にもその場に居合わせ、相伴にあずかった旅人たちは、母国へ帰って口々にその『奇跡』を語り広めたという。


 ──このとき、誰かの体内で、とある病原菌が消滅したことを知っている者は誰もいない。モンタナールの極一部で発生し、本来ならば潜伏して冬季の初めに猛威を振るって多数の死者を出すはずだった死の病は、優しい風に吹き飛ばされたかのように人知れず消えた。


 それは正に、神のみぞ知る奇跡であった。





第一章 最後の錬成師 終

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