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酒神の祝福  作者: 椎名みゆき
第一章 最後の錬成師
29/34

17

 その日、従騎士フルーレティ・アイスバーンは、怜俐で貴公子然とした表情だけはそのままに、いつになく早足で主を探し歩いていた。


 家名の通り、アイスブルーの透き通るような瞳と月夜に映えるプラチナブロンドの髪を備えた美男子である。


 常ならば黄色い声を上げる侍女たちに流し目のひとつでも送ってみせるところだが、生憎と今日はそんな余裕など持ち合わせていなかった。


 (執務室にも厩にもいない、翼虎(エルティガ)や馬でも出ていない…とすれば鍛練場か?)


 主のことは尊敬しているが、こうも暑い日にわざわざ暑苦しい男だらけの鍛練場で積極的に汗を流そうという思考は理解できない。


 これから向かう場所を思うとまた一段と息苦しく感じ、とうとう衿の留め具を一つ二つ外すことを己に許す。


 しかしながら額と背にじんわりと滲む汗は、何も暑さだけのせいではないと彼には分かっていた。







 「──ローワン様!」


 午後一の鍛練を終え、もはや用を成さなくなった上着を脱ぎ捨てて頭から井戸水を被っていたローワンは、背後からの呼び掛けに振り返った。濡れて張り付く前髪を掻き上げながら、早足で近付いてくる部下を見つけて首を傾げる。


 「フルール?お前がここに来るとは珍しいな…」


 魔術と頭脳労働を得意とするフルーレティ─フルールは、不本意そうな表情を隠しはしないまま、それでもそつなくタオルを差し出して目礼した。


 「えぇ、私とて極力近づきたくはないところですが」


 『氷の貴公子』の登場にざわつく兵士たちの気配を冷たい声音で切り捨てて、しかし次の瞬間には声を潜めて告げる。


 「至急、『例の賓客』の件でお耳に入れたいことが…」


 相変わらず男には辛辣なフルールの態度に苦笑するも、続いた不穏な言葉に目を眇めてすぐさま踵を返した。


 「聞こう。私の執務室へ…それから─」


 「はっ、賓客の元へは既にヒルダが向かっております」


 確実に先手を打ってくれる右腕にひとつ頷いて踵を返す。すかさず駆け寄ってきた見習いから受け取った替えの上着に袖を通しながら、ローワンは押し寄せてくる嫌な予感に追い立てられるように足を速めた。









 「ん、これも蜂蜜酒(ミード)だなぁ…。あとは果実酒、ビール…やっぱり醸造酒がほとんどね」


 二日ほどかけてようやく貯蔵酒の検分を終えたミコトは、未だ慣れない羽ペンでガリガリと羊皮紙に書き付けていく。


 今日も一人、酒蔵(カーヴ)に篭って『研究』という名の試飲である。


 さすがは白ワイン(デュラルム)の産地と言うべきか、(グラース)作りの基本はやはりワインの醸造法に則っているらしい。ここへ集められている酒の多くは、原料に果実や穀物、蜂蜜を使った醸造酒であった。


 (ビールや蜂蜜酒はあちらのものとそんなに違いはない…けど、果実酒はそもそもどんな果物が使われてるか分からないからなぁ)


 蒸留技術が確立されていないのか、あるいはこの分野に応用されていないだけなのかは分からないが、ウィスキーやブランデーなど蒸留酒に相当するものは見つかっていない。

 色々と試してみたら面白そうだなとラグナートへの面会を考えたところで、扉の方からノックと誰何の声が届いた。


 「すみませーん!ミーコ様ってここっすかー?」


 初めてのラグナートとローワン以外の来客に内心驚きつつ扉を開けると、間延びした口調の主は意外なことに若い女性だった。騎士の正装によく似た出で立ちだが、マントは無く、パンツに入ったラインも白色である。

 ボブカットの赤毛に、猫にも似た丸い緑の瞳がその快活さを物語っているように見えた。年の頃は20代半ば、女性としてはかなり長身な方だろう。軍人らしく日に焼けてはいるが、人懐っこい笑顔をした美人である。今も、そっと扉から顔を出したミコトを見下ろしてニカッと笑っている。


 「ども、初めてお目にかかります!ローワン様の従騎士を務めるヒルダ・エスクワーズっす!ローワン様?というかフルールの奴の命令で参りました!」


 「えっと…ヒルダ、さん?」


 「とりあえず緊急事態らしいので着いてきていただきたいっす!詳しいことは自分バカなので分かんないんで!」


 俊敏な動作で軍人式の礼をとったヒルダは有無を言わさず腕をとり、「え?え?!」と狼狽えるミコトを引きずる勢いで歩き出す。ミコトは慌てて呼び掛けた。


 「あの!私、面識のない方には着いて行かないよう言われてるんですが…!」


 情けない言い付けだが、情勢を鑑みるに守らない訳にはいかない。ローワンに散々諭されたのだ。


 「あ、そかそか、そうでした。これ、ローワン様の印章っす!」


 そう言って不意に立ち止まったヒルダは、その背に突っ込みそうになってつんのめるミコトの眼前に銀のバッジを差し出した。

 中心に配された両刃の剣に、向かい合って立つ一対の竜が吐く炎が絡み付く意匠は、非常に繊細に細工がされている。

 そこへ、あたふたと胸元から取り出した指輪を宛がうと、二つの凹凸がピタリと嵌まる。

 ほっと息を吐いたミコトに、ヒルダは「へー!」と感心したような声を上げてずずいと寄った。


 「これ、正真正銘の原印じゃないっすか!よっぽど心配されてるんですねー。ま、無理もないかー」


 たはーと不思議な笑い方を披露してくれるヒルダに、ミコトも釣られて苦笑した。

 互いに見せあったのは、ローワンの騎士印章である。騎士や貴族など特別な肩書きを得たときに個人で作るものであるらしい。特に先日ローワンに渡されたこの『原印』とやらはそのオリジナルに当たり、ローワンが持つ物を含めて三つしかないのだと言う。こうして使者や代理人を立てた時には、この原印と照らし合わせて真贋を判断する。


 そうして、ようやくローワンの部下だというヒルダへの警戒を解くに至って嘆息した。こんなに大事な原印を無くしてはたまらないと、再び胸元へ仕舞いこむ。


 (ほんと神経使うなぁ…)


 異世界での緊張感は、未だにミコトを苛む。今度は一体なんだろうかと、既に憂鬱な心持ちでヒルダに引きずられることになった。









 「すんませーん!ただいま戻りましたー!」


 「待ちくたびれたぞ木偶の坊。何故先に出たお前の方が遅いんだ」


 「えー、だって食堂で試作品があるって…」


 「馬鹿か貴様は!」


 「…二人とも後にしろ。すまない、ミーコ殿」



 ヒルダに導かれて扉をくぐった瞬間、目の覚めるような美青年から罵声が飛んできて目を白黒させる羽目になったミコトは、ローワンの一声にようやく救われた。

 青筋を立てていた美青年も、ハッとして姿勢を正し、ミコトに向き直る。


 「大変失礼いたしました。貴女様にはお初にお目にかかります。私はローワン様の従騎士、フルーレティ・アイスバーンと申します」


 どうぞフルールとお呼び捨てください、と畏まられて、ミコトもとっさに名乗り返した。ヒルダが背後でよろしくっすー!と暢気な声を上げるのを、フルールは見事なまでに無視している。


 改めて導かれた室内をこっそりと見回す。ローワンの執務室だというそこは、主の気質を表すようにシンプルな内装で纏められている。ミコトが入室したと同時に立ち上がっていたローワンが、手ずから椅子を薦めてくれた。


 「ヒルダはきちんと印章を示しただろうか」


 「あ、はい。こんなに早く使うときが来るとは思わなかったですけど…。何か、あったんですよね?」


 嫌な予感ほど当たるものだが、今回は想像以上に深刻な事態であるらしい。正面の椅子に腰を下ろしたローワンは眉間に皺を寄せ、元々愛想がいいとは言えない顔を更に渋面にしながら切り出した。





 初めて異変に気付いたのは、当然ながら神殿(ワイナリー)で暮らす子供たちだった。

 いつものように畑で働いていた彼らは、収穫を待つばかりとなった白葡萄(レザン)に僅かながらカビが生え始めているのを発見したのである。

 幸い未だに結実していない赤葡萄は被害を受けていなかったそうだが、程度は違えどほとんどの株でカビの被害が確認された。


 灰色のこのカビは、時折作物を害する農家の天敵であった。特に今年は朝の濃霧という特異な天候がしばらく続いており、恐らくそれが発生の原因であると考えられる。


 「カビ…?」


 「今は総出でカビの除去に当たっているそうだが、今年の収穫量が大幅に減少することは間違いない。病気が発生した以上、例年ほどの品質も期待できないしな…。ただ、一番の問題はそこではない」


 「事態が明るみに出てすぐ、一部の貴族派が騒ぎ始めたのです」


 言葉を継いだのはフルールである。報告書に目を落としながら、苦々しく口端を歪める。


 「身分制とその利権関係に保守的な立場を示す貴族達は『貴族派』、先王からの革新的な政策に理解を示す貴族達は『王族派』と呼ばれますが、今回の事態を貴族派が王族派を非難する絶好の機会と捉えたのでしょう。彼らは元々、神殿のデュラルムに絡む利権を孤児の育成に譲ることを良しとしていませんでしたから」


 「これ幸いと難癖つけて、子供に世話なんてさせるからだ、やっぱり管理はこっちに任せろって言いたいワケー?」


 うげー、と舌を出したヒルダを咎めきれずに、フルールはため息をついて続ける。


 「身も蓋もないがそういうことだな…。デュラルムの上げる収益は馬鹿にできません。手に入れられるとなれば、貴族派が好機を見逃すはずがない」


 ──そして、その批判の矛先は『賓客』にも向いた。


フルールは言い辛そうに一瞬口をつぐみ、遠慮がちにミコトを見遣った。


 「…彼らは今回の異変を、神罰だと言っているそうです」


 王の招き入れた得体の知れない女は、神聖なる神殿の畑に新たな作物を植えさせたという。傲岸不遜にも『救世の使徒』を名乗る痴れ者に、ガルド神はきっとお怒りなのだ──と。




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