18
神罰。
悪行の報いとして神より下される罰。
その言葉の意味をやっと飲み込んだとき、ミコトの頭は真っ白になった。怒りとも失望とも、哀しみとも言いがたい感情が爆発しそうになるのを、唇を噛み締めて耐えた。
癇癪を起こしても仕方がない。そんなことをしても、事態は好転しない。
そう自分に言い聞かせ、努めて冷静に話し合いを終えて、自室まで送ってもらった。事情を知ったアーニャとマルスはひどく心配してきたが、なんでもない風を装って早々と一人にしてもらう。夕食を運んではもらっていたが、手をつける気にはなれなかった。
──話し合いと言っても何のことはない、ただしばらくは不用意に出歩かないように、とそれだけのことだ。いつの間にか酒蔵はミコトの居場所としてかなり周知されていたらしく、あの場に留まっていれば貴族派の手の者に籠絡されていたかもしれないという。
今も、この部屋の前にはマクシミリアン騎士団長が自ら手配した精鋭が護衛に立っているはずである。ミコトを送ってくれたローワンがそう言っていた。
(あれは気付かれてた、よね…)
物言いたげなローワンの視線をずっと感じていたが、全て気付かない振りで逃げるように別れてしまった。ミコトの胸中で沸き上がる暗い感情を見透かされているようで、なんだか怖かったからだ。
腰掛けていたベッドから立ち上がってガラス戸のカーテンを少し開けると、いつの間にかとっぷりと日が暮れていた。今日の夜空に月はなく、星々が密やかに瞬くのみ。暗闇を背に、透明なガラスはまるで鏡のようにミコトの表情を映し返す。
(…馬鹿みたい。私、何のために頑張ろうと思ったんだっけ…)
今回の事で、ミコトは改めて気付いてしまった。この世界の存続のため、ひいては『生命の水の復活』のために呼ばれたはずの自分を排そうとする人々が、少なくない数存在するということに。
きっと貴族派のトップは本気で神罰などと畏れているわけではないのだろう。ただ彼らは王族派を貶める材料を手に入れたとでも思っているのだ。
しかしそれを無視する訳にはいかないと、ミコトにも分かる。皇帝の権威を守り、神殿の孤児院としての役割を維持するには、この難局をどうにか乗り越えねばならない。
…そう、頭では分かっているのだが。
ため息を落としてカーテンを閉めようとしたところで、不意に
──コン、
と物音がした。
三階の自室にはバルコニーが付いているが、もちろん外から人が出入りするのは不可能な高さである。気のせいかと訝しんで外に目を凝らしていると、不意に暗闇から大きな影が躍り出た。
「トラちゃん?!」
その巨体に似合わぬ俊敏さでバルコニーに降り立ったトゥーラは、当然のごとく主を乗せていた。
「──不躾にすまない、ミーコ殿」
ひらりとその背から飛び降りたローワンに詫びられて、ミコトは慌ててガラス戸を押し開けた。
途端に肌を撫でる夜気はさらりと涼しく、日本の夏のような湿気はない。部屋着に近い軽装では、少し肌寒く感じるほどだった。
「どうされたんですか?こんな所から…」
「無礼は承知だが、今ミーコ殿を正面から連れ出すのは些か難しいかと思ってな」
「連れ出す…?」
ふ、と微笑んだローワンは、夜空を見上げて言う。
「静かな良い夜だ…お連れしたい所があるのだが」
夜の帳が下りるとはよく言ったもので、灯りのほとんどない世界というものはこんなにも重厚な闇に包まれるらしい。首都モンタナールの中心部にはわずかに石の街灯が見えるが、無論、現代社会の煌々とした夜景とは比べるべくもない。
さすがに上空は風が強いが、相変わらずローワンのマントと両腕に囲われて、麻痺しかけてきた羞恥心以外の不便はなかった。
「寒くはないだろうか」
「平気です!むしろ風が気持ちいい…」
「月夜は美しいが、こうして星の光だけが輝く夜も悪くない。トゥーラは翔びたくて仕方がない奴だから、こうして時折連れ出される」
「こんな立派な翼があるんだから当然ですよ。ね、トラちゃん」
ふわふわの毛に埋めるようにして首筋を撫でると、トゥーラは機嫌よく喉を鳴らした。
モンタナールの夜景は、騒々しい都会の喧騒に慣れたミコトにとってどこか新鮮で、しかし一方で郷愁を誘う。
東京の夜はもっと煌々として騒がしくて…でも懐かしい。
嫌なことがあったから、と言ってしまえば単純だが、物珍しさが先に立って沈静化していた『帰りたい』という気持ちが大きくなっているのを自覚してしまう。
そんなミコトの心中を知ってか知らずか、ローワンはトゥーラを旋回させて首都に背を向けた。城の背後、山の方へと飛んでいく。
てっきり街へと向かうのだと思っていたミコトは思わず背後のローワンを振り返ったが、まだ行き先を教えてくれるつもりはないらしい。
そうしているうちに、山肌は目前に迫っていた。そのまま激突するのではと身を固くしたミコトを余所に、トゥーラは岩肌も見えないほどの暗闇の中を危なげなく滑空して、夜よりなお濃い闇が待ち受ける横穴へと飛び込んだ。
中は存外に広く、風が止んで静かになったせいか、どきどきと煩く鳴る己の心音がよく聴こえる。
かなり急な下りになっている巨大な洞窟を、トゥーラは飛翔したまま降りて行っているようだ。
「すまない、驚かせてしまったな」
「もう、ちょっと声が笑ってるんですけど…!びっくりした!」
「トゥーラも私も夜目がきくし、もう何度も訪れている場所だから危険はない。…だがせっかくだ、もう一度驚いていただくか」
背中越しにローワンの腹筋がわずかに震えたのを咎めると、やはりどこか可笑しげな声で悪戯っぽく呟かれる。
え?と首を傾げたミコトに、ローワンは目を瞑っているよう告げた。
すぐに分かる、その言葉に不承不承従って目を閉じると、ミコトの不安を和らげるように、両脇に回されたローワンの腕に力が入った。
それほどかからない内に、ふと空気の流れが変わる。洞窟を抜けたのか、ジャリ、とトゥーラがどこかに着地したのが分かった。
「ここは…?」
思わず声を出すと、予想外に大きく響いて驚いた。
「どうかまだ閉じたままで。──失礼」
「え、わっ…!」
おもむろに抱き上げられ、悲鳴を上げてしまった。開けてしまいそうになった瞳を、我ながら律儀に慌てて閉じて、ローワンの制服にしがみつく。
今夜の彼は、何となく強引だ。落ち込んでいる自分を励ますためにそう振る舞っているのかもしれないが、なんだかこの非日常に、いつの間にか思い悩んでいたことが吹っ飛んでいた。
(水…?)
目の代わりに耳を澄ますと、足元から水音が聴こえる。チャプチャプと、どうやら浅瀬のような所を歩いているらしい。
ローワンが歩みを止めるとその音も止み、染み入るほどの静けさが広がった。しばし沈黙を貫いたローワンが、ようやく囁く。
「…ゆっくり、目を開けてくれ」
───わ、ぁ…!
気が付けば、宇宙の中。
そう錯覚してしまう光景が広がっていた。
天井も、足元も、星の光と見紛う淡い輝きで満たされている。よくよく目を凝らせば、岩肌に光輝く鉱石が無数に点在しているのだと分かった。足元にある地下水らしき水溜まりが、その光を鏡のように映し返しているのだ。
「ここは昔、石の採掘が行われていた所だ。掘り尽くして放置されていたのを、トゥーラが気紛れに飛び込んだ時に見つけて…まだあれを捕まえたばかりで、御すのに四苦八苦していた時の話だが」
当のトゥーラは自分の話だと分かっているのかいないのか、背後の水縁で呑気に毛繕いをしている。
「二人の思い出の場所なんですね…」
「本来の入り口が崩落してから、ここへの出入りができるのはあの横穴だけになった。飛翔できる騎獣でなければここには来られないから、本当に秘密の場所と言えるかもしれんな。ミーコ殿にも気に入っていただけたか?」
「はい!びっくりというか…感動しました。私が住んでた所は夜もとっても賑やかで明るくて、綺麗な夜景だって見えましたけど、」
こんな静かで暗い夜は久しぶりで、ひどくあちらが懐かしく、恋しく感じられたけれど。でも。
「こんなに綺麗な景色が見られるんだ…」
ほとんど最後は独り言のように呟いて、ふ、と穏やかに微笑んだ。
「連れてきてくださって、ありがとうございました。…あのまま寝てしまわなくて本当に良かった」
こうして連れ出してもらえなければ、きっと眠れなかったか、そうでなくても悪夢に魘されていただろうなと思う。
このところ張り詰め、今日の一件ではち切れそうになっていた気持ちが凪いで、どこからか癒されていくのを感じられた。
結局、ミコトを部屋に送り届けるまで、ローワンは慰めも励ましも口にはしなかった。去り際に、『またトゥーラの気紛れに付き合っていただけるか』と言ったぐらいのもので。
ダシにされたトゥーラが如何にも「しょうがねぇな」という顔をしているのが可笑しくて、声を潜めて笑ったミコトを優しい眼差しで見やり、ローワンはまたバルコニーから飛び立って行った。
そうして、朝。
ようやくこの天蓋つきベッドにも慣れつつあるな…といつになくスッキリした頭で考えながら身を起こす。
最近は寝付きが悪く、朝はアーニャたちに遠慮がちに起こされてもなかなか覚醒することができないでいたが、今日は随分とぱっちり目が覚めた。
「ミーコ様、お目覚めでございますか。…まぁ、今朝はお顔の色もよろしいようで安心致しましたわ。食欲もおありになるとよろしいのですが」
「おはようございます。…お腹は、すごく空いてます」
昨日は心配かけてすみません、とベッドから降りつつ頭を下げると、アーニャは目を細めて頷いた。
「それは大変ようございました。夕食もお召し上がりになりませんでしたものね。…あぁそう、今朝はマルスが市場でいいものを手に入れて参りましたのよ」
「干しベリーでございます。ベリーのシロップをお気に召していらっしゃったようですので…」
「わ、思ったよりも大きいんですね…!本当にプラムみたい。私、ドライフルーツ…えぇと、乾燥させた果物大好きなんです!ありがとうございます」
マルスが差し出した籠には、濃い紫色のしわしわと萎んだ果実が詰まっていた。
笑顔を見せたミコトに安堵したのだろう、二人とも一層明るい表情でてきぱきと支度を整えていく。
「お支度が終わりましたらすぐ朝食にいたしましょう」
「こちらでは干しベリーを刻んで、シリアルに混ぜたりブランに練り込んだりして食べるのが一般的ですわ。今日はスコーンにも練り込んでみましたの」
二人とも口には出さないが、ミコトの気持ちが落ち込んでいるのを察して色々と気を回してくれたのだろう。自分には味方になってくれる人が大勢いるんだ…と改めて心強く思った。
(ドライフルーツは日本でも朝食によく食べたなぁ…。マンゴーも棗も無花果も、干すとねっとり甘くって……ん…?)
そこまで思い返して、ミコトはぴきりと動きを止めた。先ほどのしわしわなベリーが、とある記憶を呼び起こす。
あ。
………あっ!
こうして寝不足の解消されたミコトの頭は、ひょんなことから問題解決の糸口に思い至ったのだった。




